安定区画
光の壁を抜けると、そこは全く異なる空間だった。
「ここが…安定区画?」
目の前に広がるのは、まるで中世ヨーロッパの街並みのような光景。石造りの建物が整然と並び、通りには活気があふれている。空には正常な青空が広がり、さきほどまでの狂った風景が嘘のようだ。
「はい!ここなら当分は安全です」
アリスは胸をなでおろすように安堵の表情を浮かべる。その仕草があまりにも人間らしく、違和感を覚える。周囲を歩く人々の頭上には、「NPC」や「PLAYER」という文字が浮かんでいる。
「あの、アリスさん」
「なんですか?」
「どうして僕の頭上には何も表示されていないんですか?」
その質問に、アリスは一瞬、眉をひそめた。何かを言いかけて、また別の言葉を選び直すような表情。
「それは…まだシステムがあなたを認識できていないからです。本来なら『PLAYER』として登録されるはずなんですが…特別な状況なので」
「特別な状況?」
「はい。通常、この世界への『登録』には厳格な儀式が必要なんです。でも、あなたの場合は…」
アリスは言葉を濁し、視線を逸らした。その仕草に、何か重要な秘密が隠されているような気がした。
「とりあえず、宿屋に向かいましょう!」
話題を変えるように、アリスは僕を街の中心部へと案内し始めた。
石畳の通りを歩きながら、ふと母の顔が脳裏に浮かぶ。今頃、僕がいないことに気づいているだろうか。
「汐さん?大丈夫ですか?」
アリスの声で我に返る。彼女の瞳に、本物の心配の色が浮かんでいた。NPCのはずなのに、その感情は偽りようのないほど生々しい。
「ごめん…ちょっと、家族のことを」
「私にも、似たような気持ちがあるんです」
アリスの言葉に、僕は足を止める。
「この世界のNPCは、皆『設定』として家族や過去の記憶を持っています。でも、それが本当の思い出なのか、プログラムなのか…」
彼女の声が震える。
「時々、怖くなるんです。私の感情は本物なのか、この世界での絆は意味があるのか…」
その告白に、僕は言葉を失う。アリスは慌てて笑顔を作る。
「ごめんなさい!暗い話になってしまいました。宿屋に着きましたよ!」
建物の前で、アリスは少し表情を引き締めた。
「明日から始まる『登録』の儀式について、説明しておかなければいけないことがあります」
「儀式?」
「はい。通常、この世界で正式な存在として認められるには、三つの試練を乗り越える必要があります。でも…」
アリスは周囲を警戒するように見回してから、小声で続けた。
「あなたの場合は特別です。もし登録の過程で何か問題が起きたら、すぐにこの世界から『消去』されてしまう可能性があります」
その言葉の重みが、僕の心に沈んでいく。
宿屋の部屋で一人になった後も、アリスの言葉が頭から離れなかった。窓の外では、夕暮れの街に灯りが灯り始めている。
ベッドに横たわり、天井を見つめながら考える。両親のこと、リョウのこと、そしてアリスの告白。現実と仮想の境界線が、どんどん曖昧になっていく。
(これが夢だとしても、この感情は本物なんだ)
アリスの言葉が、妙に心に響く。明日からの試練への不安と、新しい世界への期待が入り混じる中、僕は静かに目を閉じた。
窓の外で、誰かが歌うような声が聞こえる。まるで子守唄のような、でもどこか切ない旋律。それは、この世界の誰もが抱える「存在」への問いのように、夜空に溶けていった。