9話「観測者たちは、まだ語らない」
扉が閉じた――
いや、正確には「最初から、閉じてなどいなかった」。
祐介が世界へ戻ったあと、
ムネモスアトリエには、何の変化も起きていない。
氷は棚に並び、
光は静かに脈打ち、
外層の空間は、相変わらず“余白”のままだ。
その中心で。
ヴェルネシアは、氷の板のような平面を前に立っていた。
透明で、薄く、
内部に淡い光の層を持つそれは――
観測盤。
映し出されているのは、祐介の世界。
横断歩道。
白線。
人の流れ。
そして、
“事故だった”という言葉だけが、何度も上書きされる認識の流れ。
「……欠落が、進行している」
ヴェルネシアの声は低い。
感情ではなく、事実としての宣告。
梁の上から、ぶら下がるようにそれを覗き込んでいたルシェルが、ふうん、と息を漏らす。
「進行、って言い方するってことはさ」
軽い調子のまま。
「最初から自然発生じゃない、って確定?」
ヴェルネシアは、しばらく答えない。
観測盤の表面に、細かな亀裂のような光が走る。
事故の“直前”。
事故の“直後”。
その間だけが、
ごっそりと、削ぎ落とされている。
「世界側の劣化ではない」
静かな断定。
「認識層を対象にした、意図的な編集」
ルシェルは、梁の上で仰向けになった。
銀白の髪が、重力を無視して広がる。
「やっぱり嫌いだなあ、こういうの」
赤い瞳を細める。
「結果だけ残して、過程を消す。
“納得しろ”って圧を、世界そのものにかけるやつ」
ヴェルネシアは、氷の棚へ視線を移す。
その中の一つ。
――祐介が持ち帰った氷。
「氷は、まだ応えを出していない」
「だね」
ルシェルは起き上がり、梁に腰掛けた。
「縁導しただけ。
縁契は、まだ」
それは、介入しないという選択。
助けない、という意味ではない。
「彼は、気づき始めている」
ヴェルネシアの指が、観測盤をなぞる。
「自分だけが、違和感を持っていることに」
「血縁と、現場目撃」
ルシェルが続ける。
「しかも、氷と相性アリ。
……条件、揃いすぎでしょ」
「だからこそ」
ヴェルネシアは言った。
「こちらから答えを与えるべきではない」
一拍。
「選ぶのは、彼自身」
ルシェルは、少しだけ真面目な顔になる。
「選ばなかったら?」
「その時は、その時」
冷たい判断ではない。
観測者としての、誠実な距離。
しばらく、沈黙。
やがてルシェルは、いつもの調子に戻る。
「ま、しばらくは様子見だね」
梁から、軽く飛び降りる。
「世界がどこまで誤魔化し続けるか。
氷が、どこで夢を見るか」
赤い瞳が、氷の棚を映す。
「――物語が、ちゃんと動くかどうか」
ヴェルネシアは、観測盤を閉じた。
氷の板は、光を失い、
ただの透明な結晶へ戻る。
「まだ、始まったばかり」
その言葉だけが、
アトリエの静けさに、確かに残った




