ひとつ愚かに歩めや献花よ
中学生、十四歳の茨は同級生の菜花の母親の葬式から帰る途中だった。
「送ってくよ」
菜花の母親の夫の友人、つまり茨にとっては赤の他人に等しい、そんな立花の提案を茨は受け入れる。
そうしないといけない気がした。
催事場の駐車場、雨が降っていた。
鈍色の雨雲の下、雨水に濡れる暗色のアスファルトの上、車の赤色が嫌に映えていた。
まるで朝露に濡れるミニトマトのような、輝かんばかりの生命力にを期待しそうになる。
すぐ近くでは美しい女の亡骸が、灰になるまで燃やされているというのに。
母親の死に泣き疲れてぐったりしている菜花を、周りの親族の訝るような目をんくぐりぬけて茨が外へと連れ出した。
囚われの姫を、苦しみの中に沈むプリンセスを助ける王子様。……なんて、そんな馬鹿げた空想を考えていたということを、茨は他でもない自分自身に向けて確認しなくてはならなかった。
そして嘲笑を差し向けなくては、己の感情を確立することも出来ないでいる。
そこへ、立花がまるでタイミングを見計らったかのように車を用意していたのであった。
というわけで雨の中、赤い車は三人を乗せて走っている。
「まったく、彼女も男を見る目がないよな」
「いきなり何の話ですか? 立花さん」
荒っぽい運転に荒っぽい口調、もしかすると立花は酔っ払っているのかもしれない。
菜花の実家がある地方では、葬式も結婚式並みに飲んだり食べたりする。死人を悲しく弔うよりかは楽しく見送ろうという計らい……。
……いや、あるいはただ単に滅多にない「機会」に普段は疎遠な身内同士、安否確認をしたりしなかったりという計らいの方が強いのかもしれない。
まあ、なんでもいいが。
とにかくただの祝いの席と違うのは酔っぱらいが多少なりともしみじみと大人しくせざるを得ない、という所ぐらいか。
しかし車内にアルコールの気配は感じられない。
ただ芳香剤の甘い香りが漂う。そして透明な甘さに立花の愚痴が連なっていく。
「こんな優良物件を放っておいてさ」優良物件とは立花のことらしい。「あんなゴミためみたいな男と結婚して、あまつさえよく分かんないガキこさえてよ」
「おいおいおい」
茨は年上への礼儀を忘れて不快感を露わにする。
「人の好きな女を勝手にUMA扱いすんなっての」
「えー? なんだよー?」
立花がニヤニヤと、酔っ払い親父のようなイラやしさのある視線を茨に向けてきている。
「その右肩に眠るやわらかほっぺちゃんを好きにするには、茨くんの許可がなくちゃイケナイ感じ?」
「別にそういう訳じゃ……」
必死に誤魔化そうとしたが、しかし茨は直ぐに立花に対して降参をする。
「ええそうですよ、そうですとも!
ぼくの許可なしに彼女が他の誰かの笑いものになるのも、彼女が他の誰かと笑い会うのも、ぼくはどうしようもなく許せない」
「フゥー♪ いいねえ、若いねえ」
立花があからさまにバカにしてくるものだから、いよいよ茨は腹立たしくなる。
菜花に行為(好意)を向けることについて、色々な人間から奇異の目を向けられることは既に理解しているつもりだった。
受け入れているつもりだった。
とはいえ、それでもこの恋に悪感情を差し向けられることに肯定的な感情を抱けそうにも無い。
「そんなの当たり前じゃないか」
茨の抱く悪感情やら憎悪について、立花はあっさりと共感を示してきていた。
少し呆気に取られている茨の前で立花は恋心について語る。
「誰が誰を好きなってもいいはずの世界で、それで誰かが困るはずもない場所で、どうして何も知らない奴ばかりに誰彼好きになれって命令みたいにされなくちゃならないのさ」
立花は忌々しげに、ほんの少しだけ車のスピードを上げた。
「誰を好きになってもいいし、誰を好きにならなくてもいい。
ホントを言えば、自分だって来んなクソみたいな世界で他人を好きにならなきゃいけない、みてぇな他人依存の考えなんてゴミクソみたいに無駄だと思うけどよ」
「わあ、少子高齢化を推奨するようなセリフ」
茨の溜息に立花はハッと嘲笑だけを傾ける。
「世界がなんだ、社会がなんだ。知ったことか、そいつらがいつ自分たちに優しくしてくれたってんだ」
立花は、車のスピードを元に戻してため息ひとつ。
「私なんかに優しくしてくれた、かけがえのないあの人がいない世界なんて、さっさと滅べばいいのに」
なるほどね、と茨は小さな胸に納得を転がす。
「好きだったんですね」
菜花の、もう居ない母親について。
彼女について思い出す。
「ああ、大好きだったよ。
うん、大好き……」
立花の目に涙が滲む。
溢れ始めた水は次々と新しい雫を目に、まぶたにまつ毛に、やがては白くて柔らかいほっぺたに透明な跡を描き出す。
「初恋だったよ。大好きだった。
愛していた、どうしようもなかった。どうしようもなくて、……それぐらい好きで、
、っ。……なのに」
嗚呼、結局恋なんて、感情ばかりがあちこちに根付いて芽吹いて花咲いて、種を巻いてはその繰り返し。
延々と途切れない激しい色彩。
極彩色、なのに、どうしてか時々どうしようもなく優しく甘く感じる時がある。
「うう……」
立花の嗚咽をききながら、茨は今日で初めて葬式の日らしい、しんみりとセンチメンタルなことを考えている。
「うええぇ……」
心が凪いでいる茨。
まだ愛する人がすぐ近くに息をしてくれている。
セーラー服の中身、肉の少ない体で呼吸をする。
そんな少女とは異なり。
「うええぇーん……」
涙を流し、マスカラやら口紅やらの化粧をぐちゃぐちゃに、黒のタイトスカートからストッキングを涙やら鼻水やら唾液でべちょべちょに濡らす。
「うわーん、うわああーん」
車を運転する、女は惨めに泣き崩れていた。
「馬鹿女ぁ、クソアマ、こんな美女を捨ておいて勝手に死にやがって!」
えーん、えーん、と立花は泣いている。
車は止まらない。
「どうすんだよーぉ。こんな、私を放ったらかしにて、可愛い娘ちゃんを置き去りにして、どうすんだよぉ、……なんで、なんで」
運転だげが異様に穏やかで、だから茨は菜花が起きないことに安心し、ただ車の中で奇妙さに囚われている。
閉じられた空間に、失恋した惨めな女の悲鳴のような泣きべそを、静かに流れる雨の景色と共に眺める。
それしか出来ないでいた。
べそべそと、二分くらいは泣き続けて。
「はあ……」
泣き腫らした目で立花はため息をついている。
細い首に嗚咽と号泣の疲労感がたっぷりに滲み出ていた。
「落ち着きましたか?」
「まあね」
特に悪びれることも、ましてや恥ずかしがることもしない。
淡々とした彼女の様子に、茨は何となく清々しい気分を見出しそうになる。
結局彼女は愛した女を否定するだけで、彼女を愛した自分自身を否定する気などさらさらないのだ。
「いいなあ」
思わず口をついて出た羨望。
「何を言うやら」
そんな茨に対して立花が呆れを抱いている。
「まだ恋もろくに始めていないくせに、一丁前に失恋に憧れてんじゃないわよ」
そう言われましても。と茨は不満を抱きそうになったが、しかし直ぐに思いとどまる。
「優しいんですね」
自分のようにはなるなよ、という教訓を勝手に汲み取りつつ、とりあえず大人に気を配ってみることにした。
「やだねえ」
そんな若者に対して、立花は舌打ちをするように口元を動かす。
しかし上手く出来なくて、可憐に笑うような表情になるだけだった。
綺麗だな。と、立花は先に苦しみを知った一人の女性を純粋に尊敬する。
「優しいですよ、貴女は」
「やだぁ、キザっぽい!」
茨の少女らしからぬセリフ回しに立花がいやんいやんと言葉を振り払うように髪の毛を小さく揺らす。
シニヨンのようにまとめた長い髪が揺れを止める頃。
「でもね」
立花は初めて、この空間の理由を話す。
「女の優しさなんてものはね、ちょっとした共感で簡単に作れるものなのよ」
遠くを見る。
菜花の家、茨の好きな人の家、立花の初恋の人の家。家にたどり着く。
「その優しさで、誰かの世界が救えちゃうなんて、美しい人には分からないのよ。
残酷よね」
家の玄関から好きな人が現れないか。
そんな期待、だけど彼女の期待は叶わなかった。二度と。