1-4 手垢に塗れた彗星蘭
鬱陶しくて堪らない筈なのに、いざなくなればこちらが不安になってしまうのだから、セミの鳴き声とは不思議なものだ。
あの夜の出来事から時が経ち。学校も始まり出して一週間ほどが経過したある日。放課後につば姉から緊急で呼び出され、屋上へ直行する。
「どうして呼び出されたか分かるわね?」
「いや、全然」
首を横に振り即答する。
この所、至って真面目に学業へ専念していた筈だ。問題になるような行動も、わざわざ荒波を立てる言動も一切した覚えはない。杏に迷惑掛ける訳にはいかないのだから。
つば姉の後ろからひょっこりと姿を現した花梨が、ジロジロとこちらを睨んで話す。
「なーんかね、杏先輩の様子がおかしいんすよ」
「だったら杏が呼び出されなきゃおかしいだろ、後輩」
「杏ちゃんはお話にならない状態だからあなたを呼んだのよ」
「ですです。今の杏先輩は美女の皮被った二〇〇〇年代初期のヲタクみたいですよ。どぅふどぅふ言って早口でまともに話出来る状態じゃねえです」
想像に容易いが、その表現は流石に悪意がある。
「単刀直入に聞きますけど、花火大会の夜。何があったんです?」
困った。身に覚えしかない。
「別に。つかどうしてそんなピンポイントなんだよ」
確か杏の話では、あの日のふたりは疲れ切って眠っていた筈だ。
「夜中に杏先輩がシャワー浴びてたんであたし目ェ覚めちゃって。ご機嫌な鼻歌まで聞こえてたんで男絡みだとすーぐ分かりましたよ」
「ひ、日脚かも知れないだろ」
「ねーよ。本気で言ってます?」
食い入るような素早い返事。
…………この口振り、こいつ。前から杏の好意に気付いていたのか?
「杏先輩はアホじゃなく用意周到な策士なので、無暗矢鱈に肌とか水着とか晒さねぇです。あんなの着てたらそりゃ意地でも脱がないでしょ」
「すげー分かる」
「言質取りました、クロです」
つば姉に向けられる敬礼。重い頭を抱える。
いっそ洗いざらいさっさと喋るか、どうにか誤魔化すか。…………ここから誤魔化すの難易度高いな。
果たして、俺が何もかも喋るのを彼女が良しとするだろうか?
「────」
多分しない。そうする事で俺たちの関係だけじゃなく、みんなとの関係も変わってしまう。ぶち撒けるなら、お互いでちゃんと話し合って納得してから。じゃないと、余計な亀裂を生む羽目になる。余計な面倒事は避けるべきだ。
「夜の海でちょっと遊んだ、そんだけ。夜だから人もいないし、星が綺麗で悪くなかった」
これなら、ひとつも嘘は言ってない。
「月じゃなくて、ですか」
「…………何の事だか分からんな」
見透かすような花梨の眼光が俺の身体中を突き刺す。眉一つ動かさず答えた俺を、花梨はしばらく睨むと軽い溜息を吐いて「まあいいです」と尋問を続ける。
「つまり、二人きりのいちゃつきタイムを楽しんだ訳ですね!」
もうちょっとマシな表現をして欲しいのが本音ではあるが、指摘すると長引きそうな気配がするので触れずにいる。
つば姉にアイコンタクトが送られる。
「じゃあ、釈放。時間取らせて悪かったわね。帰っていいわよ」
ずっと黙ったままのつば姉が、手をポンと叩いてようやく発した一言。
想像していたよりあっさり解放され、花梨にそそくさと背中を押される。強引で力の入った両腕。流されるように校門へ。
やや束縛気質のつば姉と、重箱の隅を楊枝でほじくる花梨からして、もっとねちっこく根掘り葉掘り色々聞かれると思ったのだが。本当に帰っていいのだろうか。
「先輩、あたしクレープ食べたいです」
「俺はコーラが飲みたい」
「甘いもんにクソ甘いもんとか絶対身体に悪いですよ」
「ほらそこ、女の子がクソとか言わない。あと俺クレープ食べるとは言ってないから」
「女の子扱いしてくれるんすか。じゃあゴチになりまーす」
歩きながら思考を巡らせる。
もしかして、今から大量に飯を奢らされるのか……?
「…………」
まあ、こういうのもたまには悪くない。こいつが奢りを要求するのは珍しいし、きっと今月の小遣いピンチなんだろう。
言われるがままに花梨の注文通りの品を用意してやる。もはや原型を殆ど留めていないほどトッピングが施されたクレープを頬張るなり、明るい表情を浮かべる花梨を見て温かくなる心。
「満足そうで何よりだが、太るし糖尿病になるぞ?」
「心配ご無用、ならない方法知ってますから」
口元にたっぷりの生クリームを付けて口角を上げる彼女に釘を刺す。
「おい後輩、甘いものにカロリーは宿らないとかそういうのナシな?」
「言いません。ぶっ殺しますよ」
「なんで俺ぶっ殺されなきゃならねぇんだよ」
「簡単な話です」
どこかで聞いたやり取りを華麗に無視して、彼女はこちらの目をじっと見つめる。
「────医者に行かなきゃいいんすよ。診断されるまでは糖尿病じゃねえです」
絵に描いたようなしたり顔。
トッピングをなしにした、同じクレープにありつく。
もちもちとした生地、咀嚼する度に溢れる生クリームと甘ったるいチョコの奔流。どれだけ脳が甘味で喜ぼうと、健康に良くないのは明らかな味。
別段、感動するほどでもない普通のクレープ。だったのだが。
彼女の滅茶苦茶な理論を聞いた所為なのか、放課後の買い食いという背徳感あるが故なのか。ちょっとだけ特別なモノに感じた。
「ユニークなのは結構。でも身体は大事にしろよな」
家路に向かいつつ、花梨に声を掛ける。あくまで説教くさくならないよう、角が立たないよう。慎重に、気を付けながら。
「…………嫌われ者がぶっ壊れても誰も心配しませんよ」
「みんなが心配すんの。もちろん俺だって心配する」
「わーい、うれしー」
いまいち感情の籠っていない棒読みな台詞にチョップをかます。
「これでも本気で言ってんだ」
「解ぁーってます、やめてください。シリアスとかキャラじゃないんですけど」
彼女は立ち止まって少しの間黙って俯き、「でも」と続く言葉。
「あたしはこれからも無茶をします。嫌われても怒られても、反省なんてその場凌ぎ。自重なんてクソくらえですよ」
「お前なぁ」
言葉を遮り、花梨は「だから」と話を続ける。
「止めたきゃ手綱を握ってください。他の誰でもない先輩が。こ、恋人という抑止力があれば少しはマシになれると思います、から」
後半になるにつれ、どんどん弱くなる言葉尻。見た事のないしおらしい態度で振り絞られた告白に、開いた口が塞がらない。
花梨はずっと俺の事が。しかし、俺には。
「好きですよ、先輩。彼女にしてください」
「…………っ」
刹那。ふと脳裏を過る昔の彼女。出会った当初の花梨。
昼休み、わざわざ屋上まで逃げて来たというのに、それでも同級生にしつこく絡まれていた行き場のない少女の姿。目に映るすべてを拒絶している風な寂しい目。
放っておけばそのまま最悪の展開に繋がりそうだった、彼女の姿。
花梨の無垢な想いを拒絶すればどうなる? 周囲との関係を塞ぎ込んでいた彼女がようやく心を開いた今、ここでその恋を粉々に打ち砕いてしまえば、今度こそ自暴自棄になってしまわないだろうか?
でも俺には既に、杏が。恋人がいる。
「まずはありがとう、花梨」
第一声で断ろうとした雰囲気を悟ったのか、彼女の潤んだ瞳が費やした勇気と打ち砕かれた心を物語る。それを見てしまった俺は、出掛かった言葉を慌てて飲み込み、ついに腹を括った。
「────これからよろしく」
「…………えっ? い、いいんですか?」
予想外、とでも言いたげな花梨の表情。
常識的に考えればいい訳がない。
「変な事言うな。告白してくれたのはそっちだろう?」
「だって、さっき……」
俺には杏という彼女がいる。紛れもない事実だ。
だが、それがなんだ?
まさか目の前の彼女の想いを無下にしろと言うのか、ありえない。
所詮は学生同士の恋愛、別に結婚する訳じゃない。偉大なる先人も『恋は盲目』というぐらいなのだから、視野は広く持とう。確かアレだ。恋は惚れた方が負け、なのだろう?
勝者には選択肢が与えられて当然ではないか。何ひとつとして、不思議な事はない。
「…………はいっ!」
見た事のない純粋な笑顔と浮ついた声に、思わず頬が緩む。普段の雑な対応と合わさってか、違和感がすごい。
恋というのはどうなるか分からない。『いつの間にか自然消滅していた』なんて話もよく耳にするぐらいだ。恋人が二人いれば片方と自然消滅したとしても、ダメージはない。ちょうどいいだろう。
俺の狙いに花梨は気付く素振りもないまま、ただクレープを頬張る。それから俺達は手を繋ぎ、何事もなく帰路に着いた。
酷い仕打ちを受けている人間に対し、「前世で悪人だったんだな」みたいなガヤを飛ばすアホは定期的に湧くが冷静に考えて欲しい。だったら記憶も継げ。罪悪感ぐらい抱かせろ。
「おはよう、賭」
花梨の告白があった翌日の早朝。つば姉に屋上へ呼び出され、重い瞼を擦りながら足を動かす。寝落ちするまで出来立ての恋人の相手をしていた影響で睡眠不足だが、それでも何とか気合で。
「久しぶりに二人になりたかったの。ほら、杏ちゃんとは二人きりの時間を堪能したみたいだし、昨日はあなた花梨ちゃんと帰ったじゃない。じゃあ順番的に次は私でしょう?」
「帰ったっていうか帰らされたが正しいのでは」
「もう。細かい事はいいのよ、坊や」
朝練に励む運動部の掛け声をBGMにのんびりと青空を眺める。天気予報は聞いていなかったが、雨の降る気配はない。
少し歩いて屋上のフェンスを握り、空を見つめてつば姉が聞く。
「ね、覚えてる? あなたが私にくれた花」
「あぁ、花なんて贈ったのつば姉だけだし」
犀がくれたイカリソウ。忘れた事は一度もない。
「あらあら、ふふっ。じゃあ賭の“初めて”は私なのね!」
「そうだね、初めて花贈ったのはね」
「まだ持ってるのよ、知らなかったでしょ?」
「……いや、流石に枯れてるだろ。何年前だと思ってんの」
チッチッと舌を鳴らしながらつば姉は事細かに語る。水分がどうとか、容器がどうとか、特殊な加工がどうとか。多くの言葉を聞かされるがどれも脳には焼き付かない。
「悪いけどまだ頭がはっきりしてないんだ」
「あら寝不足。大丈夫?」
「大じょばない」
「可哀想。あ、話続けるわね?」
もうちょっと労わってくれてもいいのに。
「思えばアレがすべての始まりだった」
遥か彼方を映す眼光。そよ風がつば姉の髪をふわりと広げる。
風のおかげか、日差しに当てられてか、俺の頭は不思議と冴え始めていて。これから何が起こるのか、何を言われるのかを察して、ただ己の置かれた状況を受け入れる。
「ねえ、賭。あなたが同じ学校に来るって言うから、私ずっと待ってた」
「……うん。わざわざ二回も留年してまでね」
「あなたは本当に来てくれたわ。進路を変える機会なんていくらでもあったのに」
「自分だって忙しいのに俺の勉強付き合ってくれてたし、そこまでさせて『やっぱ行かない』なんて選択肢ないでしょ」
つば姉は掴んでいたフェンスから手を離すと身体をまっすぐこちらに向け、熱い視線で見つめる。
獲物を見つめる狩人のような目で。
「悪い子よね、お姉さんをこんなにドギマギさせるなんて」
一歩、また一歩と靴音が近付く。人差し指が下唇に触れた時、僅かな震えを感じて。
俺はただ、何も気付かないフリをしていた。
「だから仕返しも兼ねて伝えてあげる、私の想い。届けてあげる、私の心」
生唾をゴクリと飲み込み、天命を待つ。
お互いの顔が、もう目と鼻の先まで距離が縮まった時。彼女は静かに言う。
「好きよ、賭。私のモノになりなさい」
つば姉の顔は所謂、恋する乙女のそれとは違い、普段と至って変わらぬキリッとした表情で。それ以外は別段、驚く事はなかった。
二度ある事は三度あるって奴だろう。これがモテ期って奴か。
「……どうしてこのタイミングなのか聞いていい? 二人きりってだけなら、言ってくれれば時間ぐらいすぐ作るのに」
答えは決まっているので純粋な疑問をぶつける。昨日の今日で告白…………流石に怖い。実はみんなで俺に告白する罰ゲームとかやっているんじゃないだろうか?
「そうね、賭は優しいもの。でも、このタイミングが一番都合が良いのよ」
「誰か見聞してるかもとは考えない?」
朝練で忙しくしている生徒と何人かの教員、学校という場所を使ってる時点で人の目が集まる危険は高い。
「それが狙いだもの。とってもスリリングで青春って感じがして楽しいじゃない」
悪戯に笑って、つば姉は語る。
「目撃者がいれば噂になる。噂は瞬く間に広がって、あなたが出した結果に関わらず、恋敵への牽制になる。それに今このタイミングで伝えれば、少なくともあなたは今日一日中ずっと私を意識せずにはいられない。ぼんやりした頭の中で、HRから放課後まで、事あるごとにずうっと私の姿が脳裏にチラつくの」
つば姉は昔からこういう所がある。腹黒というかSというか、とにかく敵に回したくない感じ。
「ほんと、いい性格してるぜ」
妖しい顔に釣られて笑う。
「…………ねえ賭、私も聞いていい?」
「うん?」
「こんな時に全然ドキドキしてくれないのは、やっぱり女の子に耐性付いちゃったから?」
不服そうに口を尖らせたつば姉。少し寂しげな声音。
「誰かさんの仏頂面が感染ったのかも」
「もう。真面目に聞いてるのよ」
茶化す俺につば姉は不満を抱えたまま返す。俺は「ごめんごめん」と軽い謝罪を添え、そのまま慎重に言葉を選びながら答えた。
「ここ最近、具体的には杏が来てから。ジェットコースターみたいに騒がしかったろ。あいつ教室でもやたら絡んで来るし、だから耐性が付くのは仕方ないと思う」
ひとつ言っておくけど、と補足する。
「ドキドキしてない=魅力を感じてないってのは違うと思うんだ。俺は今も昔もつば姉の事を尊敬してるし、魅力たっぷりの女性だと思ってる。あ、変な意味じゃなくてね?」
「お世辞でも嬉しいわ」
真面目な説明をつば姉はさらりと流す。いまいち真剣に受け取られていないのが分かって、俺はつば姉の両肩に手を置き、熱い眼差しを加えて言葉を締めた。
「お世辞でも揶揄ってる訳でもない。…………だから。こちらこそ、よろしくお願いします」
頭を下げると、硬直するつば姉。
花梨の時と同じ。きっと心のどこかで、自分が受け入れられると思っていなかったのだろう。
「それ……って」
「受け取ったよ、つば姉の想い」
顔を上げる。刹那。
「~~っ!」
ダイレクトに伝わる圧迫感。反動でぐらつく体躯。簡単に振り解けない締め付けは、さながら呪いの装備。もちろん指摘はしない。
正直、誰か来る前に離れたいな。
二人の女性と付き合う覚悟を決めた時点で、それが後から三人になろうと何の大差もない。付き合う女性の数に応じて、愛情と心労はそれぞれに分散される。つまり、それだけ心の余裕が出来るのだ。
常に冷静に物事の対処が可能なのだから、花梨の時と同じく、これまた理に適っている行い。
余裕がなくなれば人間は何でもする。これは心の安寧を保つ為にも有益な事なのだ。
自分に言い聞かせるよう、胸の中で、ひっそりと。
つば姉の背中に軽く手を回し、浅い抱擁を返す。その日はずっと、クラスメイトから物申したそうな視線を感じつつも、何事もなく一日を過ごした。