Prologue ― 黄金の箱と一夜の劇場
霧の夜だった。
ロンドン湾に近いカナリー埠頭。
錆びたレール、倉庫の影、コンクリートの裂け目に残る潮のにおい。
一見すれば誰も近づかない寂れた港町に、それは――忽然と現れた。
“黄金の箱”。
それはまるで巨大な宝石箱のように、静かに地面に据えられていた。
そしてその周囲に、ゆっくりと形を成していく仮設劇場。
まるで誰かが空気に指を通して描いたように、光と布と足場が重なりあって生まれていく。
人々は言葉も交わさず、吸い寄せられるようにそこへ集まっていた。
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招待状はなかった。
ただ、一枚のスペードのトランプが届いたという者がいた。
そこに刻まれていたのは、こういう言葉だった。
“This is the safest death you’ll never die.”
– Brillian Shatt ♠
「死なない死の瞬間」。
誰がそんな言葉を信じるだろう?
だが、それは確かにブリリアン・シャットの名で送られた。
彼女の名は世界を駆けていた。
姿は決して見せず、情報もわずか、けれど彼女が演じるマジックは――常に“現実を超えていた”。
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この夜の演目の名前は、すでに都市伝説になっていた。
「世界一安全な切断マジック」
「切断」は、奇術史の中で最も古く、そして最も危険な演目のひとつ。
幾度となく事故が起き、放送も制限され、舞台での演出も長らく“封印”されていた。
そんな“演目の禁忌”を、今夜、誰かが目撃する。
しかもそれが――安全だと言うのだ。
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劇場が完成した時刻、深夜1時。
ライトが落ち、音楽が止み、海の風さえも音を消した瞬間だった。
ステージ中央に、一筋の煙が立ち昇る。
そこに、黒いマントとトップハットの女が立っていた。
白銀の髪。微笑。紫の瞳。
そして――
完璧な“沈黙の圧”。
ブリリアン・シャットは、確かにそこにいた。
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観客が息を止めた。
そして、彼女は一歩前に出て、まっすぐに言った。
「Ladies and Gentlemen…
今夜、私が“切断”するのは、肉体ではありません。
あなたの、信じている現実そのものです。」
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舞台の中央に、黄金の箱が輝く。
それはまるで、生き物のように鼓動していた。
切るか、信じるか。
生きるか、驚くか。
観客100名の中から、今宵その“中”に入るのは、誰か――。