16話「思い出せない記憶」
花のキーホルダーは、もう冷たくなかった。
朝の光の中で、祐介はそれを指先で転がす。
金属の輪は少し擦れていて、花弁の縁には小さな欠けがある。
――昔から、こうだった気がする。
そう思った瞬間、胸の奥が、わずかにざらついた。
「……あれ?」
理由が、分からない。
何かを思い出しかけたような気もするのに、
その“何か”の輪郭が、最初から存在しなかったみたいに消えている。
キーホルダーを握りしめても、
何も起こらない。
光らない。
重くもならない。
氷だった名残すら、感じない。
ただの、物。
「……もう、終わったんだよな」
誰に言うでもなく、呟く。
答えが返らないことは、最初から分かっていた。
祐介は靴を履き、外へ出た。
街は、いつも通りだった。
信号は正しく変わり、人はそれぞれの速度で歩いている。
あの交差点も、
あの道も、
何も変わっていない。
――変わったのは、自分だけだ。
そう思った瞬間、また、違和感が走る。
(……本当に?)
立ち止まり、周囲を見渡す。
けれど、欠けているものは見つからない。
代わりに浮かんだのは、
「思い出せない」という事実そのものだった。
悲しい、とは少し違う。
苦しい、と言うには、感情が足りない。
ただ、
“理由のない穴”が、胸の内側に開いている。
ポケットの中で、キーホルダーが触れ合う音がした。
祐介はそれを取り出し、太陽にかざす。
花の形は、少し歪だけれど、ちゃんとそこにある。
「……お前、なんだったんだろうな」
問いかけても、
答えは来ない。
それでも、捨てようとは思わなかった。
理由は分からない。
必要だという確信もない。
ただ――
持っていたい、と思った。
祐介はキーホルダーを戻し、歩き出す。
思い出せないままでも、
立ち止まらなくていい。
それを、身体のどこかが理解していた。
背後で、風が吹く。
けれど、もう振り返らなかった。
選択は終わり、
世界は、更新された。
そして――
理由を失ったままの“形”だけが、
今日も静かに、揺れていた。




