Chapter 2 ― 切られたのは、恐れではなかった
ショーが終わり、拍手と歓声が収束していく中、
ハーヴィー・リース博士は、舞台裏でひとり佇んでいた。
彼の額には汗がにじんでいたが、傷はどこにもない。
切られてもいない。流血も痛みも、何一つ残っていない。
だが、何かが確実に“なくなっていた”。
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「恐れ…じゃない」
博士は呟いた。
「私が怖がっていたのは、“切られること”じゃなかった……
“自分の命を、他人に委ねること”だったのだ」
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彼は長年、外科医として多くの命を救ってきた。
その中で、誰よりも冷静で、誰よりも正確で、そして――
「一度たりとも、自分の命を他人に預けたことがなかった」
舞台の上で、ブリリアンの手に身を任せたあの数分間。
心の奥にこびりついていた疑念。
「本当に誰かを信じていいのか?」という、硬く閉じた扉。
それが、あの**“箱の中”で裂かれたのだ。**
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舞台袖にいたスタッフが、静かに彼に差し出したのは一枚のカードだった。
♠ “The safest cut is the one that opens the heart.” ♠
– Brillian Shatt
彼はカードを見つめながら、しばらく無言だった。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「たった一晩の奇術で、
私は……30年間、触れようとしなかった部分を、見てしまった」
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数日後。
ハーヴィー博士は一通の手紙をブリリアン宛に送った。
そこには、たった一文だけが記されていた。
「ありがとう。私は今、初めて“切り開かれた人間”になれました」
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ブリリアンはその手紙を、劇場用のトランクにそっとしまい込む。
彼女の目には、微笑と、ほんの一滴だけ――涙のようなものが浮かんでいた。
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これは、ただの演出ではない。
命を預けるマジックではなく、心を明け渡す“手術”なのだ。
ブリリアン・シャットの奇術が“安全”と呼ばれるのは、
それが命を傷つけないからではない。
“人の心に、やさしく刃を滑らせることができる”からだ。