1-5 群雀蘭の戯言
見えぬが故に 夢を見て
見えるが故に 泡となる
“青木杏”は足取りから始まる。
スキップ、スキップ、ひらりと華麗な一回転。またスキップ。
上り階段は兎のように軽やかな二段飛ばし。下る時はタン、タタンとリズミカルな馬の疾駆が如く。誰も見ぬか、誰もが見るか。それはひとつも関係ない。
すべて『幸せは足取りから』という持論に基づいて常日頃から行われている、運を呼び込む儀式みたいなものだから。
同時進行で願い事を十回。一個少ないのも一個おまけも絶対厳禁。きっかり十回、口にする。
日曜日の昼下がり。コンビニで買った、箱の焼き菓子が入った紙袋を持参して椿さん家に行く。玄関の扉が見えた頃、ちょうど反対方向からやって来た花梨ちゃんを見つけて手を振ると、彼女は小さく会釈して僕の紙袋を覗き込みながら言った。
「菓子折りぃ。んなモン持ち込んだ事ねぇー。杏先輩、どちゃクソ真面目ですね」
「えぇ? 言い出しっぺな上に他人の家に上がるんだから当然だよ。あ、明らかに手ぶらな花梨ちゃんが悪いって言ってる訳じゃないからね?」
「うえーん。マナー講師感覚でものっ凄い常識ハラスメントされてますぅ」
「ごめんごめん! ちょ、そんな騒いだらご近所さんに迷惑掛かるって!」
「……いや、あからさまなオーバーリアクションにそんなガチ反応されると辞め時に困るんですが」
「あなた達、そういう遊びはインターホン押してからにしてくれないかしら」
ガチャリと開いた扉から出てきた椿さんがじっとりとした目で僕たちを睨む。
「あ、椿先輩こんにちは。騒がしくてごめんなさい! これ、どうぞ」
ぺこりと一礼して差し出した紙袋を椿さんは「わざわざありがとう」と受け取って自分の部屋まで案内する。
花梨ちゃんは雑に靴を脱ぎ散らかして僕の方へと視線を送ったまま、椿さんに見向きもしない。察するに、きっと何度も来ているから案内など不要なのだろう。
僕が丁寧な所作で靴を脱いだのを見るなり、ようやく花梨ちゃんは歩みを始める。僕はそれを確認だけして後は目もくれず、花梨ちゃんが脱ぎ散らかした靴をきちんと整えてから、椿さんの部屋がある三階の部屋へとゆっくり歩いた。
ドアノブに手を回して目にした光景は想像していたのと大差ないモノで、思わず笑みが零れそうになる。が、勉強机の上に飾られていた四角いオブジェクトを目撃した事により、血の気が引く。
──────あれは何だろう。
「お邪魔しまー…………すって、わあ! 可愛い部屋ですね!」
「いらっしゃい。ほら見なさい花梨ちゃん、これが模範的な回答よ。あなた最初に来た時なんて言ったか覚えてる?」
「見かけに寄らず痛々しいほど可愛いなお部屋っすね。サン〇オとか好きそう」
「完全再現ありがとう。感情籠ってない上にいちいち言葉が多いのよ」
「えぇ? 感情ならちゃんと籠ってましたよ」
「それ十中八九ネガティブな奴でしょ。分かってんのよ」
「そ、それより! 椿先輩、あの可愛い物体は何ですか? 机の上に置いてるある四角の奴です」
脳裏に浮かぶ多くの言葉を抑え込みながら僕は正方形の物体を指して問う。透き通った透明の正方形と、その中央で綺麗に咲き誇っている、四方に拡がった特徴的な赤紫の花弁。
僕はあの花をよく知っている。花言葉は『旅立ち』と────。
「コレはね」
僕の問いに椿さんは立ち上がって正方形の物体を拾い上げると、口角を上げてうっとりとした表情を浮かべた。
「なんだと思う?」
無意味な焦らしに前頭葉のはち切れそうな痛みを飲み込む。
早く答えて欲しい。分からないから聞いているのだ。
「どっかで買ったんでしょ?」
違う、断じて違う。こんなモノが売っている筈がない。
自分で作ったに決まっている。
「残念。作ったのよ」
「やっぱり! ドライフラワーにしてレジンで固めたんですよね。とっても素敵だなぁ、可愛いなぁ、って思ったんですけど、どうしてその花をチョイスしたのかが気になって。あぁ、ほら。私、お花好きだから!」
自分でもはっきり分かるほど食い気味で素早い反応。さっさと話を進めたいのがバレていないだろうか。
可愛い花ならこの世にいくらでもある、彼女の少女チックな部屋の色合いに合う花なら、もっと他にいっぱい選択肢がある筈だ。
よりにもよって、どうしてあの花を彼女は選んだのか。少女の部屋に置くには些か不釣り合いな花言葉を持つだろうに。どちらかと言えばホラーテイストなのだ。
「昔ね、ある人がくれたの。どうしても私に貰って欲しかったみたい。男の子から花なんて初めて贈られたから私もうキュンキュンしちゃって。それで舞い上がってこんな感じで加工しちゃったワケ」
……………………ふぅん。
「甘酸っぺぇ。それいつ頃です?」
「あれは確か、中学二年になったばかりの頃だったかしら」
「かー、多感なお年頃じゃないですかぁ」
やっぱりあの花が椿さんの部屋に贈られたのは、彼女が中学二年の頃。
「ちょっと前まであなたもそのお年頃だったのだけど。あと絡み方がおっさんよ?」
「…………これって、からし和えとかにして食べたり、確かユ〇ケルの材料にもなるんですよね」
「そうなの? 詳しいわね。日脚くんが言っていた通り、自己紹介で花が好きと答えただけあるわ」
「あー、はは」
愛想笑いが普段よりぎこちないのを肌で感じる。いつものより1.2cmほど口角が上がっていないのを、彼女たちに勘づかれていないだろうか?
脳裏から溢れそうなじめじめとした感情を吹き飛ばそうと適当に話を振る。
「そう言えば花梨ちゃんも椿先輩も最近いい事ありましたか?」
「えっ。いや…………?」
花梨ちゃんと椿さんはお互いに顔を見合ってほんの一瞬、目が泳ぐ。
図星だ、間違いなく。
はてさて、何を隠しているやら。クールダウンにはちょうどいい。
「あぁっ、ふたりとも隠したって無駄ですよ! 全身からキラキラオーラ溢れてますからね」
「そ、そんなの出てます?」
「出てるよ。何なら、花梨ちゃんは一番分かりやすい! 香水は誰でも気付けるでしょ」
最も、彼女の想い人は無反応だろうけど。という余計な言葉は飲み込んだまま、何食わぬ顔で。
最近の花梨ちゃんからは少々きつめのレモンの香りがする。特徴的な黄色の頭髪によく似合っていて大変可愛らしいとは思うが、付け慣れていないのがすぐ分かるほどニオイが強い。恐らくプッシュする回数が多いのか、ちょっと気取って海外製の香水でも使っているのだろう。いや、付けている場所が悪いかも?
ニオイというのはかなり厄介で、それひとつで他人からの印象を大きく変えるけど、自分の香りについてはどうしても気付きにくい。その癖、自身が嫌なニオイを発していたとしても基本的に周りは誰も指摘してくれないのだ。
善人が指摘したところで自覚症状がない当事者は「え? そうかなぁ?」とか「いやそんな訳ないじゃん。耳鼻科行った方がいいんじゃない?」とか平気でのたうち回る。
結局は頑張って自分で気付くか、あるいは周囲の人間の反応から何となく自身を疑って調べるぐらいしか対処法がないのだ。
「確かにそうね」
椿さんが静かに同意する。ただ僕に同調しているだけなのか、それとも同調する事で花梨ちゃんがやんわり香水付けすぎだと気付くか試しているのか。いずれにせよ、変わったのは彼女だけではない。
「ちなみに椿先輩は最近やたらと表情が柔らかいですよ」
学園内では(二回も留年しているらしい事もあってか)恐らく他人から舐められないようにする為の、仏頂面を貫いている…………つもりの彼女。深い事は何も考えてなさそうな日脚くんはともかく、彼女の想い人はちょっとぐらい注意してやらないのだろうか。
いや、今の彼ならそういう事は気付いても口にしないだろう。何らかの意図がある訳でなければ、シャイとも違う。
酷な話だが、あの男は全くもって関心がないのだ。
何かが変、普段と違う。異変に気付いて、はい終わり。舐めやがって。
「…………ところで。そういう話を振る杏先輩は最近何かいい事が?」
「えっ?」
花梨ちゃんから来た不意の質問。咄嗟に惚ける。彼女が次に言葉を続けるよりもっともっと早く、脳みそを回転させて使えそうな言葉を探し出す。
ないない、全然ない。予測される返答:「とか言っちゃって~」
どう思う? 予測される返答:「勿体ぶる奴って何かあるからそうするんですよ」
あったらいいなぁ、って日々思ってる。予測返答:「上手くはぐらかしましたね」
一番目は論外。稼げる時間が少なすぎる。
二番目は危険。稼げる時間は多いけど、うざい奴だと思われて今後の関係に響く可能性あり。
三番目は安牌。約三秒の時間稼ぎといった所か。椿さんが参戦すればもう少し稼げそうだが、他人の介入はアテにせず三秒の稼ぎとして考えよう。
「あるんでしょう?」
「あったらいいなぁ、って日々思ってるよ」
「……上手くはぐらかしましたね」
予測通りの回答に安堵したのも束の間。すぐに彼女は「あっ」と何かを閃き、右手の人差し指をピンと天に立てて話す。
「じゃあ代わりに面白い話聞かせてくださいよ。椿先輩みたく甘酸っぱい奴!」
「いいわね、それ。私も聞きたい!」
常日頃の予定調和の煽り合いはどこに行ったのかと言いたくなるほどの意気投合。こんな所で無駄な団結力など出さないで頂きたいのだが、考えてみればそもそも想い人が同一人物なのだ。そこを考慮すれば、彼女たちが本来息ぴったりなのは当然に決まっている。
「え、えぇ~…………?」
真面目な困惑とオプションで付け足した紅潮。
恋する乙女の喜びそうな浮ついた甘酸っぱい話など…………いや確かになくはないが、それを言ってしまえばここが修羅場に発展してしまうではないか。核弾頭じゃなくてもっとこう、軽いジャブ的なエピソードなんてあったっけ。色恋どころか僕の人生は甘酸っぱさと辛酸の比率が1:9なのだが。なんだったら舐め過ぎた辛酸の影響で味覚イカれてちょっとした事で一喜一憂する自信さえ大いにある。
十代女子(とおまけに成人女性一名)が喜びそうないい感じに淡い奴…………好きだけど結局伝えられなかったぁ(涙)的な、そういう恋愛弱者丸出しの微笑ましい奴…………。
ぐるり、ぐるり。何秒か頭を回す。駄目だ、ない。何も。
話す危険性が高すぎて、何も出せない。
「悪いけど甘酸っぱいのはないよ~。一累賭の愚痴なら腐るほどあるんだけど」
「あー、朴念仁ね。良くないですよ。賭先輩は」
「全くもって同感よ。賭は殺されても文句言えないわ」
二人のシンクロした、深い反応。両者ともに激しく身に覚えがありそうだ。
どこで何をやらかした、罪深い奴め。
「聞いてくださいよー。この前、デートだと思ってワクワクしてたら、家で普段通りゲームして映画見ただけだったんですよ。扱い酷くないです?」
「へぇ、何見たの?」
「ミストとセブン、あとSAW5っす」
「それ朴念仁じゃなく悪魔だよ」
映画のチョイスが悪意に満ちてる……。この三つ見せられた女の子に意気揚々と何を語れってのさ。
「私なんか遊園地に行っても映画館に行ってもほぼノーリアクション。一週間掛けて作ったデートプランに文句ひとつも垂れずに、されるがまま」
ナマケモノと歩いてる気分だったわ、と心底疲れ切った顔で語る椿さん。
「事あるごとに『どしたん? 話聞こか?』ってうざい日脚先輩の主体性分けてあげたいですね」
「本当よ。敷いたレールの上でならいくらでも踊ればいいのに」
愚痴を肴に場が湧き立つ場。焼き菓子片手にこっぴどく扱き下ろす女性陣の姿など、渦中の人は当然知る由もない。
賭の残滓を集めて、彼を語る女達を観察して。その都度、頭の中に蔓延る疑問。
どうして彼女たちは笑っていられるのか。楽しそうに、余裕綽々で。
チクチクと胸を突く違和感に、映画で死ぬほど見たような既視感を覚えて。手遅れになったところで、それが時限爆弾だと気付く。
嫌な予感がする、違う。彼女らは恋愛弱者だ。立場に胡坐をかき、ポッと出の新キャラにすべてを掻っ攫われ、最後には自堕落由来の悔し涙を流す者だ。
嫌な予感がする、違う。彼女らは恋愛敗者だ。想い人にパートナーがいる事実を知らず、ライバルに然も自分だけがリードしているかのようなオーラを漂わせる、妖怪:彼女面だ。
嫌な予感が、確信に変わっていく。
────今まで一度だって、「好き」と言われた?
「…………大事にするって言ったくせに」
正四角形のオブジェクトにどうしても視線を釣られ、小さな声で悪態を吐く。頭の中で止まらないノイズを抱えたまま、何とか一日を過ごした。
九月の終わる頃。口は災いの元だと、つくづく実感する。
杏から来たデートの誘いにふたつ返事をした自分が今さらになって大変恨めしく思えて来た。
早朝から昼までを杏に言われるがままに動物園で過ごし、その後の水族館でイルカのショーやら何やらで新手の目覚ましを食らい、夕方はカラオケを三時間ほど。
朝ごはんに何を食っただとか、朝に見た星座占いの結果がどうだったかとか、天気予報では夕方から雨が降るみたいだとか。飽きもせずよく喋る杏へ適当に相槌を打っては過ぎていく時間。財布も体力もボロボロ。それでも。
後悔はあるのに悪い気はしない。説明しにくい不思議な感覚。
別に特別扱いや贔屓している訳ではないが、杏とのデートだけはどうにも断りにくい自分がいる。
普段は気乗りしない外出が、彼女と行けば何故か少し楽しめるその訳を、いつか掴める日が来るのだろうか。
「あと何件あるんだ?」
俺より走って、俺よりはしゃいで、たったひとりで歌いまくって。なのに、彼女の頭髪や衣服には未だ汗の痕跡ひとつもない。正真正銘の、体力オバケ。
人も獣も関係なく惹きつける愛嬌があり、性格どころか頭も身体も良くて、おまけに歌や料理まで完璧。断言出来る、青木杏は無敵の女だ。
動物園でも水族館でも、どこのどんな場所でも。適当にひとつ話題を振ってみれば四つ、五つとみるみる話を膨らませていく。それでいてちゃんと面白い。ホットケーキミックスみたいな女だ。
『杏先輩はアホじゃなく用意周到な策士なので』
脳裏で過る、いつか花梨が話していた言葉。今なら自信を持って頷けるだろう。
「大丈夫、ここが最後」
スカートをふわりとさせて振り向き、器用に後ろ歩きをしたまま杏は笑う。目の前に広がるのは夕日と堤防だけ。特別な何かがある風には到底思えない。
「賭くん、今日一日どうだった?」
「どうって言われてもなぁ。疲れた、としか」
つば姉と遊園地の後に映画館へ行ったのですら疲れ切っていたのに、杏は一日に予定を詰め込み過ぎだ。バテずにしっかり満喫出来る底知れない体力、恐らく一生敵わないだろう。
ほぼ普段通りの一日を過ごすだけだった花梨との家デートが恋しい。
「ふふっ、やっぱり。ごめんね。今まで付き合わせて」
「振り回されンのはいつもの事だ」
杏にはいつも驚かされる。どこかへ突っ走って行ったかと思えば、いつもちゃんとあいつなりの計画や考えがしっかりあって、俺はというと掌で転がされるだけだ。
「ここである事をしたふたりは幸せになるっていうジンクスがあるんだって」
生唾をゴクリと飲み込み、平静を装う。
「ガセだろ。ただの堤防だ」
苦し紛れの、そして純粋な疑問。
杏は少し俯いて「だよね。ジンクスなんて噂と一緒、根も葉もない」と笑ってみせる。どこか含みのある、寂しげな物言い。
「……杏はゲン担ぎとかパワースポットとか、そういうの好きだな」
思えば杏の選ぶデートスポットはどこも決まって何かしらのご利益がある場所か、近場に開運グルメやスイーツがあったり、どの道ただのカップル向きのスポットじゃない事が殆ど。不満はないので口を挟む事はないが、独特なセンスだ。
否定には対案が不可欠。いちいち考えるのも面倒くさいし、そもそもデートなどという金と体力と心の余裕が必須のイベントの必要性を、俺は微塵も感じていないので、魅力的なプレゼンをしろと言うのは無茶な話。
パートナーのしたいようにさせていれば喜ぶのは間違いなく、また不要な衝突や無駄なすれ違いを起こす危険性もない。よって、放置するに限る。最もスマートな、最適解の解決策。
「別に好きじゃない。ただ縋りたいだけ」
「…………杏?」
「ダサくて、情けなくて。無様で、滑稽で、みっともなくても。たとえ根拠のない非科学的な与太話でも。それで得られた幸せが労力に見合わない一分、一秒、一瞬の些細な事だったとしても。僕は涙を流して縋りつく。嬉々として一生分の感謝と熱を捧げるよ」
確固たる意志を宿した瞳で、彼女は零す。その姿は、今まさに沈んでいく夕日よりも眩く映り。俺はただ、素直に胸を打たれた。
「すごいな、杏は。なんかごめんな、別に馬鹿にしたかった訳じゃないんだ」
「謝んなくていいよ。ねえ、賭くん」
向けられる、目が潰れそうな輝き。杏の微笑み。
「椿さん家、最後に行ったの小学五年の時でしょ」
「え? うーん、多分」
不意の質問に返す生返事。もう長い事、つば姉の家なんか行ってない。
わざわざ出向く理由もないし。
「やっぱり。椿さん言ってたよ、『昔、賭が綺麗なお花くれたんだー』って。ドライフラワーにしてレジンで固めててさ、勉強部屋の机の上で大事そうに飾られてた。ねえ、どうしてあげたの?」
じっとり見つめる、つぶらな瞳。
「枯らしたくねぇもん。綺麗な花でもすぐ枯らすような奴の元にあったんじゃ台無しだ。花が可哀想だろ。まあ処分に困ってたってのもあるけど」
あれは犀が転校する時に貰った花だ、花はいずれ枯れるものだと分かっていても、すぐに枯らしてしまえば親友に合わせる顔がない。花なんてのはちゃんと大事にできる人間の元にあるべきだ。
「花梨ちゃん、なんか最近明るくなったよね。香水なんか付けて背伸びして、毎日楽しそう。ね、どうしてだろう?」
「そうか? 大して変わんねえだろ」
「そっ、か…………。本気で言ってる辺りがダメダメだね」
こちらをよく観察しながら「僕は分かるのになぁ」と心底残念そうに語る杏。
「ダメダメって。冷てぇ彼女」
「事実だよ、愛した男性」
互いを見て、笑い合う。
「賭くん、ありがとう。おしまいだね」
「あぁ、一日ってのは早いな」
あとたった数時間で今日という日は終わって、変わらない朝が始まる。
何をしても、しなくても。誰にでも等しく、時間は流れる。
帰ったら宿題やらないと。
「おしまいだね、僕たち」
そうして。動揺する間も与えない、刹那に交わされる一方的な接吻。一秒もない時間、一時間にも勝る情報量。杏の震えた唇と対照的なピクリとも動かない俺の唇が触れ合って、ただ離れる。正確に伝わったのは、せいぜい互いの熱と感触だけ。
痛いぐらいプラトニックで、笑ってしまうほど官能的な体験。
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ふたりは幸せなキスをして、終了。
酷くありきたりな、使い古された、いかにも王道的な終わり。アニメや映画なら暗転してエンドロールが流れる奴。
沈みかけの太陽が放つ輝きが、彼女を幻想的に照らす。対する俺は、今世紀最大のアホ面を引っ提げたまま、音もなく流れる涙は実在するのだという事実に震えるだけで。
「……レモンだとか煙草だとか、嘘ばっかり。味なんて分っかんないよ」
そよ風が目前の彼女を、泣いている彼女だけを撫でる。ふわりと広がる弁柄色の頭髪、モナ・リザを彷彿させる和らいだ頬。そうして、彼女は両手を後ろに組んで悪戯に踵を返した。
「大好きだよ、ばいばい」
全速力で遠ざかる背中、何が起きたかいまいち理解出来ない自分。
風に揺られて飛んできた冷たい雫が、静かに頬を濡らした気がした。