14.5 「氷が消えた棚」
ムネモスアトリエは、いつも通り静かだった。
棚に並ぶ氷は、どれも動かない。
光も、音も、主張しない。
カウンターの内側で、
ヴェルネシアは、
ひとつの氷の“空だった場所”を眺めていた。
そこには、もう何もない。
正確には――
観測すべき像が、完全に消えている。
「……終わったわね」
声は低く、淡々としている。
感情を乗せる必要がないというだけで、冷たくはなかった。
カウンターの上。
最後に残ったログが、静かに霧散していく。
事故の像。
削り取られた瞬間。
止められた過程。
そして、選択。
「綺麗な融縁だった」
そう言ったあと、ヴェルネシアは一瞬だけ視線を落とす。
「夢は……完全に消失。
記録も、想いも、可能性も。
氷としては、理想的な終わり」
その言葉に、
天井の梁の上から声が落ちてきた。
「うわー、ほんと容赦ない言い方するよねそれ」
ルシェルが、
梁に座ったまま、足をぶらぶらさせている。
「でもさ、悪くなかったでしょ?」
「ええ」
ヴェルネシアは否定しない。
「自分の記憶を差し出して、
世界側の欠損を補う。
あの氷が望んでいた“停滞の解除”としては、最適解」
「でしょー?」
ルシェルは満足そうに笑ったあと、少しだけ真面目な顔になる。
「……ねえ。
あの子、後悔するかな」
「するでしょう」
即答だった。
「人は、理由の分からない欠落に耐えられるほど、
合理的にはできていない」
ルシェルは肩をすくめる。
「だよねー。
だからさ」
梁から、軽く跳び降りる。
「ちょっとだけ、きっかけ置いてくる」
ヴェルネシアは、その動きを止めなかった。
「直接は?」
「しないしない。
“思い出させる”のはルール違反でしょ」
くるっと振り返って、笑う。
「でもさ、
引っかかる“何か”くらいは、サービスってことで!」
「……流れは?」
「壊さないよ。
むしろ、ちゃんと前に進ませる方向」
ヴェルネシアは一瞬、沈黙してから言った。
「あなたは、甘い」
「知ってる〜」
ルシェルは悪びれず、扉の方へ歩き出す。
「でもね。
ああいう選択をした人間が、
何も残らないって世界のほうが、私は嫌」
扉の前で、立ち止まる。
「観測者としては失格かもだけどさ」
ヴェルネシアは、氷の空白をもう一度だけ見て、答えた。
「……それでも、
あの氷は、あなたを選んだ」
ルシェルは一瞬だけ驚いた顔をして、
それから、いつもの明るい笑顔に戻る。
「じゃ、行ってくる!」
扉が開き、光が差す。
閉じたあと、アトリエは再び静寂に包まれた。
ヴェルネシアは、誰もいない空間に小さく呟く。
「物語は、更新された」
氷のない棚に、
新しい余白だけが残っている。
それを、彼女は“完成”と呼んだ。




