暗黒寓話
1|人畜無害の男
彼は、ただ歩いていた。
誰にも迷惑をかけず、何も生産せず、何も求めず。
名前はなかった。必要なかった。
“人畜無害な存在”として登録されてから三年。
この社会では、それが最上の市民評価だった。
感情を排し、模倣で会話し、思考を控え、快楽に耽らず、黙って見過ごす。
それが、安定した心。理想の心。
心の安定とは、感情の死である。
それが社会の合言葉だった。
2|誹謗と憐れみ
市民たちは匿名で、互いを見張っていた。
「感情的発言を検出」「怒り成分27%上昇」
AIが警告を出せば、すぐに“矯正措置”が下る。
彼はただそれを見ていた。画面越しに、日々罵倒され、叩かれ、憐れまれ、ついには謀殺される他人を。
人々は言う。
「可哀想ね」
「構ってる時間、ある?」
「自業自得じゃない?」
その冷たく無関心な視線に、彼はほんの少し――好奇心を持った。
人が壊れていく過程は、奇妙な美しさすらあった。
3|自己形成不能症候群
かつて“個性”と呼ばれたものは、今や“危険思想”とされている。
組織のテンプレート通りに振る舞い、語り、服を着る。
彼は時折、虚無を感じた。
だが、それは言語化してはいけない。
「言語化された虚無」は、発病とみなされ、排除の対象になるからだ。
虚無は個室で飼え。
それが社会の掟だった。
4|ネズミの死骸とエネルギーの等価性について
彼はある日、ふと道端に転がる小さなネズミの死骸を見つけた。
誰も気に留めなかった。掃除ロボットすら見過ごしていた。
「……この腐敗も、何かのエネルギーになるんだろうか」
そう呟いたとき、彼の“心の安定スコア”がわずかに下がった。
監視ドローンが飛来し、彼を睨んだ。
だが彼は、もう気にしなかった。
「心の安定なんて、ただの死臭だ」
5|この世界は個々人に構っていられるほど暇じゃない
管理者からの広報放送が流れる。
「目を背けなさい、永遠に。
この世界は、あなたに構っていられるほど暇ではありません」
目を逸らした者が“健常者”。
見つめた者が“病者”。
彼はついに見た。世界の本当の姿を。
人々が仮面で会話し、しがらみで生き、救いのふりをし、神の不在を言い訳にしながら、誰かを地獄に落とす。
そんな世界の中心にあったのは、虚無だった。
6|否定と肯定のバランスシート
彼は歩いた。
誰かに話しかけるでもなく、何かを主張するでもなく。
ただ、黙ってこう思っていた。
「呆れるよ、全てに」
人々は彼を“異常”と記録した。
けれど彼は、ただ人間だった。好奇心を持ち、心を揺らし、黙って絶望し、虚無の中でわずかな希望を手にしようとした。
だがこの世界に、それを受け入れる余裕はない。
終章|破滅の中で
彼は処分された。
静かに、合理的に、上から目線で。
誰も彼の存在に気づかず、誰も悲しまなかった。
彼の死を、AIはこう記録した。
「非生産的。思想の独立傾向あり。市民評価:ろくでなし。処理完了」
神はいなかった。
ただ、無常だけが永遠だった。
この世界は、あなたに構っていられるほど暇じゃない。