10話「思い出せないまま、前に進めると思った」
目を開けた瞬間、
祐介は自分の部屋に戻っていた。
見慣れた天井。
薄く差し込む夕方の光。
机の上には、いつもの教科書と、飲みかけのペットボトル。
――現実だ。
胸の奥に、わずかな安堵が広がる。
「……夢、じゃないよな」
手を開く。
そこに、氷はあった。
掌サイズのまま。
冷たく、静かで、
けれど確かに“在り続けている”。
「……連れていかれて、戻された」
言葉にすると、途端におかしな話だ。
知らない場所。
知らない存在。
それなのに、恐怖よりも――
「途中で切り上げられた」ような感覚が残っている。
(あの店……)
名前は、聞いていない。
思い出そうとすると、
輪郭だけが浮かんで、細部が定まらない。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
――“答えは、まだ出ていない”。
祐介は、ベッドに腰を下ろす。
氷を見つめる。
「……考える時間はある、って言ってたよな」
誰が、とは言わない。
あの軽い口調の少女。
そして、静かな目の“店主”。
彼女たちは、
葵のことも、事故のことも、
何一つ説明しなかった。
(なのに……)
不思議と、怒りは湧かなかった。
代わりに胸に残っているのは、
「自分で辿れ」と言われたような感覚。
その夜。
祐介は、久しぶりに夢を見た。
――横断歩道。
――信号。
――差し込む夕日。
そこまでは、いつもと同じ。
けれど、次の瞬間。
夢は、そこで“止まった”。
音がない。
時間が進まない。
ただ、景色だけが貼り付いたように存在している。
「……進めよ」
誰かの声ではない。
祐介自身の、苛立ちに近い感情。
一歩、踏み出そうとした瞬間。
夢が、砕けた。
目が覚める。
心臓が、早鐘を打っている。
「……くそ」
額を押さえ、息を整える。
夢の内容は覚えている。
だが、やはり――
“その先”だけが、ない。
起き上がり、カーテンを少し開ける。
外は、まだ暗い。
「……思い出せないままでも、生きてはいける」
誰かが言っていた気がする。
でも。
「……それでいいって、誰が決めたんだよ」
呟きは、部屋に落ちる。
返事はない。
だが、机の上で、
氷が、ほんの一瞬だけ光った。
同意でも、否定でもない。
ただ、
「まだ終わっていない」と告げるように。
祐介は、深く息を吸い、立ち上がった。
(逃げないって、言ったよな)
あの時。
氷に向かって。
なら。
「……まずは、自分で確かめるか」
何を?
事故の記録。
現場。
周囲の証言。
“事故だった”で済まされている、その中身。
氷を、ポケットに入れる。
冷たさが、確かな現実感を返してくる。
祐介は知らない。
この選択が、
再び“扉”を呼び寄せることになると。
物語は、
静かに、しかし確実に――
次の段階へ進み始めていた。




