死の神イクフェスの憂い
濃紺の夜空が支配する宵の国。
静まり返ったその地にもし仮に人間が迷い込めば、時間が流れていることをまず疑うだろう、物悲しさと哀愁で作られた空気が漂う地。
螺旋状に立ち昇る街並みに浮かぶ死の神の宮殿。
その一室で、死の神イクフェスは深く長いため息をついた。
形式だけの食卓に並べられた空の銀の食器をぼんやりと眺めながら、指先でくるくると匙を玩ぶことをただ繰り返す。
イクフェスには、人間たちの自身への信仰の薄れや、友である戦神テオヴァーレの失脚よりも頭を悩ませていることがあった。
彼の神の側に控える数人の人形に、その憂いを慮るような感情を持ち合わせたものはなく、ただただ立ち尽くして定められたことをこなしている。
そんな人形たちを恨めしそうに一瞥し、また深いため息をつく。
イクフェスは愛しの|女 〈むすめ〉が宵の国を去っても尚、彼女に合わせて形式的に取っていただけの食事の時間を未だに続けていた。
空の席と皿は自分を惨めな気分にするだけであったが、そんな感情をも彼女から与えられたものとしてイクフェスは愉しんでいた。
永い時の中で他者を伴侶とすべく国に迎え入れた事は初めてのことだった。
単純に宵の国に訪れることができる神はおらず、人間はただ禊を受けて魂へと還るのみの存在だからだ。
そう、イクフェスは他者が恋しい、つまり人恋しいという感情に苛まれて戸惑っていた。話し相手と言えばテオヴァーレくらいで、現時点から遠い地点ではテンシアと言葉を交わすこともあったのだが。
未来や過去────人間が観測する方向性は常に過去から未来への一方通行であるがイクフェスにとってはそうではない。
彼が属する宵の国は一方通行の流れから外れた独立した場所に存在しているからだ。
ただ、この時の流れの停滞した国の中で存在するというだけで、イクフェス自身の時間は他と等しい方向へと流れているため、いずれ──近い未来か遠い未来に──来たるであろう伴侶に思いを馳せているのだった。
彼女は自身の伴侶となるべく地に生まれ落ち、人としての時の流れを終えれば自分の元へと還ってくる。────イクフェスはそう確信していた。
夜空を刈り取った長髪から覗く麗しい睫毛が傾き、口元が弧を描く。
最初はその無垢な魂を啜ることを楽しみにしていたはずなのに、いつからか自身の伴侶となることを期待した。
彼は自身がいつから宵の国に存在しているのか。
意識を得た時にはそこに既に在ったため理解していない。
ただ彼女を手に入れることが、自由に出ることの叶わぬこの宵の国で、胸に抱く唯一の願いとなった。
人の形を辛うじて保った、自分を見つめる彼女の鈍い光を放つ瞳を思い出す。
意識の薄れた彼女の四肢を撫で、背筋に唇を這わせるのは、イクフェスにとってはただその無垢な魂の上澄みを少しずつ舐めて楽しむ行為でしかなかったのだが。彼女の美しい唇から無意識に漏れる小さな嬌声が聞こえた気がして、ふっと息を吐く。
薄れた意識の中で自分に誰かを重ねて見ていた彼女が、頬を包むように触れるあの温もりが恋しい。
渇望にも近いその激情をゆっくりと呑み込んで、目の前の皿に濁った色の魂を呼び出す。その怯えと妬みに支配された魂をじっくりと吸い上げて咀嚼して、形式的に口元を軽く拭う。
彼女が死を迎えるときこそ、待ち焦がれる再会の日である。
イクフェスは口元が緩むのもそのままに立ち上がった。
手始めに、彼女の光が向けられるあの憎たらしい男──我が神殿を潰して我が力を削ごうと足掻くあの醜い魂──の魂が入る器を全て壊してしまおうか。
大体の魂は見分けがつかない故、あの形状の魂が入る器を通ってきたものだけ、宵の国へと受け入れず狭間へと堕とせば良いだけの事。
褐色の強靭な肉体を構成する器を思い浮かべて指を振るう。
自身の欲望のまま、受け入れるべきものたちまでも選別していく。
じっくりと進めよう。
禁忌を犯して地に堕ちた神は、神だった頃の名を失い忘れ去られ、ただ鉱石と化すのだから。
※限りなく本編に近い話なので順番を変更しました。
長いようで短い間でしたが、お付き合いありがとうございました。
駄文ではありますが、自分にとってもふたりの話を描くのは楽しい時間でもありました。
応援してくださった方々には感謝の念が絶えません。
これからも気が向けば細々と後日談を更新しますが、本編はこれで完結となります。
どうもありがとうございました。
どうぞ読み終えてくださってありがとうございます。
少しでも楽しい時間を過ごしていただけたら良かったです。
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