2-2 無為無能のトリカブト
棚から牡丹餅という言葉があるが、冷静に考えて小汚い棚から落ちて来た餅なんぞ不衛生極まりない。食べようものなら、やはり身体を壊す覚悟ぐらいは必要だろう。
彼女の手を引っ張りながら逃げるように席へ着いた、昼下がりの教室。らしくない強引で思い切った行動に、俺は少し自己嫌悪に苛まれた。
「アレ、何」
疑問符を付ける余裕すらないのか、彼女はぶっきらぼうに聞く。心なしか、冷ややかな瞳。
直前まで茹で上がっていたはずの顔は、いつの間にかその対極へ。
「こっわ。エエんか杏ちゃん、ここ学校やで?」
溜息と羞恥を有しているであろう彼女の沈黙。
「……別に。ただ、想定外の挙動されると調子狂うんだよね」
想定外の挙動、ね。
まるで、俺たちの今までの何もかもが彼女の掌の上みたいな…………いや、事実そうなのかも知れない。青木杏は俺たちと違う生き物なのだから。
「完璧主義者は生き辛そうやな」
含みのある強い睨みに慌てて謝る。
「お金も精神もゴリゴリ減るし、尽きないのは悩みの種だけ。快適な生活とは程遠いね」
「お金ってやっぱりお洒落?」
「んーん、探偵」
涼しい顔で答える彼女から出た、フィクションでしか馴染みのない言葉。
「そんなん普段使う事ないやろ」
「使うよ、完璧主義だから」
彼女は笑って語る。
「想い人と恋敵の素行調査、性的なものを含めて趣味趣向を明らかにしたり、その他色々。相手の性癖に掠りもしないお洒落してる余裕ありませーん」
最も、そこまでしてもノータッチだったけど、と自虐気味に言う彼女に返す言葉が見つからない。
大きな靴音を耳にして、二人で視線を送る。焼き付いた、目元を手で覆った長い髪の女生徒が廊下を走る姿。椿さんだ。
「あー、やっぱり」
腕を組んで一人で納得する彼女に首を傾げる。
「君のせいで賭くんの二股がバレた。可哀想に」
「は……?」
「詳細は省くけど、そうなった。花梨ちゃんと付き合ってるのが椿さんにバレちゃったの」
ぽんぽん湧いて来る新情報の洪水に脳の処理が追い付かない。一度は静まった怒りがふつふつと再燃するのを肌で感じる。ただ、何食わぬ顔で話す彼女に背筋が凍りついて言葉を紡げない。
弾む会話が上手く思い浮かばず、淡々と昼食を取る時間が続く。
久方ぶりの教室での昼食は常に嫌な騒がしさで満ちていて、けれど食べ物の味がするのは彼女がいるからだろう。
耳に残る不快な会話たち。下品で下種な男子生徒の声が人知れず俺に苦痛を与え続ける。
「男性嫌悪・男性憎悪。どうして、って聞いていい?」
投げられる唐突な問い。顔に出てしまっていたのなら、申し訳ない事をしてしまった。
うっかり耳にしたとしても馬鹿には到底分からない横文字を使ってくれる彼女の配慮に感謝しつつ、俺は茶化す。
「なになに、興味持ってくれたん? こりゃホンマに惚れんのも時間の問題ちゃうか」
「自惚れだね」
「上手い、座布団四枚!」
「おしまい。そういうのいいから」
脳みその回転速度が速いのか、あるいは事前にこちらの返しを予測していて言葉を準備しているのか。いずれにせよ、ノータイムで返せる事について素直に感心しているのだが。
「これは経験則なんだけどさ。吐き出すと想像の数十倍は気持ちいいよ。もちろん何の解決にもなりゃしないんだけど」
笑顔も作らず興味なさそうに彼女は吐き捨てる。昨日の事が彼女にとって少しでも救いになったのなら、俺の行動にも少しは意味があったのだろう。
一日経ってみれば早まった愚行だったというのが嘘偽りない所感なのだが、それだけは固く心に留めておく。
ありがとう、と一言添えてから冷静に断りを入れる。
「…………けど俺のは杏ちゃんほど壮絶な話とちゃう。やり場のない怒りがあって、果たせない恨みがあって、そんだけの────。死ぬ気で手ぇ伸ばした所で、決して叶わん復讐譚や」
少しの間を置いての彼女は返す。
「捕まるのが怖い?」
俺を見つめる緑の眼。その奥で闇が悪戯に笑っている、そんな気がする。妖しい瞳。
怖気付いて、踏み止まる程度?
捕まらなければ、やってみる?
そんな犯罪の助長と捉えられてもおかしくない挑発すら聞こえてきそうで。ただ彼女が怖かった。
「なあ杏ちゃん。死んだ人間は優しいと思うか?」
自分で切り出しておいてなんだが、こんなのは昼飯時の教室でする話題じゃない。
彼女は弁当の卵焼きを一口頬張って答える。
「二酸化炭素もゴミも排出しない。まあ、地球には優しいよね」
血も涙もない論理的思考をしれっと披露しながら彼女は「でも日脚くんが聞きたいのはそれじゃないでしょ」と核心を突きながら唸る。
「優しいと思うよ。誰も傷付けないから」
概ね、期待通りの回答に思わず笑みが零れて。俺は端的に話す。
「俺たちを、傷付けたのは死んだ人間だった」
「…………」
生徒の駆ける足音、ガタガタ揺れる窓、うるさいだけの教室。含みのある彼女の沈黙。
衝撃が強かったのか、珍しく言葉を失った彼女を見て俺は会話を終わらせる。
「ほら、敵わんやろ。あ、今のは叶うと敵うを掛けた…………って言うてる場合ちゃうわ。昼休み終わるで、はよ食べな」
弁当箱を持ち上げて顔を隠すよう箸を進める。彼女の反応を極力見たくないから。
視界に映る彼女の両肘は止まったまま。こちらを見ているのか、食欲が失せているだけなのか。いずれにせよ、今は直視出来そうにない。
「そっか、話してありがと。迂闊に聞かなくて良かった。今後も触れないでおくね」
たったひとつの問答にしては不可解な口振りが気になって俺は箸を止めて聞く。
「黙っとく、って何を?」
彼女はきょとんとした顔を浮かべると同じように箸を止め、左手で後ろ髪をかき上げてこちらへ見せる。と、右手の人指し指でうなじをゆっくり二回叩く。
「…………?」
普段お目にかかる機会のない絶景なんて見せて一体どういう意図だろうか。俺にはそういったマニアックなフェチズムなど微塵もないのだが。
刹那。脳裏に浮かぶ微かな心当たり。
俺はそれを確かめるよう、そろり。手を後ろ髪の方へ。
「──────っ!」
言葉を失う俺、はにかむ彼女。
「ピンポーン。その凸凹だよ。っと、ごちそうさまでした」
軽快な口調で言うと、彼女は残り僅かの昼食をそそくさ終えて片付ける。いつ気付いたのか問い詰めたいのは山々だが、可能性が高いとすれば、やはり海に行った時だろうか。
首にくっきり五つ残って消えない“こいつ”は、今でもたまに夢へ現れる。自分が何者なのかを教えてくれる、大事な過去の思い出。
「ごちそうさんでした」
両手を合わせて静かに。
机の上を片付ける。彼女は向かい合わせていた机の向きを元に戻して、時計の方へ目線を送る。こちらの様子を窺っている素振りはない。
一方的で、徹底していて、当の本人は悦に浸れる。
ひょっとしたら、気遣いは暴力なのかも知れない。と、密かにそう思った。昼下がりの一幕。
畳の上の水練だとしても、清く正しくあろうとするのは、果たして間違いなんだろうか。
答えの出ない疑問を胸に、黙ってつまらない授業を受ける。最中、早くも堕落が心の扉を開いて。周囲の様子に気を配りながら、ゆっくり眠りへと落ちる。
悪魔と弱者のハーフ、それが俺の正体だ。
「やめて────ッ! どうして、そんな酷い事言うの!?」
突如、女が叫ぶ。不健康な白い肌、今にも飛び出しそうな目玉、よく齧るせいでボロボロの爪と下唇の皮。目の下の大きな隈を見れば誰でも毒があると分かるだろう。
カーテンで遮られて光の差さぬこじんまりとした部屋にいるのは、女の他に黙ったままの子供ひとり。父親譲りの赤い髪を目にする度、親子の瞳はそれぞれ別々の揺らぎを見せた。
「あ、が…………ッ!」
ヒステリックに啜り泣く女が無力な子供の首を絞める。肉などほとんどない両腕を小刻みに震えさせながら、何らかの言葉を浴びせられる。お得意の聞き飽きた妄言。どうでもいいが、小刻みな手の震えと噛んでガタガタになった爪のコンボで、首を襲う感覚はまるで鋸の刃。
──────血管すげー浮いてる。看護師さんには歓迎されるだろうな。
くだらない事を考えて思わず笑みが零れそうになるが、それでも口角を上げる余裕はない。
上手く出来ない呼吸、酸素が行き渡らないせいか痛む頭、口から溢れだす不快感たっぷりの泡。眩暈がして、意識ごと天へと召されるその寸前、浮いていた身体は勢いよく床に叩きつけられる。女が両手を離したからだ。
「ご、ごめッ…………ごめんなさい! う゛っ゛」
意味のない謝罪を並べて女は洗面台へと駆けていく。ガタガタと震えて、さぞかし苦しそうな顔。あーあ、どうせ嘔吐するのだろう。
気色悪い口元の泡を汚い服の袖で拭き取り、ぶつけたばかりでまだじんわり痛む後頭部を抑える。
また、死ねなかった。
どうしていつもあと少しで正気に戻ってしまうのだろう。殺すならちゃんと殺せばいいのに。
「…………」
ろくでもない男の物真似でもひとつ出来たなら、この女はもっと気楽にあっさりと俺を殺せるのだろう。しかし残念ながら、俺は生産者の顔どころか名前も知らない。知っているのはふたつ。
俺は所謂望まぬ妊娠で生まれた子供で、男は警察に射殺されたという事だけ。
誰が口走ったかは知らんが「生まれる子供に罪はない」とか何とか下らぬ偽善者の御託並べに絆された馬鹿と、それに見事付き合わされる羽目になった被害者。貴様が責任持って面倒見る訳でもないのだから、当事者以外はどうか口を挟まないで頂きたいものだ。
「母さん、大丈夫?」
洗面台で苦しそうに嘔吐する女の背中をさすって聞く。女の口からは吐瀉物と呼べるようなモノは何も出ていない。だらりと流しているのは、ただの透明な胃液ばかり。
近くに置いてあるハンドタオルで足場に漏れた胃液を拭き取る。……硝子で出来てはいない。単純なストレス由来の汚い胃液。
きっと、「私だけが地獄のような苦しみを味わっている」とか考えてるんだろうな。馬鹿馬鹿しい。
「──────」
地獄のような苦しみを味わっているのは俺だ。今までも、そしてこれからも。俺は、俺だけは。
俺だけが命費えるその日まで無限の地獄を受け続ける運命にある。
前世で何かをやらかしたのなら記憶ぐらいは継いでくれ。罪悪感くらい抱かせろ。
「ごめんな。ほんま、ごめんな」
いまいち実感の籠っていない謝罪を深々と掛けてやる。女の胃液と負けず劣らずの無意味な行い。すると、女は涙を浮かべて震えたまま無言で布団の中へと飲まれていく。怯えた少女のように、闇の中へ。
そうだ、ゆっくり寝て、また忘れろ。目覚めと共に怒りと不安と恐怖に支配され、飽きもせず、性懲りもなく、この首を絞めに来い。幾度なくとも挑むがいい。次は上手く殺せるといいね。
多くの意味を込めた冷たい眼で女の後ろ姿を見送る。どうせ意図には気付かない。あの女は視線が向けられている事すら分かっていないのだ。
荒れた部屋と足場を適当に片付け、冷蔵庫にしまってあるみかんゼリーをひとつ口にする。首元にくっきり付いた爪痕と、だらだら流れる血だか汗だかよく分からない液体の気色悪い感触。手で拭って確かめる価値もない。
口腔に広がるゼラチンのひんやりした冷たさと、さっぱりとした酸味がひと時の癒しを与える。
朝が来て、殺されかけて。昼が来て、また殺されかけて。夜が来て、やっぱり殺されかける。それが俺の日常。ずっと、そうやって育ってきた。理由はひとつ、“父親に似てきたから”だ。
理不尽だと嘆いても意味はない、助けてくれと叫んでも届きはしない。
死者が生者を苦しめ続けるという呪縛。囚われるのは勝手だがいちいち巻き込むなというのが本音。
「…………」
女の寝息が鼓膜を揺らし、どうしようもない苛立ちを覚える。
癇癪を起して我が子に当たり、ただ介抱されて眠りに落ちる毎日なのだから、あの女はさぞ幸せだろう。大人しいサンドバックが、耐久性に定評がある藁人形がいる幸せ。そんなものの存在、そのありがたみに気付く事なくやがて命尽きるのだと思うと、どうにもやるせない気持ちでいっぱいになる。
心の赴くままにあの女を傷付けてしまうのは造作もないが、そんな事をした日には少年院にぶち込まれた挙句「所詮、蛙の子は蛙」などと世間に言われるに違いないのだ。
不平不満を喚いた所で、我が身を取り巻く境遇も。ましてや、我が体躯の半分が悪の権化で、もう半分は愚かな弱者である事実も変わる訳ではない。
「おやすみ」
意味のない呪文を添えて夜が更ける。重い瞼をこじ開けていつものように二人分の朝食を準備しようと意気込み、深呼吸したところで異変に気付く。
目が痛くなるほどのアンモニア臭と何かが軋む音。
ギギギギ、ギギギギ。
胸中に広がるため息をよそに、ご近所トラブルの元へ足を運ぶ。目を疑い、失った言葉。「心中お察しします」と脳裏で悪魔が笑った。
テーブルにぽつんと放置された一枚の紙。首で縄跳びをしている女がいたからだ。
「──────」
涙どころか悲壮感ひとつ出てこない。俺はただ頭をボリボリ掻き毟って、冷静に受話器を探しながら今後起きうる面倒事に意識を割いていた。
「はい。…………はい。よろしくお願いします」
初めての110番通報を済まして女の残した紙に目をやる。俺より汚い字で綴られた駄文、鼻水だか涙だかの染みが滲んだ紙。
時間を掛けて解読する。どうやら中身は意味の持たない謝罪とよくある自分語りやらお気持ち表明。やはり、感情は沸かない。
洗面所にある綺麗なバスタオルを一枚とティッシュボックスをテーブルまで持ち運ぶ。ついでにトイレの扉を開けたまま。女の残したもうひとつの置き土産を処理する為だ。
手際よく片付けをしていると、程なくして警察が到着したので出迎える。
「あぁ、どうも。散らかってて申し訳ないんですけど、どうぞ。足元気ぃ付けてください」
到着した数人の警官が俺の顔を見るなり引き攣った顔を浮かべて俺の正気を疑う。髪が赤いからか、通報時を含めて終始落ち着いた様子だったからか。どうあれ、人様の顔を見てドン引きするなんて失礼な奴らだ。
ひょっとして、アホみたいに取り乱して泣きじゃくる方がお好みだったのだろうか? そっちの方が応対に余計な時間と手間が掛かって面倒だろうに。まったくもって合理性に欠ける。
早朝だと言うのに外の様子がいやに騒がしくなって、無駄に早起きの野次馬どもが面白みのない死骸見たさに集まって来る。ぞろぞろと不愉快な足音、焚かれるフラッシュ、雁首揃えたマヌケ面。
あちらの正気を疑う方がよっぽど先だろう。
しばらくして警察に連れられ、根掘り葉掘り聞かれる。女について、自分について。形だけの同情が頭を撫でて、価値のない涙が大人たちの頬を伝って。ようやく解放された矢先に待っていたのは親戚一同による盥回し。
怒号、冷や汗、嫌悪。責任の押し付け合いは女の亡骸より百倍は惨く悍ましい有様だった。
「仰愧日脚や。よろしゅう」
中学に入って周囲の子供たちが一斉に色気付く。どの作品の仮面ライダーの主人公になりたいだとか、相棒にするならデネブかアンクかベルトさんの誰がいいとか、進兄さんってモテない煽りされてた時が一番キレてたよねとか、そういった微笑ましい喧噪が聞こえてくる事がなくなって。
どの戦隊ピンク・イエローが好きだとか、歴代ヒロインで誰がタイプだとか、アイムとルカならどっちがいいとか、聞こえてくるのはそれだけで。同じものを見て、同じように楽しんでいた筈が、一人の裏切りによって崩れ去っていく。
「えっ、お前らまだあんなの見てんの?」
とぼけた顔で繰り出される、質問のフリをした邪悪な一手。教室中の空気が一気にざわめく瞬間。隣にいた少年たちは友達から“知人”に豹変する。
「そ、そんな訳ねぇじゃん」
「今時あんなモン見てるのこいつだけだろ」
「そうそう、だってこいつの夢って確か……ほら、アレだろ? 仮面ライダー」
酷く馬鹿にした口調。同調圧力。
脂汗を浮かべ、視線を泳がせ、吃った唇で生唾と雰囲気を飲み込む友達だった者たち。同じものを経験しても、同じ経験を得られる訳ではないのだと、俺は幼いながらに身を持って理解する。
さぞ辛そうに俯いたその姿には、雨の日に傘と水溜まりを使って放つ魔人剣の特許争奪戦をした面影はなく。また、一齣すら感じさせない。
やがて学校中に噂が立つ。「日脚はまだ子供向け作品にお熱だ」などというくだらぬ噂。真偽のほどを確かめようと定期的に現れるにやけ面の訪問者。うんざりや怒りはいつの間にか羞恥に変わっていって、そんな自分すら酷く嫌になって。「死んだ両親がまともじゃなかったから仕方ない」なんて、意味不明なフォローでいつの間にか噂は落ち着いたけれど、気分は当然晴れぬまま。
ただ、男という生き物が嫌いになった。
俺が生まれる原因になったのは顔も知らぬ凶悪犯。母が病んで死んだ原因も父親に似て来たから。俺が好きなものを嫌いになり掛けている原因も、仲間による裏切り。
嗚呼、あぁ────なんたる悪辣、なんという陰湿! 男という生き物は邪悪だ。同じものを見て育っていくはずが、彼らはどうしてこんなに粗野な生き物なのか。
「おい」
休み時間の教室。席に着いたままだらけていると、後方から誰かの声。不機嫌そうな男の声。
どうせまた噂に導かれた蝿だろう、と俺は無視を決め込む。
「オーズの好きなコンボは?」
耳を疑って咄嗟に振り向く。不愛想で目つきの悪いその男を、俺は知っていた。
確か名前は一累賭。下手に絡むと酷い目に合う事で有名な不良生徒だ。聞けば、乱暴という言葉が服を着て歩いているような男だとか。
「…………今なんて?」
「だから、オーズの好きなコンボは?」
聞き間違いではなかった。
三つのメダルを使って変身する仮面ライダーオーズの好きなコンボ(組み合わせ)を聞いている。
「た、タジャド」
「嫌いな奴探して来い。もういいわ」
黒髪の少年は言葉を遮ってため息を吐くと、そのまま席を立とうとするので、俺は慌てて引き留める。ただの好奇心からか、見下したような目に苛ついたからか、あるいはその両方か。
「なんで俺に声掛けたんや? 俺が怖くないんか?」
少年は「あ゛?」とやけにドスの効いた生返事をしてから面倒くさそうに。
「あんたの何にビビれってんだ。鹿だと思ったらキョンだった、ってんなら怖がるけども。第一、有名人に近付いてきた理由なんて愚問もいいとこだろ」
と、一言。
そう、分かっている。この男もくだらない噂の真偽を確かめに来たひとり。だが、他の蛮族とは明らかに違う。どうも、こいつから同類のニオイがするのだ。そのせいか、「用は済んだ」と今にも立ち去ろうとする男を引き止めたくて言葉を紡ぐ。
「あんた、子供向けの作品なんか夢中になって恥ずかしくないんか?」
苦し紛れに放った問い。含まれているのは諦めの悪い悪意と期待。いつも自分が言われ続けていた言葉が、ゆったりと、しかし確実に表情を曇らせる。男は二秒ほど俺を見て、わざとらしく表情を動かして言い放つ。
「ない。子供向けと子供くせぇのは違う」
迷いのない眼差し。手短に告げられた言葉に感心と悔いが同時に襲う。
どうして俺は、これを言えなかったのだろう。
「雰囲気だけでも夢中になるよう絶妙に調整されてんだ、ちゃんと話分かる奴が夢中になるのは必然だろ」
賛同しかない男の意見に自然と頬が緩む。こんな男もいるのか。
それからというもの、俺たちが打ち解けるまで時間はそう掛からなかった。同じ時間を過ごし、同じ話題で盛り上がり、違う視点を併せ持つ。
「待てよ」
走り去っていく少年の後ろ姿に手を伸ばす。そうして気付いた、全身を包む浮遊感、やけにピンぼけした風景、服を着たまま水に潜っているような身体の重み。
「待てって…………!」
伸ばした手から一瞬伝わる強い振動。世界を穿つ轟音。いつの間にか黒に包まれていた空間は少年の背から溢れた血で赤く染まる。元気に走っていた少年は弱弱しい声音で泣きじゃくりながら「痛い、痛い、どうして」と繰り返す。その刹那。
軋む、軋む。ギリギリと、ギチギチと。世界で一番不快な音が耳元でして、振り返る。
「元気そうね」
灰になって久しい、嫌味ったらしいぎこちない女の笑顔。やめてくれと叫ぶ余力はなかった。
「大変だったろう」
「今どんな気持ちかな?」
「まずその品性に欠ける話し方やめてくれないかしら」
警官、記者、引き取った親戚の娘。見覚えのある面々が聞き覚えのある言葉を引っ提げ、次々と沸いて出る。ゴキブリと大差ない不快感で。俺は思わずその場で吐き出す。口から出たのは内容物でも胃液でもなく、大量の紙切れ。
「────くん、日脚くん」
「っ!?」
肩を叩かれ、意識が鮮明になる。丸めた背中と腰が訴える痛み。夢見の時間は終わったらしい。
「寝起きのとこ悪いけど、一緒に帰ってくれないと困るんだよね」
眼前で、付き合いたての彼女が不服そうに話すので軽く謝る。明るいだけの声色、その重みが怖い。
「ほな、手ぇ繋ぐ?」
「いいね。そうしてくれると助かる。出来れば毎日」
冗談半分で差し出した手を彼女は笑って取ってみせる。
初めて触れる、陶器のような冷たさ。
「男の子の手って、暖かいんだね?」
悪戯に話す彼女の、魔性の可愛さに立ち眩みを覚え、疑問で正気を取り戻す。
賭とは、手ひとつすら繋いでいない?
「……杏ちゃんの手ぇ冷たいだけや」
誘われるがまま、彼女と帰路に着く。
繋いでおくだけだった筈の手を、振り子のように揺らしながら。何事もなく。