12話「触れた瞬間、欠けていた輪郭」
夕方。
祐介は、気づけばあの交差点に立っていた。
意識して来たわけじゃない。
ただ、足が――勝手に。
信号待ちの人混みの中。
誰もがスマホを見て、空を見て、前だけを見ている。
祐介だけが、足元を見ていた。
白線。
擦れたアスファルト。
花はもうない。
(……何度来ても、何も思い出せない)
胸の奥に、重たいものが沈んでいる。
ポケットの中で、氷が微かに熱を持った。
「……?」
祐介は、思わず立ち止まる。
次の瞬間。
世界が、ほんの一拍だけ“遅れた”。
音がずれる。
車の走行音が、映像より少し遅れて届く。
人の動きが、滑らかさを失う。
――違う。
世界が遅れたんじゃない。
自分だけが、外れた。
祐介は息を呑む。
視界の端で、誰かが走った。
小さな背中。
見慣れた癖のある歩き方。
「……葵?」
声に出した瞬間、景色が反転する。
交差点は、同じ場所のはずなのに――
色が、違った。
空が低い。
光が、やけに白い。
そして。
横断歩道の向こう側に、少女が立っていた。
制服姿。
少し長めの前髪。
いつも通りの、不機嫌そうな顔。
確かに――葵だった。
「……お兄ちゃん」
声は、はっきりと届いた。
祐介の心臓が跳ねる。
「葵……!?」
駆け寄ろうとして、足が止まる。
距離が、縮まらない。
何歩進んでも、彼女は同じ位置にいる。
「来ちゃだめ」
葵が言った。
責めるでもなく、悲しむでもなく。
ただ、事実を告げる声。
「……なんでだよ。俺は――」
言いかけた言葉が、喉で詰まる。
何を言おうとしたのか、分からない。
大事だったはずの言葉が、形を持たない。
葵は、少しだけ目を伏せた。
「それ、まだ言えないままなんだよね」
胸が、きしむ。
「……どういう意味だ」
葵は答えなかった。
代わりに、ゆっくりと祐介を見つめる。
「事故だったよ」
その一言。
世界が、ぐらりと揺れた。
音が消える。
色が剥がれる。
葵の輪郭が、崩れはじめる。
「待て! まだ――!」
祐介が叫ぶ。
手を伸ばした瞬間。
氷が、強く脈打った。
次の瞬間、景色は弾けるように消えた。
――現実。
クラクションの音。
人のざわめき。
夕焼けの交差点。
祐介は、歩道の端に膝をついていた。
息が荒い。
ポケットの中の氷は、静かだった。
さっきまでの熱は、もうない。
「……今の、なんだよ……」
夢じゃない。
幻覚とも、言い切れない。
確かに“そこにあった”。
(……事故だった)
その言葉だけが、頭に残る。
けれど。
それを言った“理由”も、
“過程”も、
やっぱり、思い出せない。
ただひとつ、確信できることがある。
――葵は、何かを言い残している。
――そして、自分は、それをまだ受け取れていない。
祐介は、氷を強く握った。
冷たさが、はっきりと伝わる。
逃げるな、と。
まだ終わっていない、と。
そんな感覚だけが、掌に残っていた。




