第15話「花の形」
戻る感覚は、落下に似ていた。
祐介は反射的に身構えたが、体はほとんど揺れなかった。
ただ、足元の感触が変わる。
――アスファルト。
夜の空気。
車の走行音。
遠くの信号機の電子音。
自分の世界だ。
「……戻った、のか」
息を吐いた瞬間、胸の奥に微かな違和感が残った。
何かを終えた感触。
そして、何かを失った感触。
ポケットの中で、硬いものが指に触れる。
祐介は立ち止まり、ゆっくり取り出した。
そこにあったのは――
小さな花の形をしたキーホルダーだった。
淡い透明感を残した素材。
光を受けると、ほんの少しだけ冷たい輝きを返す。
「……」
見覚えは、ある。
けれど。
(……なんで、これ)
大切だったはずだ、という感覚だけが残っている。
誰が持っていたのか。
なぜ大事にしていたのか。
そこが、すっぽり抜け落ちている。
胸の奥が、軽く軋んだ。
「……気のせい、か」
そう言ってポケットに戻そうとした、その時。
背後から、軽い足音。
「やっほー、無事帰還〜」
明るい声。
祐介が振り向くと、街灯の下にルシェルがいた。
黒い羽を畳み、いつもの軽い姿勢で手を振っている。
「……いつからいた」
「今来たとこ! ほんとに今!」
にしし、と笑ってから、花のキーホルダーに視線を落とす。
「それ、ちゃんと変わったね」
祐介は、視線を戻す。
「……これが、氷……だったやつ?」
「そ。元・氷、現・思い出の抜け殻って感じ?」
軽い口調。
けれど、冗談だけではない響き。
「もう力はないよ。
役目、ちゃんと終わったからさ」
「……そうか」
祐介は、それ以上聞かなかった。
聞けば、失った部分に触れてしまう気がした。
ルシェルは一歩近づき、少しだけ声のトーンを落とす。
「ね、祐介」
「?」
「ちゃんと自分で選んだ。
それだけは、間違いないから」
祐介は答えなかった。
答えられなかった。
選んだ理由も、選んだ結果も、
輪郭だけが残って、中心が抜けている。
それでも。
不思議と後悔はなかった。
「……ありがとな」
そう言うと、ルシェルは一瞬だけ目を見開いて、
すぐにいつもの笑顔に戻った。
「どういたしまして〜!
サービスは気まぐれだから、期待しすぎないでね?」
「サービス?」
「んー、内緒!」
くるっと背を向ける。
「じゃ、あたしはこれで。
あとは――普通に生きな」
歩き出したルシェルの姿が、街灯の影に溶ける。
「……なあ」
祐介が呼び止めると、彼女は振り返らずに手だけ振った。
「だいじょーぶ!
“何か”が引っかかったまま生きるのも、案外悪くないよ」
そのまま、姿が消える。
祐介はしばらくその場に立ち尽くし、
ポケットの中のキーホルダーを、ぎゅっと握った。
理由は分からない。
名前も思い出せない。
それでも。
花の形が、やけに胸に残った。
(……前に進め、ってことか)
そう思って、歩き出す。
夜の街は、何事もなかったかのように続いている。
――記録と記憶は、世界に残った。
――ただ一人分だけ、欠けたまま。
それでも、物語は止まらない。




