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グリフォナージュ・ブリュット  作者: 陸海空我
幸せなキスをして、終了。
3/11

1-3 狭間の蝦夷菊は産声を上げる

 最初の印象は「こいつの名前書けねえ」だった。

「金木…………読めん。習ってない漢字だ」

(さい)。別に金木でいいよ」

 柔らかい笑みを向けて犀は笑う。もやしみたいにヒョロヒョロの身体、餅の如く白い肌、宝石みたいに綺麗な緑の瞳。それと、ふとした時にチラリと目に入る傷や痣。

 今にして思えば『優しさ』と呼ぶより、怯えた弱者の呟きというニュアンスの方がしっくりくる声色。

 気弱でいかにもいじめられそうな子供と、喧嘩っ早い少年(クソガキ)との出会い。あいつと俺の、すべての始まり。

 誰とでも分け隔てなく接していた俺は、犀とも当然仲良くなり、すぐに名前で呼び合う仲になる。互いの基本プロフィールから踏み込んだ問題まで、知り尽くすのに時間はそう掛からなかった。

「悪いのは親父さんだ、絶対。間違ってもお前じゃない」

「いや僕だよ。非を認めさせられないんだから」

 犀の両親は年の差の所謂(いわゆる)出来ちゃった結婚(授かり(笑)婚)で。両親の性格の不一致に加え、頑固で暴力的な亭主関白クソ親父のせいでいつも喧嘩の絶えない家だったらしい。とばっちりを受けるのは決まっていつも犀。

「はっ、理性的な返答(頭いいな)。それでなんか得した?」

「急にタイラー・ダーデン? いいセンスだね」

「タイ……誰そいつ?」

「ブラピだけど、知らないならいい。今度DVD貸すよ」

「勉強しとく。そうだ、犀! 勉強教えてくれ」

「宿題の答えってルビ振っとこうか?」

 勉強について行けないわけでも、物忘れが酷いわけでもなかったが、それでも俺は()()()()宿題を忘れ続けていた。その度、犀に世話を焼いてもらうのが目的。

 顔色が悪い、傷・痣が増えている。どちらか一方、またはその両方をいつも観測して。底なしに優しい犀は、俺が聞くまで決して両親のことを口にしない。「警察や児童相談所に駆け込め」というアドバイスを毎日した時もあったが、犀はそれでも頑なに動かなかった。

 誰より不満を抱いているくせに愚痴も悪態も吐かない。吐けばいいのに、ひとつも吐かない。

 地獄で過ごし、地獄に帰る、あいつの暮らし。どう考えたって狂っている。

 だから俺は。

「俺さ、鍛えてんだ」

 誰にも負けない強い肉体を求めた。

 テレビや映画でよく見る、ヒーローみたいな強さを。

 (あまね)く悪を捻じ伏せる、圧倒的な力を。

「いいね。ムジョルニア持てたら教えて」

 袖の裾から見える脇下の光景、そこに映っていた大きな痣。明らかに黒子(ほくろ)ではない足元の黒い斑点、あちこちにある掠り傷やら切り傷。ぷっくり赤く腫れた皮膚、血管みたいに浮き上がった蚯蚓(ミミズ)腫れ。

 きっと痛いのだろう。きっと苦しいのだろう。そんな想像だけ、想像だけがいつも付き纏う。望んだって代わってやれない。あいつのつらさを理解してやれない。

 一匹の子供(クソガキ)風情に何が出来るというのか、大人様(ゴミクズ)相手に何が出来たというのか。

 やり場のない感情を押し殺して生きていくうち、くそったれな日常が犀に追い打ちをかける。

「みんな宿()()やって来たね。じゃあ今日はそれを一人ずつ発表して貰います」

 計算も思考も必要ない、実に簡単な宿題。内容は『両親に名前の由来を聞いてくる』、それだけ。たったそれだけの事が、悍ましい悲劇を生むとは誰も考えない。宿題の発表を終えて昼休みに入る時の事。ひとりの男子が犀に話しかけたのが、悲劇の始まり。

「金木、お前の由来なんだっけ?」

 引っ込み思案な性格もあってか犀に俺以外の男友達はおらず、初めて声を掛けられた事が嬉しくて、発表したばかりの由来をもう一度言おうとする。

「花の────」

「人の発表ぐらいちゃんと聞いとけよ。キモくてくさいからだろぉ」

 第三者の乱入により凍り付く空気、漏れ出すクラスメイト達の笑い。犀のキラキラした目から光が消えたあの瞬間を、俺は今でも夢に見る。

 面白いことなど、何ひとつないのに。

「金木犀っつう、花の名前だボケ」

 すぐ否定する俺にまたも無関係なクラスメイトが現れて言う。そのままおびき寄せられるように、呼んでもいない連中が犀を中心に群がっていき、勝手に盛り上がる。

「金木犀だろ、知ってるよ。芳香剤の奴だろ」

「芳香剤って?」

「僕知ってる。トイレの奴だ」

「トイレって……やっぱりキモくてくさいじゃん」

 悪意は空気感染する。とうとう俯いてしまった犀を見て切れる、堪忍袋の緒。初めて殴った子供の頬は思っていたよりずっと柔らかかった。

 金切り声を上げるクラスメイトの声が風鈴にも聞こえて、殴りかかってくる連中の動きがやけに遅く見えて。静止する犀の声が聴こえてはいたものの、それよりもただ生きている実感を噛み締めていた。

 脆い歯を折って、無礼な手指を折って、尊厳を踏み躙る足を折る。子悪党でも血の色は同じなのだと知った。

 誰もが涙を流す。透明なのに泥のように汚く見えるそれが、訴えるものは、何もない。

 いま泣きたいのは、叫びたいのは、断じてお前たちではないのだ。

 各々が好き勝手に許しを請う。「ごめん」、「悪かった」、「許してくれ」。響くものは、何もない。家にすら居場所がないあいつから、たったひとつ残ったちっぽけな居場所すら奪うというのか。

 そうは、させん。

 青い感情が突き動かす。「ここで見過ごすような人間にはなりたくない」と。

 言葉ひとつで傷付けるなら、力ひとつで止めてみせる。

「謝りなさい」

 苛立ちを露わにして大人たちが言う。大人たちが駆けつけ、力ずくで止めるまで。クラスメイトをひたすら殴り、蹴り、嬲り続けた俺に。

「そうだぞ、謝れ」

「あなたに言ってるのよ、賭」

 笑って言うと、きつく睨んで威嚇する担任。威厳も畏怖もありゃしない目つきに俺は顔色ひとつ変えずに告げる。

「ごめん先生、銃持ってなくて」

 繰り出されるビンタ。あっさり見切った俺に担任が声を荒げて名前を叫ぶ。鼻で笑ってあしらう俺。

 子供(ガキ)とも大人(クソガキ)共とも喧嘩の絶えない日々が続き、見事に不良のレッテルを貼られ、犀と従姉のつば姉以外の話し相手が消える。すべて覚悟の上での行いだったし、実際、二人も話し相手がいれば生きていく上では十分過ぎるほどで。痛くもつらくも苦しくもない、何ひとつ不自由のない日常を謳歌していた。あの日が来るまでは。

「明日さ、転校するんだ」

 小学五年の春。夕日に照らされてブランコを漕ぎながら告げられる、突然の別れ。

「だから賭とは今日でお別れ。今までありがとう、楽しかった」

「エイプリルフール11日目か」

「…………両親の離婚が決まってね。近々、裁判とかもするみたい」

 どこか申し訳なさそうに話す犀。クソ親父の呪縛から犀たちが解放されると思うとすごく嬉しかったが、離れ離れになってしまうという事実に震え、素直に祝福できない自分の身勝手さに情緒が掻き乱される。

俺がいなくとも、(裁けるといいな、)大丈夫なんだな?(お前の親父)

 傲慢に満ちた言葉を飲み込み、苦し紛れに笑ってみせる。

 結局鍛えたところで俺は、犀の力になれなかった。

「賭はあの日どうして僕を助けようとしてくれたの?」

「お前が嫌がったから。親友が傷付けられて黙ってられる訳ないだろ」

「僕だって同じだ、親友()が悪く言われる筋合いはない。────僕が我慢すればいいだけの話だった」

 ブランコを止めて深刻そうに話す犀。

 俺がクラスメイトを片っ端からボコボコにしたあの日の出来事に、俺が不良の烙印を押されて過ごしていることに、犀は引け目を感じていた。ずっとずっと抱えていたのだと。初めて知った。

 いや、もしかして最初から────。

「そうさ。()()()()()()()()な」

 一瞬の沈黙。俺の名を呼んではにかむ犀。

「僕がいなくてもちゃんと宿題するんだよ?」

 刹那の涙声に気付かないフリを貫く。

「ンなの余裕だ。能ある鷹は爪を隠すんだぜ?」

「隠し続けて退化してなきゃいいけど」

 互いの拳を突き合わせて解散する。

 翌日のこと。学校でお別れ会をして車に乗っていく犀を見送りに行くと、あいつは変わった形の花を手渡して言う。

「イカリソウ。由来は花弁が船の錨に似てるから、らしい。花言葉は『旅立ち』だね」

 淡紅紫の花を凝視する。四方に拡がった花びらは、確かに言われてみれば、そんな感じ。

「そうか、大事にする。……元気でな」

「ねえ、賭。別に今生の別れって訳じゃない。生きていればいつか()()会える」

 椿さんによろしく、なんて言って妙に落ち着いている犀がどこか怖くて。俺は聞いていなかった行き先について問う。犀は「さあ?」と首を傾げて惚けた後、「でも」と言葉を置いて一言。

「誰も僕らをいじめない所。かも」

 儚げな呟きと微笑み。

 脳裏に過る悪い考え。

「…………犀!」

 焦りを隠せない俺は犀を引き留めようとするが、振り返らずに車に乗り込む。俺の声を、姿を無視して走り去っていく車。

 あいつの残した最後の言葉だけが、頭に響く。

 いじめのない所。()()()()()()()()()。現世には存在しないのだ。ずっといじめられていた本人なら、分からない筈がない。

 それでもあいつが、言葉通りの夢物語な場所に行くというのなら。それは。

「────生きてる?」

 全身を蝕む灼熱。ぺちぺちと頬を叩く女によって起こされる。

「死んで……」

「パルプンテ」

「うわあぁぁっ!?」

 素肌に当てられるキンキンに冷えたコーク缶に飛び退く。さらさらの砂とうざったい太陽と紫外線、ついでに幾人かの人間の注目を浴びる。俺は砂を払いのけて心を落ち着かせると、事態を起こした張本人、杏がいる安全地帯(パラソルのある日陰)に戻った。

「まだザオラルの方がマシだ! あとドラクエは8とジョーカー2プロフェッショナルしかやってねえから。まだFFの方がやってるから! ……どれくらい寝てた?」

 コーク缶を受け取って飲んでいると杏が話す。

「十五分行かないぐらい。賭くん、うなされてたよ。何の夢?」

 間髪入れずに「頭は痛くない?」とか「水分取ろうね?」とか「熱中症は怖いんだよ?」と質問責めをする杏を落ち着かせてから「昔の話だ」と最初の問いに答える。

 数秒の間を経て杏が聞いた。

「ねえ、聞いていい? 金木くんって……」

 そこまで言って杏は「ごめん。やっぱいい」と踏み止まる。いつもと違う改まった様子の彼女。

 …………杏は確か、あいつと同じ学校にいたんだっけか。

「幼い俺に、無力の意味を教えてくれた奴だ」

 答えを受け取ると、礼を言って黙る杏。

 杏は犀と同じ学校にいた。今の言葉を茶化さず聞くということは、少なくとも彼女は犀がいじめを受けていたという事を多少なりとも知っている。

 踏み込んだ話が出来るほどの人間が、俺以外にも作れた。そう思うと少し胸が熱くなった。

「────干からびるな」

 八月の炎天下。俺たち五人は中学の時から毎年恒例となっている、つば姉の知人の手伝いで海に来ていた。

 海の家から徒歩数分の位置に置いたビーチパラソルの中、下から上までじっくり見てから杏に言う。

 せっかくのわがままボディを生かそうとはせず、紺のラッシュガードに身を包み、モノトーンのキャップを被った不思議な恰好の杏に。

「そんな恰好、お前だけだぞ」

「へへっ、可愛い?」

「褒めてないんだが。散々動き回った後でそれって、暑くないのか?」

 つば姉・日脚・花梨の三人組と俺と杏の二人組に分かれ、一方がつば姉の知人の海の家でアルバイトをしている間、もう一方が遊びを満喫出来るよう交代制で働く。前半組だった俺たちに課せられた任務はもうない。

 後は好きに過ごせばいいだけなのに、杏は海水にも浸らず、暑苦しい恰好で俺の横にいたのか。

「暑いけど、日脚くんみたいなのにずっとナンパされるよりマシ」

「いくらあいつでもバイト中のナンパはしない」

 ついでに言えば、あいつはナンパというより女の方が話しやすいだけだ。

「遊んで来い、遠慮すんな」

 三人によって放置されていた水鉄砲を適当に投げ渡す。

「賭くんは?」

 首を横に振ると杏は不服そうに言い放って俺の真横に座り始めた。

「じゃあ行かない」

「……行けよ。せっかくの海だぞ。遊ばなきゃ勿体ないだろ」

「ブーメランが特技なんだ? 流石は勇者様」

 杏が体育座りをしたままこちらをじっとり見つめるので、俺は黙って背を向けて寝転がる。指で二回、三回と腹を突かれても無視していると、杏は持っていた水鉄砲を俺の背中に放つ。

「怒った? 遊ぶ?」

 悪戯な微笑み。どうやらこいつは意地でも俺を自由にさせてくれないらしい。

「一人で遊べ」

「やだ」

「なんで」

「なんでも!」

 既視感が過る。

 お菓子買って貰えない子供(ガキ)かよ。

「一人で遊ぶのは家でも出来るでしょ」

「お前ん家に海ないだろ」

「そういう問題じゃないの!」

 俺の身体をぐらぐら揺さぶって杏は騒ぐ。しばらく放置していたが、しつこい揺さぶりの所為か、酔いそうになったところで重い身体を何とか起こす。

 …………仕方ない。諦めないなら、次の手だ。

「じゃあ先にヤドカリ見つけて捕まえた方が勝ちな」

 意地でも俺と遊ぶというのなら、全力でつまらない遊びに付き合わせてやる。その場で嫌がるか、すぐ飽きて一人で遊ぶ方がマシだと気付くだろう。晴れて自由の身だ。

「なら賭けよう。負けたら罰ゲーム! 焼きそば奢りね」

 想定よりも好感触な杏の提案。断る理由はないし、賭けとあれば俺もいよいよ手は抜けない。

「乗ったぜ。賭けは成立した」

 そうして始まった杏との戦い。二十分が経ち、土の中でひとり呆然する。

「括れはいるよね」

「杏」

「なにー? 僕いま忙しいんだけど」

「お前アレだ、特技にヤドカリ探しって書いとけ」

「お褒めに預かりどーも。けど遠慮しとくね?」

 杏は俺の顔など見向きもせず、脱力し切った声で返事する。決着が付くのに時間はそう掛からなかった。運が彼女に味方しているのか、杏は十五分もかからず見事ヤドカリを捕獲。ご丁寧に自慢までしてみせ、ついでに俺の首から下までを土の中に閉じ込めて遊んでいる。

 遊びというには、やや真剣な顔つきだが。

「口開けて」

「そのちっこいバケツ降ろしてから言ってくれ」

「ハギスなんて作る気ない。()()があるし」

 土の入ったバケツを自分のすぐ足元に置き、両手を遠くにやって土をよく払いながら杏は言う。四肢を動かせない俺は、ただ生唾をゴクリと飲み込んで目を瞑り、恐るおそる口を開ける。

 乗せられる暖かい温度。咀嚼と共に押し寄せる人参とキャベツ、それと気持ち程度に入った肉の食感。麺が纏うソースの味は些かしつこい。紛れもなく、杏に奢った焼きそばの味だ。

「えっ、と」

 目を開ける。視界に映った杏は、ぼったくり焼きそばの入ったプラスチックの容器と箸をこちらに向けて様子を伺っていた。

「大丈夫、()()()()()()()口は付けてない」

 それとも、と付け足して彼女は笑う。

「付けた方が良かったかな? 口移しする?」

「雛鳥じゃねえンだよ」

 ツッコミを入れて少ししてから、一応お礼を言う。

「美味しかった?」

「ぼったくり。俺が作った方が美味い」

「本当~?」

 杏は半笑いで俺に返すと、綺麗な長い髪を掻き上げて耳に掛け、そのまま箸で焼きそばを食べ始める。

 俺に食べさせた箸で、何の躊躇いもなく、そのまま。

「適正価格だよ」

 こちらを見つめて悪戯に微笑みながら杏が言う。逸る心臓はきっと夏の暑さに違いない。

 それから、作業の合間に焼きそばを食べては、また俺に話しかける杏。

「ポージングのリクエストとかある?」

「ない。……物作りが好きなのか?」

 黙々と作業を続ける杏が気になって俺は彼女に聞いてみる。彼女は「えぇー?」と難しい顔をしてしばらく唸ってから答えを絞り出す。

「い、YES…………?」

「なんで疑問形」

 だって、と語り始める杏。

「そりゃ二元論で言えば好きだけど、そういう部活に入ってた事ないもん。中学の時は演劇部だったけど、例えば演じること……役作りも賭くんの言う『物作り』に該当するなら、ちゃんと胸を張って好きって答えられるかな」

「いいんじゃないか。犀も演劇部に?」

「そうだよー」

 なら、犀とは部活を通じて仲良くなった訳か。

 あいつとはよく映画とか見てたけど、まさか演じる側に行ってたとはな。

 杏と喋りながら小一時間を過ごし、砂遊びと記念撮影が終わる頃にバイトをしていた三人が戻る。夕方になり、みんなで花火大会に出向く。今度は俺・花梨・つば姉の三人組と杏・日脚の二人組。

 日脚と違って浴衣姿の女性陣にコメントしなかった俺は、不服そうな花梨とつば姉にうちわで突かれ、一日中振り回される。首が痛くなるまで花火を見て、予約していたホテルに泊まり、みんながすっかり寝静まった頃。ゲームのログイン作業を終え、ようやく眠り始めたはずの携帯が震える。

 画面に映る、騒がしい女の名前。

「子守歌はルームサービスに頼め」

 スピーカーをONにして、冷静に。

『なら、お喋りは君に頼もうかな。……二人とも遊び疲れて眠っちゃったけど。そっちはどう?』

 杏の声に反応して日脚に目をやる。疲れ切ってぐったり伸びた、間抜けな寝顔。多少騒いだぐらいじゃ起きないだろう。

「あいつは爆睡、俺も寝ようとしてた」

『邪魔しちゃったかな? ごめんね?』

 電話越しでもしょんぼり落ち込んでいる事が分かる声音。仕方なく太腿を抓って眠気に別れを告げる。

「いや。もう死ぬと言ってなかなか死なない、もう寝ると言ってなかなか寝ないのが現代人ってモンさ」

『あるあるだー。ねねっ、今スピーカーでしょ?』

「ご名答。そんな君には寝る時間を進呈しよう」

『ストップ、すとぉーーっぷ! まだ切らないで!』

 俺の行動を察した杏が大声で静止する。スピーカーでなければ鼓膜が危なかっただろう音量。

「貸し切りじゃねえの、声落とせ。そして寝ろ。ほら、夜更かしは美容の敵って言うじゃん?」

『いい加減ブーメランしまってよ勇者様。どの道このままじゃ安眠出来ないの。ね、ちゃんと耳密着させて?』

「…………はいはい、これでいい?」

 数秒の間を置いて繰り出した返事。

『ダメ。ちゃんとくっつけてってば!』

「やってるって。なんでつけてないって分かんだよ」

『嘘吐き。賭くんの性格を考えれば簡単に分かる。忠告は素直に聞くけど、言う事聞かないのが賭くんなんだから。布が擦れる音もそれっぽい環境音もなかったし』

「怖ぇよ」

 ついでに言えばシンプルに面倒くさい。

 布が擦れる音、ね。

「…………はい準備OK」

『だからつけてってば!』

「やったって!」

『やってない。今のはマイク拭いて三秒放置しただけだよ』

「本当に怖ぇよ…………」

『賭くんは学習した事すぐ実践出来るのはいいけど詰めが甘いの。教えた相手に程度の低い誤魔化し(そんなの)通じると思う?』

 彼女の鋭い洞察力に観念してスピーカーを切る。俺がちゃんと耳に付けた旨を伝えるより先に来た『ようやくしてくれたね』と少し疲れ気味の返事。(おのの)きを内に留めた。

 どうやってそんな正確に状況を把握しているのか不思議で仕方がない。ひとつはっきりしているのは、もう何も触れない方が安眠出来るのは確実ということだ。

『外を見て』

 外に何かあるのだろうか。言われるがまま重い身体を起こして窓の方へ歩く。藍色の触り心地が良いカーテンを開け、目線は窓に広がる景色へ。

 映るのは暗い海と風で揺れる木々、空にあるのは青い月と無数の星だけで、夜更かしをしている男女が線香花火をしている様な気配もない。杏はこの景色に何かを見つけたというのだろうか?

「海以外、何もないぞ?」

『本当に言ってる? 出て見れば分かるんじゃないかな』

 お前の眼は節穴か、とでも言わんばかりの呆れ口調に乗せられ、窓を開けてベランダに出る。そよ風に運ばれた潮の香りを一息堪能してから杏に言った。

「やっぱり何もねえって」

『じゃあほら、月見て』

 顔を上げて星空へじっくり視線を送る。

 五秒ほど注意深く眺めて見るも流れ星だのUFOだのの類は見当たらない。

「ただの満月だ」

『ふふっ。そう、ただの満月だね? でもそれだけじゃない』

「クイズは得意じゃない。勿体ぶるなよ」

 当てる過程を楽しみなよ、とつまんなそうに言って杏は言葉を続ける。

『────月だけじゃない。星も、風も、夜更かししてる住宅の明かりも。さっきまでは僕だけの、そして今は僕たちだけのモノなんだ』

 ゆっくり確かめては、その都度、噛み締めるように。

 彼女の含みのありそうな物言いに気付かないフリをして俺は言った。

「…………意味分かんねぇ(詩的な表現だな)

詩的な表現(意味分かんない)でもいいよ』

 すぐ近くでカランカランと音が鳴る。硬いガラス同士がぶつかったような高く短いその音は、どこか懐かしく。バイト中に嫌というほど聞いた風鈴なんかより、ずっとずっと海に似合っていた。

 音の方へ視線を送る。薄い壁を一枚隔てただけの、ちょうど女性陣が泊っている隣部屋。その柵の方からひょっこりと音の正体である玉の入ったガラス瓶と、ついでに見覚えのある雪のような手が姿を現した。

「お嬢さん、いいモン持ってんな」

『欲しい?』

飲みかけ(それ)は遠慮しとく」

『もう一本用意してたんだけど? あ、もしかして本心では飲みかけ(こっち)が欲しいのかな?』

 そう話すと杏は壁の方からひょっこり身体を覗かせて未開封のラムネをちらつかる。死ぬほど見慣れたにやけ面を浮かべて。

 俺は黙って未開封のラムネを杏から受け取ると、わざとらしい問いかけを無視して質問を重ねた。

「すぐ横にいるんだから電話いらねぇだろ」

『センスレスだなぁ。じゃあ、もうちょっとだけこのままでお願い』

 スマホの熱で耳が火傷しそうというのが本音なのだが、先ほどあったスピーカーの件を思い出し、大人しく付き合ってやる。

 ラムネの蓋を掌で押し出し、そのままぐいっと一口。月光を反射するビー玉がやけに美しく思えて、昔飲んだラムネよりも数段美味く感じた。

「瓶コーラが美味く感じるみたいに、場所と雰囲気でいつも以上に美味く感じるって奴かな」

『かもね。あ、誰から貰ったかのかも重要じゃない?』

「あーごめん、風の音で聞こえねえわ」

『よく秒でバレる嘘吐けるね!?』

「で、用件は?」

 虚を突かれたように威勢が消える杏に、俺はもどかしさと疑問符を浮かべる。

「何かあるからこんな時間に電話して来たんだろ」

『…………あー、それなんだけどね』

 歯切れの悪い返しに「なんだよ?」と聞くと、彼女はそこでようやく重い口を開いた。

ラムネ(それ)飲み終わってからでいいんだけどさ。えー、実はその、(わたくし)。海に忘れ物がございまして。賭くんに探すの手伝って欲しいなー、なんて。ダメ?』

 お得意の猫撫で声。全開のあざとさを持ち前の人間性で掻き消す、天賦(てんぷ)の才。

「おいおい、言うのが遅いだろ。大事な物か、特徴は? 日脚起こそうか?」

 飲みかけのラムネを片手に部屋の中へ戻ろうとする。が、杏は慌てて俺を制止した。

『待って、ストップストップ。みんなを起こすのは悪いよ、ちょっとの時間でいいから、()()()()()でお願い』

 口ぶりから察するに杏の忘れ物とやらは、あまり他人に見られたくないモノなのだろうか。一体何を、何故持ち込んだ。

 疑問を胸に押し留めつつ、俺は懐中電灯を持ち出す。

「分かった。着替えたら入口で待ってる」

 時計を見る。時刻は一時を過ぎた頃。

 こんな夜中に女の子ひとりで出歩かせる訳には行かない。どんな物を失くしたかは1mmも知らないが、とにかく早く見つけられる事を祈るばかりだ。

 ホテルの入り口まで駆けていく。海にいた時と同じ格好の杏が一足先に着いていて、俺と同じようにラムネを片手に所持したまま手を振っている。俺が一緒に探すと言ったからか、酷く取り乱している様子はなく、むしろ至って冷静に思える振る舞い。いや、心なしかややはしゃいでいるようにも見える。

「杏」

「ごめん、賭くん。来てくれてありがと。ほんと、すぐ済むから」

「別に。ただ、次からはもっと早く言えよな」

「ふふっ、()があってもいいんだ?」

「はいはい、そういうのいいから」

 転ばないように杏の手を引いて海へと急ぐ。足元を注意しながら、時折鳴いている虫やウシガエルの声を通り過ぎて目的地へ。

 潮の香りと小波の音、月が照らす無人の海はそれだけでとても幻想的な光景で、俺達は思わず息を呑んだ。

 到着するなり、まっすぐ海に近付く杏。

「杏?」

 まだ五分も捜索していないが、何か思い出したのだろうか?

「実は賭くんに謝らないといけない事があるの」

 海を背に深刻そうな顔で杏は呟く。

「ごめん、実は何も探してない」

「ハァ!?」

 衝撃の告白。

 だったら一体何の目的でこんな所まで来たというのか。

「ごめん、ほんとごめん」

 彼女は両手を合わせて申し訳なさそうな表情を浮かべて、二回続けて頭を下げる。

 ただの悪戯という訳ではなさそうだが、ひとまず何も失くしていなくてよかった。

「お前な……これでも本気で心配したんだぞ」

「だってこうでもしなきゃ、賭くん一緒に来てくれなかったでしょ」

 否定はしない。不要不急の外出はしない主義だ。

 バツが悪そうに話す杏。それにね、と言葉は続く。

「海に()()()ってのは本当」

 バサリと落ちる、昼間頑なに脱ごうとしなかったラッシュガード。

 現れたのは同年代の高校生とは到底思えない抜群のプロポーションと、何より彼女自身に凄く似合った水着姿で。

「その。どう、かな?」

 布面積が特別小さい訳でもなく、何か特徴的な形をしている訳でもない普通のビキニ。だと言うのに、俺の心は一気にぐらぐら音を立てて揺れる。

 彼女がグラドル顔負けの抜群のプロポーションを誇るから? 確かにそれは一理ある。

 夜中に嘘を吐いてまでした事が『俺に水着を見せる』だったから? なるほどそれも大事だろう。

 だが違う、違うのだ。こういう時の答えというのはいつも至極単純で、いかにも馬鹿らしい。

 彼女の水着が────牛柄ビキニだったからだ。

「頭ん中でビサイドオーラカが沸いてる。見たのは俺だけ?」

 昼間、海にいた時の彼女を思い返す。頑なにラッシュガードを脱がずにただ俺と砂遊びを繰り返していた原因はコレか。察するに、深夜テンションで持ち込んだ水着の持つ危険性に気付き、脱ぎたくても脱げなかったのだろう。

 確かにこんな格好で海にいる女の子がいたら、十中八九悪い男に捕まる。海に遊びに来た少年やら世のお父さん達が目撃すれば、それはもう大変な事になるのは明白。彼女の選択は正しい。脱がなくて正解だった。

「賭くんにしか見せないよ。何の為にこんな回りくどいやり方で連れ出したと思ってるの。昼間とかほんと地獄みたいに暑かったし、本音を言えば海で遊びたかったんだから!」

 大体さぁ、と強めの口調でヒートアップしたまま杏の語りは続く。

「こんなの承認欲求お化けの根城(pi〇iv)承認欲求お化けの巣窟(Twit〇er)でしか見ないよ!? 他で見る機会あってもゲームか年齢制限掛かるタイプの本とかお店だよ!? そりゃ探ってみた方もどうかと思うけどさぁ、こうして買って着ちゃってる奴が言うのも何だけどさぁ。ほんともう、なんでこんなの売ってるの!?」

 顔を赤くして感情的に叫ぶ杏。

 ついでに言えばそれ着て馬鹿正直に泳ごうと思ってる人間は、恐らく世界で彼女ひとりだろう。

「今はもう(〇ックス)。伏字にしたらただの丸だろいい加減にしろ」

「流石にそれはイーロン〇マスクに言ってね?」

 最初から水着を二着用意して置けば良かったのでは、とか言ったら杏に怒られそうなので、大人しく内に留めておく。

「まあ、なんだその。なんかごめん」

 ツッコミ所は多々あれど、原因を作ったのは俺らしい。

 暫しの沈黙。見つめ合う時間。

「許して欲しい?」

「いや、別に」

「…………許して欲しい?」

 あ、ループする奴だこれ。

「じゃあ、ちょっとだけ遊ぼ!」

 呆然としている俺の返事を待たずして杏が話す。

 本音を言えば海の水など触りたくないし、何なら足が浸かるのすら嫌だ。

「──────」

 嫌なものはどこの誰が何と言おうと嫌だ。がしかし、彼女は俺の所為で遊べなかった様なので。

 その責任ぐらいはやっぱり、何かしらの形で取るべきだ。と、少なくとも俺はそう思う。

「ちょっとだけだぞ」

 服は洗えばいいだけだし、こんな事で満足するなら、少しぐらいは我慢しよう。海は汚いだけで別に死ぬ訳じゃない。

 流石に夜の海を泳ぐのは危ないので、暗い海水に両足を付けて杏と適当に掛け合う。大した事はしていないのに馬鹿みたいに笑い合って、どこか心が落ち着く不思議な時間。

 この安らぎはゆったり流れる波の音と、水面に映った月明りと星が醸し出しているのだろうか。

 それとも。

「ね、賭くん!」

「水掛けながら話すなよ、口ん中入るぞ」

「それは賭くんが止めればいい話でしょー?」

「やなこった。で、何?」

「もう。んとね、今日どうだった?」

 杏に言われて思い出す。

 海の家でのバイト、みんなで盛り上がったビーチフラッグとバレー、制覇したぼったくり価格の出店、総額いくらか想像も出来ない花火。

 新参者を交えてイベントを楽しむなんてのは久しぶりだったのもあってか、とても満足している。海なんて汚い場所ではしゃぐのも、ショボくてぼっそぼその細麺焼きそばも個人的にはNGだが、今日ぐらいはいいだろうと、確かに思えたのだ。

「まあまあ楽しかった。杏は?」

「ほんと!? 僕は結構楽しかったよ。でも今が一番楽しい!」

「冗談だろ。海水ぶっかけ合いながら駄弁(だべ)ってるだけじゃん」

「やってる事はそうだけど、至って真剣でーす。あとでどっちがビー玉遠くに飛ばせるかやらない?」

「こらこら、海にゴミ投げんな」

「そう言えばさ、ラムネに入ってるビー玉って実は“A玉”って知ってた? えぇ玉やー」

「OK、その話は脳みそ混乱するから止めとこう」

 深夜のせいか、妙なテンションの杏。

 杏の動きがピクリと止まる。顔に水を掛けてみても反応はない。

「電池切れ?」

 一日中動き回っていたのだから、いかに体力お化けの彼女と(いえど)も、疲れが溜まっているのは不思議な話ではない。まさかいきなり停止するとは思ってはいなかったが。せめて無事に部屋へ戻るまでは、PSPのバッテリーみたいにもうちょっと根性を見せて欲しいものである。

「…………あーあ、やっぱり夏の暑さで頭おかしくなっちゃったみたい。今日暑かったもんね」

 杏は月に向けて顔をやると両手で目元を覆う。

「なら帰ろう。熱中症は怖いんだぞ?」

 昼間、彼女に言われた事をそっくりそのまま笑って返す。杏はすぐに首を振った。

「僕ね、今とっても幸せなのにそれを滅茶苦茶に壊したいと思ってるの。ほんっと馬鹿だよね」

 いつもの太陽のような微笑みとは真逆の、どこか吐き捨てるようなはにかみ。

 この数か月で初めて見る、杏の顔。

「変わった奴だな。なんで壊したい?」

 そこまで聞いて杏はようやく両手を海へと降ろす。

「もっと別の幸せの為、かな? 今の幸せとは共存出来ないから、壊すしかないの」

 へらへら笑って「今の幸せを、ぶっこわーす」と、どこかで聞いた話し方と手振りで茶化す彼女と対照的に、俺は神妙な顔で聞き返した。

「…………得るモンがなかった時はどうなる?」

「えー。どうしてそうマイナス思考かなぁ」

「分かってねえな。賭けをするならリスクとリターンはちゃんと見なきゃいけねぇの。その上で常に最悪の場合を想定する。賭けが失敗に終わったとして、それでもお前は満足出来るか? 負けを受け入れて、それでもやって良かったと思える賭けなら存分にやればいいさ」

 真面目な返事など最初(ハナ)から期待していなかったのか、あるいは顔に似合わず少しはまともな事が言えるとでも思ったのか。熱く語る俺に、杏は驚いた顔で数秒見つめて「そっか」と吹き出した。

「なら、折角だから壊してみるね。僕が今こうしてるのは奇跡みたいなものだし。……ありがと、やっぱり賭くんに相談して良かった」

「いいモン見せて貰ったお礼だ」

 持ち前の天然が炸裂した結果とは言え、杏の貴重な牛柄ビキニ姿は脳裏に刻んでおこう。単純な目の保養にも、揶揄われた時のカウンターにもなる。絶対に忘れてなるものか。

「賭くんに言わせれば、『賭けは成立した』って奴だね」

 杏は顔をこちらに向け、ゆっくりと近付いて来る。

「ねえ、聞いて?」

 ほんのり紅潮した頬、潤む瞳と猫撫で声。

 うるさい筈の波音がどこか遠くに聞こえる。

「お、おう。ちゃんと聞いてるだろ?」

 杏相手に何故かたじろいでしまう敗北感を味わいながら、悟られないよう質問に質問を重ねる。

「毎日聞きたい声があるの。出来るならこの命尽きるその瞬間まで聞いていたい、どこか安心する声。僕の胸を突き動かして離さない、不思議な力を持った声。特別いい声でも特徴的な何かがある訳でもないのにさ」

 両手を後ろで組んで目を閉じながら、杏は言葉を続ける。

「食事の度に『いただきます』って、『ごちそうさま』って、言い合いたい人がいるの。一日の最初に『おはよう』って言いたい人が、一日の最後に『おやすみ』って言いたい人が。明晰夢の中でだけ見つめ合って素直にお話し出来る人がいるんだ」

 閉じた瞳がゆっくりと大きく開き、比例するように言葉へ込められた感情が重みを増す。

「今日見たどんな花火よりずっと見ていたくて、黒一色の人生(今まで)をあの手この手でカラフルに塗り潰してくれて、神様よりも頼りになる。そんな…………。友達でもいいけど、そうじゃなければ()()()()()()()()って思える。素敵な人」

 強調される言葉。そこまで話して、深呼吸をひとつ。

 飛沫を上げた波と潮騒がまるで、彼女の華奢な背中を押しているようにも見えて。彼女は長い告白を終える。

「一累賭くん、僕と恋人になってください」

「──────」

 俺たち以外は人っ子ひとりいない無人の海。月が照らし、星が彩り、夜風が髪を撫で、やけに暖かい水温。

 人間は時間すらも止められるのだと知った。

「エスパーじゃないんだから、黙ってちゃ分かんないよ。大好きって言ってるの」

 突っ立って固まったままの俺に痺れを切らしたのか、終わった筈の告白は、追い打ちをかけるように続く。

()()()()()()()ずっとずっと大好きって言ってるの。ね、返事は?」

 頬こそ赤いが、言葉に震えはない。緊張や怯えがない。ただ、まっすぐにこちらを見つめる熱い視線だけがあって。

『賭くん』

 頭の中で彼女の声がする。何度も、何度でも走馬灯のように笑顔がフラッシュバックして。向けられていたその意味を、やっと理解する。

 温かいのは、熱いのは。俺の身体だ。

 初めての告白(未知との遭遇)にどうしようもなく心臓がうるさいのだ。

「あ、新発見。賭くん、耳から赤くなるんだね?」

 杏は一向に返事しない俺を暇そうにジロジロと観察していると、耳元を指差して揶揄う。

 彼女の一挙手一投足を妙に意識してしまう自分が照れくさく、心を静めてから言葉を紡いだ。

「…………あの、さ。そういうお前はなんで余裕そうなんだよ。こういうのって受け取る側じゃなくて送る側のが恥ずかしいんじゃないのか」

 精一杯に取り繕った、即席の平常心(ニュートラル)。悟られていないだろうか。

 涼しげな顔でこちらを眺める杏に聞くと、彼女は笑って答える。

「大好きな人のアドバイスがあるからね。常に()()()()()を想定するんでしょ?」

 好意を前置きに語る杏。

 考えてみれば彼女がウザ絡みするのは決まって俺だけで、他の人間がいる時は借りて来た猫みたいに、じっと大人しくしていた。

 事あるごとに何かと俺に絡んで来るし、今だって大胆な水着姿を俺にだけ見せようと、非常に回りくどいやり方でアプローチを掛けて来たのだ。

 彼女は俺が、好きで好きで仕方がない。その上、面と向かって大胆に告白する勇気と、呆気なく振られる覚悟の両方が出来ている、と。

 恐れ入る。なんて強い女性なんだろうか。

 彼女の好意については正直な話、今まで全く考えなかったのかと言われれば嘘になる。俺にだけ向けられる思わせぶりな言葉や反応の数々。けれど、心のどこかで「そんな訳がない」と決めつけていた節があった。

 ただ。

「────気持ちは嬉しい。でも俺たちは出会ってそこまで長い付き合いじゃないだろう?」

 杏の事は決して嫌いじゃない。容姿はめちゃくちゃタイプだし、割とよく振り回される事もあるけど、それが決して悪くないと感じてる自分がいるのも確かだ。けど、まだ出会って()()()()()()()()()()()に対してそこまで言い切れる強さの秘訣が、俺にはどうも分からないのだ。

「…………『お互いを深く知ってからでも遅くない、まずは互いを意識し合う()()()から』って事かな?」

 問いかけに対し、縦に振った首。

「結論から言うと賭くんの考えは間違ってる。お互いを深く知ってしまえばしまうほど、ときめきは失われるの。友達として仲良くなればなるほど、恋人からは離れて行くんだ。これは持論だけど、実はさ。人と人との関係性……その名称が恋人でも友達でも、辿り着く理想の終着点は一緒なんだ。分かる?」

 数秒考えて俺は首を横に振る。

「替えの聞かない究極の安心感、だよ。落ち着けない相手と人生で同じ時間を過ごし続ける、なんて罰ゲームはお金貰ってたってやってらんないもん」

 確かに彼女の言う事は最もだ。

「友達としてでも賭くんと熟年夫婦が持つ実家のような安心感を得られるのは素敵なんだけど、それを恋人という段階になってから得る事に大きな意味があるの。だって友達のままじゃ決して得られない()()()()()()()()()が見られるから、単純にお得。一石二鳥だよね」

「損得で俺との関係性を変えるのか? これまでのすべてをぶち壊す可能性を孕んでまで?」

 違う、と食い入るような否定の言葉。

「友達としてのあなたが好き、仲間としてのあなたが好き。次は男の子として、恋人としてのあなたが知りたい。きっと、もっともっと好きになっちゃう。嫌じゃないなら教えてよ、これから僕はどうなっちゃうのか。キミの隣で、恋人として、さ」

 一言ずつ丁寧に噛み締めるように、聞いてる方が百倍恥ずかしい論理的な演説を終えた杏は、柔らかな笑みを浮かべる。単純な愛情を超えた、慈愛すら感じさせる不思議な微笑み。

 紅潮していた頬はいつの間にかすっかり元の色に戻っていた。

「夢を壊すみたいで悪いけど、流石に買い被り過ぎだ。俺はただウザ絡みして来るお前を毎度適当にあしらってただけで、一度だって彩りなんか与えちゃいない」

 彼女はくすりと笑う。

「特別なんていいの、十分楽しいから。賭くんが僕を()()()()()、それだけでしか得られない栄養素が、きっとあるんだよ」

 友達でもいいけど、そうじゃなければもっともっといいって思える素敵な人、か。

 こりゃ参ったな。彼女の御眼鏡に適うような真っ当な人間では到底ないと思うのだが、どうにもそういう問題じゃないらしい。

「────」

 彼女の理屈を否定する気も、ましてやこの誘いを断る理由も、俺には存在しない。

 なにより。彼女が出してくれた、その勇気を。否定したくはないのだ。

「…………帰ろう、杏。夜道は危ない。こんな事で身体が冷えたら困る」

 やや強引に杏の手を引いて陸まで上がる。

「ちょ、ちょっと?」

「心配してんだから四の五の言うな」

「だってまだ!」

「────大事な彼女の、身体なんだから」

「…………っ!」

 彼女の顔にようやく現れた確かな動揺。少しの満足感を覚える。

 強く握り返された掌の感触をしっかり確かめ、俺たちは何事もなく夜の海を後にした。

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