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2-3 如法暗夜のムスカリ

「分かっているとは思うが────」

「…………」

 うんざりする前置きから続くはずの言葉はない。さしずめ、帰宅したばかりの娘の、明らかな異変に気付いたからだろう。いつもこうなら楽でいいのに。

 動揺。次いで、ぶつぶつと譫言(うわごと)をいくつか。あたふたしている父の顔を見るのは初めてのことだった。

「ふふっ、どうしたの。ほら、()()()()言ってよ。なんで二の句が継げないの?」

 靴を脱ぎながら馬鹿にした口調で私が煽ると、眼前で葛藤が浮かぶ。いつも理不尽な怒号は珍しくオブラートに包まれて送られてきた。

「椿! 親に向かってなんだその言い方は! 俺は、これでもお前に気を遣って…………!」

 鼓膜が悲鳴を上げる。いっそ破れてしまえばいいと思うのは、これで何度目だろうか。

「あら、ごめんなさい。お気遣いどうも。十数年ほど前にそれが出来ればもっと良かったのだけれど」

 歪む顔。不格好な梱包は五秒も持たなかったようで。

「どういう意味だ。誰がお前をここまで育ててきた!」

 言わなくていい言葉が、言わせなくていい言葉を引き寄せる。覚えたての気遣いは早速忘れてしまったらしい。

 あぁ、嘆かわしくて涙が出る。我が父の脳みそはきっと昔よく見た青いイルカ(カ〇ルくん)と同じくらいの性能だろう。

「考えてから聞きなさいよ。誰があなた達の介護をするの?」

 刹那、聞き慣れた咆哮。絶妙な耐久力で、やはり鼓膜は破れない。

「あなたはいつもそう、『椿、勉強しなさい。椿、どこそこの学校に受かりなさい。椿、将来は何とかになりなさい』。いつもそう、『あの子とは遊んじゃダメだ。もっと別の子と遊びなさい。遊んでる暇なんてないだろう』。何かあればいつもそうよ、『椿、お前の為を思って言ってるんだ』…………!」

 反射的に浴びせた叫び。鞄を父に投げつけ、その無駄に厚い胸へ拳を叩きつける。二度、三度。鉄のような感触。初めて娘が露わにした感情に戸惑っているのか、狼狽えた声音で名前を呼ぶだけで。

「…………ごめん、分かってる。今日ちょっと変よね。学校で、その、色々あって」

 見飽きた顔を視界に映さないまま、胸の中でため息をひとつ零す。

「いや、俺も言い過ぎた。────何があったかは聞かんが、パパでも力になれる事があれば呼びなさい。()()()はないからな」

 父はそう言って二度、背中を優しく摩ると、私の鞄を足元に置いてリビングに戻る。自室へと続く階段をゆっくり上がっていく。怪我をせぬよう慎重に、というより、単に身体が重いだけ。鉛のようにずっしりと。

 フローラルな香りに包まれた白とピンクの籠。いつもなら多少のリラックス効果を授けてくれる花たちは、今日(こんにち)限りで口を閉ざしたらしい。

 勉強机に置かれた正方形のオブジェクトに目線を落とし、自然と手に取る。想い馳せる、少年の姿。

 私という者がありながら、他所の女に(うつつ)を抜かすなんて。まったく。

 携帯が鳴る。相手の名前を想像しながら、静かに電話を取る。声の主は、ぴったり想像通りの女性だった。

「hello」

「……あなた元気そうね」

「んにゃ、どーなんでしょ」

 いつもの軽快な口調で花梨ちゃんが返す。精神的なダメージを受けている様子はない。私が用件を聞くと彼女は言葉を続けた。

「いやぁ、傷心中のとこホント悪いんですけど、なんか話してみたくなって。ほら、あたしら浮気サレ友じゃないですかぁ」

「────そうね。ほんと最低、ふふっ」

 否定できない事実に苛立ちを超えた笑みひとつ。どちらが彼の本命だったのか、それぐらいはっきりさせて置けば、やり場のないこの気持ちも、少しはマシだったろうか。

「今どんな気持ち? ねぇ今どんな気持ち?」

「切るわよ」

 おかしい…………扱い的には同じ筈なのに、この子は一体どんな神経してるんだろう。精神構造がまったく読めない。私は結構ズタボロなんだけど。

「明日」

 彼女は静かに切り出す。ゆっくり、はっきりとした声で。

「明日からどんな顔でコミュニケーション取ればいいんでしょ?」

 彼女の疑問に答える術を私は持ち合わせていない。私だって同じ悩みを抱えているのだ。

「どんな気持ちで顔合わせりゃいいんでしょう?」

 深刻そうに語る彼女に私は落ち着いて告げる。

「知らないわよ。分からない」

 一度、突き放し。二度目は振り絞るように。

 少しの間を置いて彼女は問う。

「あの人の事、()()()()()?」

「っ、あなたねぇ……!」

「あー、いや、流石に今のはデリカシーなさすぎでしたね。忘れてください」

 すみません、と似合わない謝罪を彼女が口にして、微妙な空気だけが流れる。私は聞かれてもいない短い思い出を彼女に語る。何故そうしたのか、多分その答えは半分が聞いて欲しかっただけで、もう半分は醜いマウントが取りたいだけ。

「仲の良かった金木くんが転校しちゃってあの子すごく落ち込んでね。柄じゃないのに勉強とか頑張っちゃって……」

 忘れもしない、あの日の記憶。名前も知らない、どこで取ってきたかも分からない、変な形の花を片手に話す少年を。

 子犬の息遣い、トマトのような頬、ビー玉の輝きによく似たつぶらな瞳。

 軟禁されて勉強するだけの退屈な日々に、いつもちょっとした(いろどり)を与えてくれる。私の清涼剤。従弟の賭を────。

「貰って欲しい。つば姉じゃなきゃダメなんだ」

 突然押されたインターホンに導かれ、玄関開けたらすぐ生花の手渡し。どこで学んで来たのか分からない気取った、拙くもちょっぴりかっこいい台詞。

 昨今のドラマでもそんなくさい言葉はまず聞けないだろうに。

 子供はいつも知らない所で大人になると言うが、私よりみっつも年下の癖に、いつの間にこんな大人へ成長したのだろうか。

「…………」

 差し出された赤紫の花は、正直に言えば趣味ではないし、ピンクと白を基調とした私の部屋にすごくマッチしているビジョンも全然思い浮かばない。パステルカラーの淡くて可愛い感じの奴なら気兼ねなく飾れて素直に大喜び出来たのだが、貰い物である以上は贅沢など言ってられないだろう。

 サプライズを嫌う人間の心理が、今なら痛いほど分かる。

 どうしてこれを私に、と聞くのはやはり野暮で意地悪だろうか。

 答えに困って涙目であたふたしている彼の姿は、想像するだけでご飯三杯イケるぐらいとってもキュートなのだけど、こんな台詞をさらっと吐けてしまう辺り、もうそんな場面が二度と見れなくなってしまった可能性もなくはない。

「ありがとう。じゃあ、このお花はお姉ちゃんが貰うわね。後で『やっぱり返して』って言っても絶対返してあげないんだから。で、お代はいくらしたの?」

 小さく柔らかい腕に両手でそっと触れて花を抱き締める。

 悪戯な微笑みと煽りで気が変わる事を少し期待しての事だったが、そんな私の思惑とは裏腹に彼は優しく言った。

「言わないし、いらない。つば姉に大事にして欲しいから来たのにさ」

 無垢な笑顔、何気ない言葉。心臓が締め付けられるような感覚に襲われる。

 …………この生き物を保護しなければ。

 何か適当な理由を付けてこの子を部屋で飼おうとしたら、伯父様と伯母様に怒られるだろうか。なんて馬鹿な考えを巡らせていたら彼は「あ、でも」と何かを思い出したか、慌てて補足する。

「今度さ。前に話してた、つば姉の行こうとしてる学校について教えてよ」

「が、学校? 別にいいけど、楽しい話なんかないのに」

 早い、とても気が早い、ウチの両親か! 間違いなく相縁学園だろう。家から近くて私服が許されてるだけの、まだ見学すらした事のない進学校の話など、小学五年生相手に面白可笑しく話せる訳がない。

「────学校なんて楽しい訳ないだろ」

 いつもと違って吐き捨てる物言いが気になって、何か事情があるのだとすぐに分かった。明るかった彼の顔が下を向く。このまま放っておけば一分以内に目を赤く腫らしてしまうだろう。

「賭?」

 まずは声を掛ける。名前を呼ぶだけで、用件は何も言わない。五秒ほど待っても彼からの返事がないので、再び名前を呼ぶとそこでようやく彼は口を開いた。

「今日転校したんだ、犀」

 金木犀。賭といつも一緒に遊んでいる、女の子みたいに可愛らしいお友達。私も賭と一緒によく面倒を見た事がある、頼りない感じだけど礼儀正しくて良い子。

 落ち込んでいる理由はこれか。

「そっか……悲しいね。賭、仲良かったもんね。けど前から知ってた事なんでしょ?」

「聞かされたのは昨日、大人の都合だってさ。あいつ、行き先も言わないまま消えやがった」

 俺たち親友じゃなかったのかよ、と悪態をひとつ振り絞る賭。

 私は彼の背中を黙って引き寄せる。僅かに湿った腹部と震える温もり、チクチクとこそばゆい黒髪の感触とくすぐったい鼻息。鉄みたいに硬い上腕二頭筋。

 窒息してしまわないよう優しく抱きしめた手をひとつあけ、汗で塗れた頭にそっと触れ、ゆっくりぐるぐるかき混ぜる。

「遠くに行っちゃって悲しい?」

 私が問うと腹の中で彼の顔が横移動をする。

「じゃあギリギリまで言ってくれなかったのが悔しい?」

 再び問うと彼の顔はまた横移動を繰り返す。

「もう一緒に遊べなくなって寂しい?」

「…………むかつく」

 腹部に吹き込まれる四文字。いかにも子供っぽくて、根は優しい彼の心情をよく表した言葉。

 直情的なこの子は、他人を恨むなんて事はしない。誰かを恨んでいる暇があるならそのまま殴りかかってしまうタイプ。

 金木くんにも何か考えがあってギリギリまで賭に打ち解けなかったのだろう。さしずめ、家まで来てしつこく引き留められるとでも考えたのだろうか?

 いくら賭が子供(ガキんちょ)だからと言っても、どうにもならない事ぐらいは分かっているだろうに。

「そっか。…………でもね? 金木くんだって賭と(はな)(ばな)れになりたくてなってる訳じゃないんだから、そんな事言っちゃ可哀想よ」

 彼は宥める私の腹からバッと離れて言った。

「違うよ、つば姉。むかつくのはあいつの親と俺自身だ」

「ご両親? でもご両親と賭は何もしてないじゃない」

 ゆっくりと一音ずつ噛み締めるよう、彼は語る。言葉尻に近付く度、震える声。揺れる眼。

「俺、知ってたんだ。あいつが父親に暴力振るわれてるって。知ってたんだ、あいつが笑ってられたのは俺と一緒の時だけだって。分かってンのに止められなくて、分かってンのにいてやれなくて」

「────賭」

 私が間違っていた。賭は金木くんに何も怒ってなどいなかったのだ。

 見当違いで浅はかな想像をしていた自分が嫌になって、何より彼の底なしの優しさに胸が締め付けられて。私は目一杯に彼を抱きしめる。

 この小さな体躯に一体どれだけの慈愛と屈辱が詰まっているのだろう。所詮、第三者(私なんか)では想像する事しか出来ない。「苦しかったよね」、「辛かったよね」、なんて上辺だけ添えたところで焼け石に水というものだ。

 厳烈な我が父なら「優しいね。だがお前には関係ない事だ」と冷たく告げるのだろう。

 愚劣な我が母なら「悲しいわね。彼の無事を祈ってあげましょう」とにこやかに語れるのだろう。

 否定する気は毛頭ない。ただ、酷く他人行儀だ。ただ、酷く思いやりに欠けている。

 わざわざ小さな子供が困っているのに冷たく突き放すなどと、人間の癖に四足歩行動物レベルの教育方針とはいかがなものか。ご立派な口は飾りか、豊富なボキャブラリーはアクセサリーか? こんな時に活用しなくていつ使うというのだ。

 唇を噛み、瞬きと共に深呼吸。

「賭、しっかり泣きなさい」

 それが、迷いの果てに選んだ言葉。

「一生分、泣いてしまいなさい。そしたらそれで、もうおしまい。いい?」

 (よわい)十三の私ごときが出せる精一杯のアドバイス。きっと込められた意味に気付かないだろうけれど、別に構わない。ひとしきり泣くだけでも人間、意外と何とかなるものだ。…………それが許されない私には、少し羨ましいくらい。

 返事の代わりに再び訪れる腹部の温もり。離してはいけない、離したくない確かな懐炉。鏡など見なくとも今の自分の姿は“抱卵”のそれだと理解していて。出掛かった溜息を飲み込む。

 中学二年になったばかりの、ある春の事だ。

「……自分の勉強の合間に賭の勉強を見て、見事に合格させた。付き合ってからは遊園地にも映画館にも行ったわ。私、とっても楽しかった。これからって時に、この仕打ちよ」

 長い回想と自分語りを経て、詰まる胸。

「前に言ってた遊園地とかの話って先輩だったんですね」

「そういうあなたも賭の話だったんじゃない?」

「仰る通りでごぜぇますよ。この扱いの差はなんですか」

「うちの従弟が…………なんかごめんなさいね」

「謝んないでくださいよ。別に怒ってないですし」

「本当?」

 逆の立場なら、私は怒る。

 家でゲームして、後味の悪い映画を見て、はい終わり。彼女というより、ただの男友達の休日だ。

 あの子はまったくもって、人の心を、分かっていない!

 だってそれはつまり、あなたとのデートに使うお金も、計画を立てる時間すらも全部無駄って言ってるのと同義じゃないだろうか。家でゲームしてお喋りするだけなんて、もちろん否定する気は毛頭ないのだけど、わざわざ男女が貴重な時間を割いてまでする行いかと問われると、首を縦には振りづらい。

 …………()()()()にそんな雑な仕打ち、するだろうか?

(キャミ)に誓って本当(ほんとー)です。嘘言うメリットないですし」

 独特なアクセントを付けて彼女は言う。いつも通りの軽快な口調から感じ取った余裕。どうやら真実らしいが、それはそれで女としてどうなのだろうという疑問は伏せておくべきか。

「────あ」

 ふと、窓に映った自分を見つけ、血の気が引く。

「どうしました?」

「…………何でもないわ。悪いけどそろそろ晩御飯にしたいから切っていいかしら?」

「あ、はい。椿先輩のとこって晩飯早いんですね」

 彼女が聞きたくなるのも無理はない。時刻はまだ午後六時を少し過ぎた頃。一般家庭の夕食時間というにはまだ早い。

「そ、無駄にね」

 一言残して私は電話を切り、携帯を布団へ投げると窓に映る自分を見つめる。

 輝きを放つ目、盛り上がった頬。それらをゆっくりニュートラルに戻して。深いため息を吐いた。

 ごめんなさい、花梨ちゃん。私は最低な女です。






 最後にひとつ残ればちょうど良かった三人との色恋は、いきなり砂上の楼閣となってしまった。

 みんなで集まっていた屋上はずっとガラ空きのままで、休み時間になったら逃げるように一人で食事を取る。正確にいえば、俺の遠くに花梨もいるが、話すことも話しかける気概もない。風の噂によれば、つば姉は勉強が忙しいらしく、杏と日脚は教室でいつも二人の世界を展開しているとか。

 俺がみんなと積極的に関わっていく事はないまま。挨拶を交わして、各々が自由に昼食を取り、ただ業務的に勉強をこなす日々。

 騒がない花梨、眠らずまじめに授業を受ける日脚、どこか纏う雰囲気が変わった杏。

 必要最低限の会話、やや広めに取られたソーシャルディスタンス、何の変哲もない視線。日常会話もするし、無視など以ての外。ただ、怒らない。嘆かない。

 いつも自分が集めていた注目が、掛けられていた声が、自然と流れるよう、日脚にだけ降り注ぐ。数歩あるけば余裕で届くみんなとの距離、それが何故だか果てしなく遠く感じて。時が経つ。

 俺たちを取り巻くぎこちない空気など関係なく、ただ秋が過ぎていき。寒風に運ばれた何とも言えない不安が肌を撫でる。校内のどこにいても人の視線、特にどことなく女生徒の冷ややかな目を感じるようになり、胃が痛くなる。

 ずっとこのままなんだろうか。

 一体何を間違えた、一体どこで間違えた?

 分からない。今の自分には理解出来ないという事しか。

「──────」

 脳裏に過る記憶の欠片たち。頭を揺さぶって振り落とす。

 …………いや違う。今はっきりしているのは俺が悪いという事だ。謝っても到底許される状況じゃないって事だ。

 どれだけ綺麗な論理を振りかざそうとも、それは彼女たちには何の関係もない話。

 でも、じゃあどうすればいい?

 冷え切った部屋の中、ひとり途方に暮れて数時間。鼻をかんだティッシュを無駄に小さく丸めてゴミ箱へ叩きつける。気は晴れないまま。

 面白みのない宿題を睨んで、その度に掻き毟った身体は激しい痛みを訴えかけるが、それすら至極どうでもいい。

 日数だけが経過していく。ぼんやりと冬を感じる。日脚と杏は見せつけるように手を繋いで帰り、心底怠そうに背中を丸めて帰宅する花梨を目にする。その繰り返し。

 一日の初めから終わりまで、孤立状態。

「明晰夢って、知ってる? 夢の中で『これは夢だ』って気付く奴」

「……あー、お前の特技な。夢ん中でそれ言う奴ぁ(オセアニアじゃあ)初めてだわ(常識なんだろ?)

 眼前の犀に返す。所々ぼんやり靄が掛かった状態でも、ここがあの忌まわしい小学校の教室だとすぐに分かった。

「なあ犀、どうすりゃいいかな」

 偽物の親友に情けない問いをひとつ。

 本物は未だ行方知らずなのだ。この際、偽物でもいい。

「昔やったの覚えてる? 背中に文字書いて当てる奴」

 頷く。懐かしい記憶が蘇る。

 相手の背中に指で文字を書いて当てる、あのゲームか。

「一緒だよ」

 笑って話す犀。

「……意味分かんね」

「眼鏡は外せってこと!」

 刹那、繰り出される。顔に似合わない強烈な殴打。

 飛び起きて迎える、ぐっしょりした汗の感覚。溜息を吐いて、瞼を擦り、頭を掻きじゃくって。シャワーを浴びながら物思いに耽る。

 夢とは、支離滅裂な殴り書きだ。間違っても、意味など求めてはいけない。

 脳裏を過る、夢での言葉。

「…………一緒、か」

 フラッシュバックする、別れる前の杏の話。

『別に好きじゃない。ただ縋りたいだけ』

 意味などない、意義などない。それでも今は、縋りたい。

 熱々のシャワーで全身を赤く染めて学校へ。

 普段通りに学校生活を終えて下校に差し掛かった時、俺は呼吸を整えてから花梨の元へ急ぐ。教室に彼女の姿はなく、闇雲に走り回って、酸素と共に取り込まれる冷気が喉と肺を凍らせる。諦めて日を改めようと校門まで歩いていた時、今まさに帰ろうとしている花梨の後ろ姿が見えて叫ぶ。

 名前を呼んだのは、実に一ヵ月以上振りだった。

「なんですか、先輩」

 ビクンと止まった身体の動きから、一瞬の動揺を読み取る。花梨はこちらへ身体を向けると仏頂面で短く聞いたので、俺はうるさい心臓の鼓動をなるべく意識しないよう、慎重に言葉を紡いだ。

「話がしたい」

「楽しい話ですか?」

 すぐに来る返事。ギラついた眼光。

「……いや」

「じゃ、いいです。楽しい事だけ考えて生きたいんで」

 速足で俺の前から立ち去ろうとする花梨。反射的に手首を掴む。

 彼女はこちらを一瞬睨むと心底嫌そうに顔を歪め、「なんすか。痛いんですけど」と低い声で聞く。

「────あ、っと、その、悪い。でも花梨にどうしても聞いて欲しいんだ」

 慌てて放す手。花梨は少し赤くなった手首を気にしながら話す。

「じゃあさっさと本題入って下さいよ。ほらどうぞ」

 掌をこちらへ向けて花梨は目を瞑る。しっかり花梨の方へ視線を向け、頭を下げ。

「ごめん、俺が悪かった」

 誠心誠意の謝罪。

 頭はそのままに恐るおそる彼女を見つめる。

 顔色に変化はなく、頭頂部の特徴的なアンテナ一本すらピクリとも動く素振りはない。無言の間が無限にも思えるほと続く。

 今、何を考えているのだろうか。

「…………あ、終わりました? そーっすね、お疲れ様でーす」

 聞き終えた花梨は踵を返してそそくさと帰り始める。聞く姿勢ではなく、()()()()対応。きっと、今まで自分が他人にして来た、態度。

 実際にされるとこんなにも心が痛いとは思いもしなかった。

 足音が遠くなっていく。止める術はない。

「許して欲しいって言うなら」

 校門を出る寸前で花梨が立ち止まる。背を向けたまま、顔を見せないよう。

「先輩の事、許してますよ。あたし別に怒ってないですし、こうしてちゃんと口だって聞いてるでしょ。だから気にしなくていいです」

「でも、その。呆れてる……だろ」

 花梨は俺の言葉に振り向くとまっすぐにこちらを見て、強く肯定する。

「はい。最初はあなたに。そして今は他の誰でもない、あたし自身に」

 言葉は続く。

「あたしは、いつかのあなたに暴力を振るいました(恋をしました)さあ受け止めろ(恋人になってください)脅迫(告白)までして、力の限りに目も当てられないような、悍ましい光景(いま現在)を作り上げた。作り上げてしまったのです。自分から殴っておいて苛立ちを覚えるなど、お門違いにも程があるって話ですよ」

「……それでも、ごめん」

 花梨は「謝んないで。うぜぇです」とため息を吐くと俺に問う。

「ねえ、先輩。そもそも好意って何なんですかね? この一か月と少しの間、あたし色々考えたんですけど答えが見つかんなくって」

 向けられる微笑み。

 似合わない、痛々しい笑顔。花梨は話を続けながらどんどん近づいてくる。

 好意とは、か。改まって言われると難しい。俺だって聞きたいぐらいだ。

「中学校の屋上で初めて出会ったあなたは、他の人と違ってあたしに温かく接してくれた。今なら分かります。重ねてたんですよね、金木って人とあたしを」

 思い出す、彼女とのファーストコンタクト。屋上で一人昼食を取っていた彼女の姿と、それを追ってきたしつこいクラスメイトたちの姿。弁当に唾を吐き掛けられ、髪を引っ張られ、箸の持ち方から家庭環境まで好き放題言われる彼女の姿が我慢ならなくて。後輩たちをボコボコにしたあの日。

「あなたにはあなたの理由があったけど、あたしにはそんな事どうでも良くて。ちゃんと話を聞いて、ちゃんと向き合ってくれて、居場所までくれて。それがとても嬉しくて、何より心地よかった。同じ学校を目指すと言った時、あなたはいつも家にいない両親の代わりに勉強を見てくれた。嫌な顔ひとつせず、傍にいてくれた。……どれだけあたしが救われたか、あなたはちっとも分かってない」

 優しい声音で涙を溜め、ひとつずつ噛み締めるよう重ねられていく言葉たち。

「好意とは何か、だったな。分からん、それが答えだ」

「…………え、なに。じゃあ分かんない状態で、ただ言われるがまま()()してたって事ですか」

 花梨は眉間にしわを寄せて数秒こちらを睨む。何かを言いかけた所でそれを止め、代わりに出された、もう何度目かの深い溜息。たっぷり溜まっていた涙は一瞬で枯れたらしい。

「ようやく分かったんです。分かっちゃったんです、あたし」

 彼女は笑って、答えを突きつける。

「自分にとって都合が良い、それが好意の正体。あたし達ってクマノミとイソギンチャクなんですよ」

 向けられる、曇りなき眼。

「あたしは居心地が良くて、あなたは自己満足に浸れる。利害関係の一致。好意のメカニズムに気付いてしまった以上、もう今までの関係(元通り)には出来ません。きっともう新たな恋も望めないでしょう。恋愛観がぐちゃぐちゃになってしまった責任を取れ、と叫びたい気持ちは勉強代って事で飲み込んであげますよ。そっちの方がお互いに()でしょう、先輩?」

 つまり、どこまでも都合が良い関係でいよう。と、そう言いたい訳か。

「いいのか、それで」

 力ない問い。

 開いた瞳孔が含みのある光を向ける。一瞬、剥き出しの牙を食いしばって見せると、彼女は目を瞑って一息。瞼と口角を同時に上げたまま告げた。

「…………あたしが本当に好きなのは、みんなでいたあの時間。()()()()()ではありません」

 苦笑と共に言葉は続く。

「言ったじゃないですか、楽しい事だけ考えて生きたいんです。謝るべき人、他にもいるでしょ? だらしない先輩を手伝ってあげますからサクッと解決(何とか)してください」

 差し伸べられる小さな手。苦虫を嚙み潰したような想いを抱え、花梨と握手を交わす。脳裏を過った二人の影法師と、こうなる以前の花梨。

 もう元には戻らない彼女を見る度、眩暈がした。

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