2-5 面張牛皮のスカビオサ
つば姉と話した翌日から、杏が学校に来なくなった。
正確には登校しないか、しても保健室に籠ったり早退が続く毎日。
あいつの傍にはいつも日脚がいて。話したいのに、話さなきゃならないのに、どうにも都合が嚙み合わない。避けられているのは明白だ。
ならばとせめて、見舞いに行こうと画策して花梨やつば姉に杏の家を聞くも、二人は知らないと言う。学校中の生徒に聞き取りをするが、誰もが「杏と遊ぶ事はあっても杏のプライバシーに関しては全く知らない」と口を揃えて話す始末。
「どしたん? 話聞こか?」
「いや、いい」
そんなこんなで嗅ぎ回っていると日脚まで出て来て、けれど日脚に杏の話など当然出来る訳もなく。大人しく立ち去るしかない状況が続く。
「そうか。……ところで、目ぇ大丈夫なん?」
「パンダみてぇだろ。大丈夫、ちゃんと見えてっから」
両目に出来た大きな青痣を指して気まずそうに聞く日脚に笑って話す。女二人に本気で殴られただけ、自業自得の産物だとは口が裂けても言えない。
「名前は珍珍ですかね」
後ろから現れて躊躇なく下ネタをかます花梨。振り向きざまに繰り出された蹴りを躱すと彼女は心底嫌そうに舌打ちをして日脚に言った。
「日脚先輩、毎年恒例のクリパやるんで予定聞きたいんですけど」
「もうそんな時期か。でもごめんな? 今年は俺と杏ちゃん空いてへんわ」
「……お前が決めるのか?」
「無理や。俺が埋める」
柔らかい表情のまま眼を鋭く光らせて即答する日脚。強い圧を感じて大人しく手を引く俺たち。
進展がないまま時間だけが過ぎ、リビングに飾っていたカレンダーが師走を指す。そうして何週も経って、話せないまま訪れてしまうクリスマス。
「クリパの件、やっぱ無理みたいです」
携帯片手につば姉とふたりでリビングの炬燵を独占しながら花梨が言う。
イエスの生まれた日だってのに。いや、正確には太陽神ミトラか。なんて戯言を呟いては、テレビの下にあるPS4を起動し、慰め代わりにイエスマンを鑑賞する。
クリスマスパーティに託けて話そうと思ったが、流石に釣り針がデカかったか。
「ま、百歩譲って来たとしても日脚先輩がぴったり張り付いてちゃ本当にただのパーティですよ」
後輩の手痛い突っ込みに目を背けるよう冷蔵庫から氷とコークを取り出し、人数分のグラスに注ぐ。
画面に向かって黙々と睨めっこをしていたつば姉が、キッチンにいる俺に確認する。
「照り焼きピザ、クリームコロッケとポップコーンシュリンプ、あとはチキンとローストポテトで良かったかしら?」
「待った、チキンはなし!」
「えー。チキンないクリスマスとかありえなくないですか」
「クリスマスにはシャケを食え。支払い俺なんだから。唐揚げ作るからそれで許せ」
不満そうに手の離せない俺の脇腹を突きに来た花梨を、何とか宥めながら、黙々とパーティの準備を進める。注文していた宅配ピザが届いて、所持金がごっそり減って、三人だけの時間を過ごす。
杏は、どうしているだろうか。考えても分からない謎だけが、頭の中で蠢く。
思えば、青木杏という女の実態はずっと謎に包まれていた。いや、現在進行形だ。
押しが強くて騒がしい女。仮にも進学校に来ている以上、普段の言動・奇行が目立つと言っても馬鹿ではない。最初から距離感のバグった馴れ馴れしい────。
そこまで考えて脳裏にフラッシュバックする過去。
「……馴れ馴れしいんだよ」
そう、彼女は最初から一貫して馴れ馴れしい態度だった。俺に、俺だけに。
男だとか女だとか、仲が良いとか悪いとか、一切関係なく。誰に対してもあいつの態度は青木杏という転校生の美少女で、俺に対しては…………なんだろう。鬱陶しいという言葉が服を着てるような存在であって、他とは決定的に何かが違う女?
パチパチと手元で弾ける炭酸が「考えろ」「早く気付け」と煽る。それが出来れば苦労はしないのだ、と言葉と共に一口飲み込む。味蕾から喉へ流れていく甘さの溶岩が胃の奥まで焼き尽くすような快楽を与え続ける。痺れる脳、冷えて震える口腔を誤魔化そうと、温かな肉汁を閉じ込めた唐揚げで口を閉じ込める。重厚で柔らかなモモ肉から本来しないサクサクという軽快な炸裂音と食感。口内で爆発する強烈な肉の旨みと油の様はさながら手榴弾を受けて四散する兵士の四肢と血飛沫といった所か。
「…………」
唐揚げ。肉と衣。
人間で言うなら、本音と建て前?
「つまりは二面性?」
よくよく思い返せば、杏は「僕」と「私」、ふたつの一人称を使い分けている節があった。俺とふたりの時は決まって「僕」で、普段は「私」だ。何故そんな事を? どうも無意味とは思えない。意味なくそんな面倒な使い分けをする奴がいるのか?
頭の中で何度も何度も再生される、杏の言葉。
『初めまして、青木杏です』
『好きなものはお花』
『心配しなくても口は付けてない』
『賭くんの性格を考えれば簡単に分かる』
言葉に出来ない何かが、ずっと引っ掛かる。彼女の、俺に対する過大評価は何なのか。
『何の為にこんな回りくどいやり方で連れ出したと思ってるの』
『今の幸せを、ぶっこわーす』
『明晰夢の中でだけ見つめ合って素直にお話し出来る人がいるんだ』
『友達でもいいけど、そうじゃなければもっともっといいって思える。素敵な人』
『出会った時からずっとずっと大好きって言ってるの。ね、返事は?』
どうして俺なんかをそこまで好きになれるのか。まるで意味が分からない。
毎度あいつのうざ絡みを躱し、あしらい続けた筈だ。
『ごめんね。今まで付き合わせて』
『別に好きじゃない、ただ縋りたいだけ』
『大好きだよ、ばいばい』
勝手に盛り上がって、勝手に楽しんで、勝手にどこか消えてった。
どうして俺は、いつも。犀を守れなくて、三人を大事に出来なくて、結局何もかも駄目になる。杏にちゃんと頭を下げることすらままならい。なんてザマだ。
「先輩。青木杏って何者なんでしょ」
炬燵の中で花梨がぶっきらぼうに聞く。
「……俺にも分からん」
「今年もあと少しで終わるっていうのに、学校中の誰も彼女を知らない。花梨ちゃんと女子会した事があったけど、その時も特定の人物の愚痴がメインで彼女自身のことは結局さっぱり」
あの三人に時間いっぱいタコ殴りにされる人物、ちょっと同情するな。
つば姉の話を聞いて、花梨が顎に手を添えて神妙な顔を浮かべる。
「青木杏は自身に纏わる一切の情報を秘匿、その上で他人様の情報収集にはご熱心。何か目的があって行動しているとしか思えません」
「一切の、ってこたぁないだろ。俺が知ってるだけでも……」
補足がてらに杏について、彼女自身の口から聞いたことを話す。
あいつは知らないことを知れるのが好きだってこと、中学の時は演劇部にいたこと、他にも思いつく限り。喋っているうち、どうしてこんなに語れるのか、自分自身に驚いて。
杏と会った初日の記憶が蘇り、彼女の持つ二面性について、いよいよ認めざるを得なくなる。
「────全部、付き合う前の話だぜ?」
青木杏を知っているのは俺だけだ。
俺だけだ。なんでだ、どうして誰も知らない!
「杏ちゃんって、賭が覚えてないだけで実は昔、接点があった子なんじゃない? ほら、不良に絡まれてる所を助けたとか!」
「いや、助けた奴はちゃんと覚えてる。そう多くないからな」
慈善活動で悪党殴ってた訳じゃねぇんだから。と補足しつつ思考を続ける。彼女自身の言葉を頼りに、記憶を呼び覚ましながら。
杏は出会った時から俺が好きで、付き合うというのは彼女にとってあくまで賭け、友達の関係でも良かったんだ。花梨みたいに輪の中に入れば彼女は十分、幸せだった。
ならどうして、あいつは消えた?
「……思い出した」
「賭?」
青木杏は知りたかった、俺という男が。
経緯は知らない、理解も想像も出来ない。けれど、彼女はただの馬鹿じゃない。
「────」
馬鹿げた仮説が頭を掠める。絶対にない、何もかもおかしい。
けれど、けれど。そう考えれば自然とすべてが繋がっていく、言葉と行動の意味が手に取るように分かっていく、悍ましい話。
■■が青木杏の正体……?
「行かなきゃ。ありがとう、二人のおかげで分かった。何をすべきか」
もしこの仮説が正しいなら。考える事に意味はあっても、答えは出ない。そういう仕組みになっている。
沸々と血が滾る。割れそうな頭を抱え、さぞ聖夜を満喫しているであろう男に取る連絡。意外にもすぐ返ってきたふたつ返事に思わず緩む頬。伊達眼鏡がずれ落ちて、足元にぶつかる。それを拾って、ぐしゃりと一握りに潰す。
これは、もういらない。きっと、最初からこんなもの、必要なかったんだ────。
頭の中で膨らんでいく感情を抱え、暖房の効いた暖かい家を飛び出し、待ち合わせ場所まで急いだ。
暗闇の中を割いて行く。雪降る寒空の下、ダウンジャケットを着込んだ男が突っ立っていて、俺は深呼吸をひとつ。ゆっくり声を掛ける。
「日脚」
振り向き様に俺を呼ぶ声は思っていたより小さく覇気がない。荒ぶ風に負けている。
赤くなっている鼻から長い時間、外にいたのだと察した。
「少しでいい。杏と話をさせてくれ」
「……諦めぇ。杏ちゃんに近付くな。あの子ほんまはお前の顔見るんもキツいんや」
俺の言葉を聞くなり心底嫌そうに日脚は話す。
「あいつがそう言ったのか?」
「いいや。言うてへんけど、どっかのアホと違うて俺はよう見とるから分かる。お互いの為に、止めようや」
「これは俺とあいつの問題だ。お前は関係ない」
「元彼風情の出る幕ないんじゃボケ」
日脚は敵意を露わにしてこちらを睨みつける。眉間に寄ったシワの数だけ怒りが込められているような気がして、背中から溢れ出す冷や汗と懐かしい記憶。
最初にあった時も敵意剥きだしにしてたっけ。
「なに笑とんねん。お前があの子に、あの子らに何したか、俺は全部知っとる」
自然に上がった口角を指して怒声が返る。
つまり、杏からすべて聞いたと。
杏はやっぱり、俺が二人と付き合っていたのを知っていたと。
「そうか」
何をどう言われようと、思われようと、今ここで引く訳には行かない。ここで引けば、日脚とも杏ともぎこちない関係のまま。自分が蒔いた種とはいえ、そんなの嫌だ。
「お前が許す必要はない、杏に許されるつもりもない。会って、謝る……それだけの話だ」
「男はいつもそうや。自分のしたい事が最優先、平気な顔して女の子傷付けって放り投げる」
「主語がデケぇよ」
「俺が男嫌いなん知っとるやろ。お前のやっとった事、俺が一番許されへんの……分かるやろ。杏ちゃんはお前の顔なんか見たくもないんじゃ。自己満足もエエ加減にせぇよ」
段々と音を立てこちらへ踏み込んで来る足。右手をジャケットに突っ込んだまま、一直線に加速して、電柱の灯りに照らされたところで日脚の胸元から煌めく銀。闇夜に溶け込んでいて見えないが、それでもしっかりと握られているのが赤みがかった右手から分かる柄。
今にも飛び出しそうな目玉が物語る。殺してやるぞ。
「…………ッ!」
繰り出された突きをギリギリで躱す。
「なんで避けるんや……?」
「時じゃないからだろ」
力ない問いを鼻で笑う。
幾度となく飛んでくる刃の直撃を避けるが、それでも服の裾や足を掠めて、流れる赤。
痛みと冷気の二重苦が絶え間なく襲ってくる。
「寒っ。風邪引いたらどうすんだ馬鹿野郎」
真面目に取り合わない俺へ怒りがすっかり失せたのか、日脚は包丁をその場に放り投げて話す。
「決して愛されない若人たち。片や、あなたの為にと生きて絶望した人。片や、お前の為にと生きて諦念した人。始まりからして歪な二人は、ある日偶然出会って、徐々に結ばれつつある。運命の赤い糸で繋がってると思わんか?」
先ほどまでの力強さと威勢を失った、同意を求める一声。「頼むから放っておいてくれ」と縋りつく子供のような、どこか訴えかける声音。
日脚の言葉から、青木杏という人物について立てた仮説がより強固なものに変わっていく。
ひとりの為に? やっぱりそうだ、馬鹿にしやがって。
「アリアドネの糸ってか。最後結ばれてないよな」
運命などと、どこまでも笑わせる。二人が真に結ばれつつあるなら、あっさり呼び出しに成功する筈がない。
目を凝らしても見えるか見えないかの不確かな糸なんて、最初から存在しないのと同じだ。第一、ちょっとした事であっさり千切れるに違いない。
また包丁を拾って刺されないうちに、有無を言わさず追い打ちを掛ける。
「勘違いすんなよ、偶然を尊ぶ心はあるぜ。でも再現性のない幸せにゃ価値こそあれど興味ねえよ」
喋りながらさり気なく包丁を回収して言い終えた俺に、日脚は視線を向けるのみで、何も語ることはない。
得るべくして得る、勝ち取るべくして勝ち取る。敗れるべくして、敗れる。
それが一累賭の賭博。心血を注ぐに足る休み知らずの大博打。
「…………」
黙り込んだままの日脚が、溜息をひとつ。白煙が夜空に溶け出したところで、右ポケットから棒状の何かを取り出してこちらへ投げつける。
落とさないようにしっかり掴んだ物体を見て、開いた口が塞がらない。
「杏ちゃんは時折“あの場所”で置いてきた誰かを想うとる。何が悲しいてそんな事やらなあかんねん、何が嬉しいてそないな事しとんねん」
「日脚、お前」
久しぶりに目にした日脚の私物。いつも肌身離さず携帯している筈なのに、何故か最近使っているのを見かけなかった、ボイスレコーダー。
「今日な、杏ちゃんとキスしようと思たんや。でも出来へんかった。そったらあの子、目ぇに涙浮かべて震える声で『ごめん』て俺に謝んねん。……逆やろ。ごめんはこっちの台詞やわ」
吐き捨てるような台詞に声を掛けようとした刹那、「はよ行け、ドアホ」とドスの効いた台詞が背中を押す。
日脚に礼を言うと、そのまま再生ボタンに手を当てながら、雪の中を力の限り駆け出した。
【予告】
次回(最終話)12月25日更新