第1話 とある平凡な教室にて
殴られて、蹴られて、それでも痛くなかった。それが当たり前だったから痛みにも慣れてしまった。
「なに笑ってんだよ、泣けよ。泣け!」
そんな言葉も慣れっこだ。苦しむ人間、痛がる人間は彼らにとって格好の獲物だ。結局どこに行ってもそれは変わらなかった。優秀な生徒が集まる進学校を選んでも同じ。高校生になっても、彼らみたいな人間がいて、俺みたいな人間がいる。
独活の大木。
それが俺のあだ名だった。昔から人より少し体が大きかった。鈍臭くて、人と話すのが苦手だった。それに、苗字が宇道ときたら、俺が彼らの立場でも同様のあだ名で呼んだだろう。小学生の頃に足が速いとモテると言うが、逆側の人間がどのような境遇に陥るかにもまたお決まりがある。
いじめてもいい人間。いじめられても仕方がない人間。
それが俺の居場所だった。生まれてから今まで、俺がずっと居て良かった場所だ。
地面に蹲る俺を蹴りつけるのはさぞ気持ちがいいだろうと思った。この巨躯だから蹴りどころはたくさんある。どこを蹴っても、クリーンヒットの当たり判定が出るようなものだ。
親や家族、恋人との人間関係、成績や受験に向けたストレスはこのクラスにも渦巻いていた。鈍感な俺にすら、そのピリついた雰囲気は感じられたのだから、実際に彼らの中にあるそれは途轍もなく肥大していたのだろう。
俺を殴り、蹴り飛ばして、彼らのストレスが解消されるのなら、それでいいじゃないか。生まれを呪っても仕方がない。俺がこのようになることは、遺伝子が決めていた。平和な社会を築くための、暴力の捌け口として、俺は礎となるしかないのだ。
諦めて、諦めて、諦めて、全く痛みを感じなくなって、俺はただ笑った。
「男ならいちいち泣くんじゃない!」
「どんな時でも笑っていなさい」
小さい頃、傷だらけで帰った俺に、両親が言った。俺は全く納得してしまった。どんなに痛くても、苦しくても、笑っていれば全てが上手くいくのだと信じて、それを呪詛のように胸の奥に縛り付けて、生き方を決めてしまった。実際、俺を殴った同級生がそれでもにこにこと笑う俺を見て、「気持ち悪い」とその手を止めた。それ以来、それが俺の正解になった。
不思議なことに、笑っていると気持ちが楽になることもわかった。苦しい時に苦しい顔をしているよりも、痛い時に泣いて叫んでいるよりも。その逆、どんな時も笑っていることが、俺の生き方の基本戦略となった瞬間だった。
だから俺は狂って笑ったわけではない。その手を止めろと言いたいわけでもない。憐れんで欲しいわけでも、慰めて欲しいわけでもない。どうか、その暴力が、俺のような人間にだけ向かってくれることをじっと願うのだ。
「やめなさい!」
「宇道くんはマゾだから喜んでるんだよ? なあ?」
「そんなわけないでしょ!」
瀬戸伊織。幼稚園から同じ学校に通う幼馴染。今日も仲裁に入ったのは彼女だった。いわゆるモテる女生徒。クラスのカーストのトップを走るべき彼女は、暴力に直接、間接を問わず加担するか、無関係を装うのが最善だろう。正義感を振りかざす役は、彼女に与えられた役割であるべきでない。
彼女が声を上げると、ちらと視線を上げた生徒もいた。数秒間の沈黙の後、男子数人が嘲笑のように肩をすくめ、女子たちの一部は「またか」といった空気で目をそらした。誰も彼女を助けようとはしなかった。それでも彼女は一歩、前に出るのだ。
俺には彼女のような人間がいることが奇妙に思える。与えられた役割を淡々とこなす事が大切なのだ。ただ、その行動に対して、悪い気がしないのは、俺自身が自らの役割に不誠実で、まだ不真面目であることの証左でもあった。
彼女のような人間が、優しさと幸福とだけに包まれた道をただ真っ直ぐに生きていけるように俺という人間がいるのだ。
「……きみは関係ないのだから、もうどこかに行ってくれ」
俺はのっそりと立ち上がって言った。先ほどまで俺を蹴り付けていた連中が急に小さく見えた。伊織は、そんな彼らよりもずっと小さかった。ここは日本だから、二メートル近くある俺の身長は、異常値だった。周りの大人しい生徒たちが、恐怖と哀れみの表情を浮かべているのがよく見えた。三十人ほどの人間が、多かれ少なかれ、その視線を俺に向けた。
これでいいのだ。ここが俺の居場所なのだ。
「気は済んだかい?」
切れた唇から滲んだ血を拭いながら尋ねた。きっと、彼ら全員の目に映っているのは怪物じみた奇妙な男なのだろう。それもまた彼らの瞳の揺れから見てとれた。
彼らの無言を了承と受け取ると、俺は背を向けて教室の出口へと歩き出した。のっそりとした足取りで進む俺を、伊織は追いかけて何かを言いかけた。
その時だった。
教室の床が怪しく光り始めて、奇妙で複雑な紋様が一面に広がった。急な異変に、窓際の席の女生徒たちが悲鳴を上げ、男子たちの一部は椅子を倒して逃げ腰になった。震える声で「何かの悪ふざけだろ」と呟く者もあったが、その言葉すら教室のざわめきに飲まれていった。天井の蛍光灯が明滅し、黒板が軋んだ音を立てると、誰もが口を閉ざし始めた。
グラグラと全体が激しく揺れ始めると、あっという間にパニックが場を満たした。ある者は悲鳴を上げ、またある者は言葉を失い、またある者は机の下に勢いよく飛び込んだ。普段ならスマホで撮影を始める者もいただろうが、それを許さない異常が教室を満たしていたのだ。
俺は転びそうになる伊織の手を咄嗟に掴んでいた。
紋様は垂直に浮かび上がり、俺たちの全身をすっぽりと包み込んだ。その時、ガツンと揺れた。俺はバランスを崩し、掴んでいた伊織の手をつい離してしまった。後ろ向きに倒れ込む俺の手を伊織が必死に掴もうとする姿が見えた。
それがあの世界で、最後に見た光景だった。