化け物
『中庭に続く扉にはユマたちも近づかない。何があるのか分からないから用心するんだよ』
一番最後にそう呟いて少女は扉を開けた。
顔を見られてはいけない。
言葉を発してはいけない。
メルルーシェは忠告されたことを肝に命じて、悪い視界で躓かないように足元に気をつけながら少女について歩いた。
聞いたことのない幾つもの滑らかな音が空間に広がっていて、現実世界では考えられない美しくもどこか物悲しさを感じさせる音楽のように聞こえてくる。
陰った視界で周りを盗み見ると、メルルーシェよりも遥かに長身の、白透明をした何かが少数の列を成す人間を見下ろしている。そのゆらゆらと浮かんでいるようにも見える“ユマ”と呼ばれるものは少なくとも5体はいた。
人々はユマにこの場所まで連れてこられているようで、統率されるままにユマの後を追従している。ふたりも歩いている人々に紛れながら目的の扉まで進む。
目指している扉までは今の速度で歩いてもそう遠くはない。少しでも注意を向けられないように呼吸を抑えて、自分の足元と前を歩く少女の足にだけ集中する。
中庭へ続く扉まで半分の距離を切った辺りで少女の足が止まった。
少女は一点を見つめて何か小さく呟いた。ぎょっとして少女の肩を掴む。顔を覗き込むと、その大きな目に涙が溜まっている。
視線の先を辿ってみるとひとりの女性がぼんやりと列に並ぼうと歩いていた。
メルルーシェは咄嗟に少女の口元を抑えようとしたが、少女はするりとしゃがんで躱すと一直線に走り出した。
「ティマーラ!」
何度もその名を口に、女性に向かって手を伸ばす。
ユマたちが一斉に少女に向いて、収納していたらしい羽根を広げた。羽根と言っても毛が生えている訳でもなく、羽根のような形状の腕部らしかった。
メルルーシェは口元を抑えて、少女の方へ向かいながらも頭では理解していた。
(自分が見つかる訳にはいかない)
少女は徐々に姿を変えて大人の女性に変わった。泣きながらティマーラという名の女性を抱きしめて、包み込んだ顔に顔を寄せている。
「あぁ、全部思い出した。ティマーラ……」
少女の、いや女性の探し人だったのだろうか。思わず名前を呼びすがる程の相手を見つけたんだ。その様子を見ているのは胸が酷く苦しかった。
目に光が戻ってきたティマーラがつっかえながら言葉を溢した。
「お、お母さん?お母さん」
「ごめん、ごめんよティマーラ。あたしがモルフリドの花を用意してやれなかったから。あたしが悪かったんだ。喧嘩別れなんてするつもりはなかったんだよ。あんたが、あんたが大事だったから」
嗚咽を漏らしながらティマーラをかき抱く女性に、ユマが近づいていく。
絶対に自我を失うものか、と意気込んでいた少女の姿を思い出して心臓が激しく鼓動を打つ。
このままではふたりとも禊ぎを受けることになってしまうだろう。
「分かってるわ。お母さん、大丈夫よ。ずっと後悔していたんでしょ」
「……あんた、待っていてくれたんだね」
抱きしめ合った二人はユマたちに囲まれていく。
(ここから連れて逃げられる?)
ユマたちの注意は完全にふたりに引きつけられている。一度連れて逃げてからまた戻ってこればいい。足早に近づいたメルルーシェは女性に手を伸ばした。
目が合ったまま、女性は微笑むと口元に人差し指を当てた。
「メルルーシェ、あたしは大丈夫だよ。もうティマーラと次に進む。
あんたはあんたがやるべきことをやりな」
ユマが羽根のような形の腕でふたりを優しく包み込んだ。不気味で恐ろしいと感じていたはずなのに、その仕草には暖かさが満ちていた。目の前でまばゆい光に包まれていく様子に、声が漏れないように口元を抑える。
ふたりは珠になった。
メルルーシェは頬を拭って人の流れに沿って迂回しながら、扉の方へ向かって歩き続けた。扉まで後少しの所で、人とぶつかって転びかけたもののすぐに体勢を立て直す。
動きに反応したのか、1体のユマがメルルーシェの元へとゆっくりと近づいてきた。
(この距離なら)
走り出そうかと迷ったメルルーシェだったが、扉が開かなかった場合を考えて早歩きで向かう。ユマとの距離が縮まっていたが、素早く身体の大きさを変えて扉に手をかけるとあっさりと開いた。
扉を背に閉め力なく座り込む。扉に圧力がかかることもなく、ユマはそれ以上追ってくることはないようだった。
深い息をつくと、堪えていた涙が溢れ出した。
かぶっていた外套を脱いで手に握りしめる。
口の悪い不器用で優しい少女。探していた人と巡り会えて禊ぎが怖くなくなったのだろうか。自分とどんな関わりがあった人なのか思い出せなくても、彼女と接している時間は胸が温かかった。
彼女と娘さんの魂が安らかな眠りにつくことを祈り、立ち上がった。
中庭は陽が差していた。夜じゃない空に違和感を覚えつつも目の前に広がる中庭を見回すと、庭園のような造りの中で小高い丘に一本の木が生えているのが見える。
(あれに違いない)
メルルーシェは丘の木に向かって歩き出した。
体の大きさを維持するのに体力を消耗するものの、途方もない広さのこの場所で木に辿り着くためには、多少無理をしてでもこのまま進む必要がある。
真珠層の輝きを放つ美しい細工の石橋を渡り、同じ材質の踏み石を辿ってがむしゃらに足を進める。
淡い水色の流れが透けて見える不思議なその一本の木が、白い輝きを持つ実をつけているのが目視で見えるほど距離が近付いてきた。安穏の神テンシア様は間違いなくすぐそこにいる。
(やっと、ここまで来れた)
その小高い丘の麓まで辿り着くと、不思議な透明の膜のようなものに覆われていて、恐る恐る通り抜けてみると体の大きさが元に戻った。そればかりか、実際の肉体を取り戻したように体の境界がしっかりと見える。
どうやらこの場所では一切の変化を許さないらしく、仕方なく元の大きさのまま巨大な山を登ることになった。魔力で身体強化を行なって荒々しく飛びながら駆け上っていく。
目印の木が見えて、安堵に胸を撫で下ろしそうになった瞬間、現れた何かによって地面へとはたき落とされた。受け身を取って地面に線の痕を残す。
顔をあげると、顔が幾つもある化け物が一直線に自分を狙って爪を振り下ろそうとしていた。何重にも聞こえる恐ろしい咆哮に身がすくむ。
武器も何もない。地面に足がめり込んでいるためすぐに回避も出来ない。
咄嗟に頭の前に手を交差させて魔力を身に纏って攻撃を弾き返した。やはり今の自分の魔力には防御の力がある。
弾かれると化け物は苦しげな呻き声をあげて後ずさった。
そこで初めて正面に二足で立つ化け物を捉えた。
四肢は筋骨隆々に膨らんでいて腰は細い。前のめりになった角張った身体に、犬と人間を足したような立体的で細長い顔は憎しみと怒りに満ちていた。首元から胸にかけて苦痛に苛まれた人々の顔が浮かんでいる。最初胸元を見て顔が幾つもあると錯覚したのだ。
涎を垂らし唸り声をあげる化け物は、醜悪な臭いを発していて思わず息を止めてしまいそうになる。
(この化け物が番人なのね。これのせいでユマたちはここには立ち入らないんだわ)
身体の大きさから考えても、まともにやり合って敵うわけはない。ただ化け物はメルルーシェが魔力を使ったときにたじろいだ。勝機はある。
メルルーシェは両手に魔力を纏わせて地面を蹴った。
苦しみの合唱を続ける唸り声に耳を塞ぎたくなるのを堪えて、身体強化を行った身体で化け物の足元に突っ込む。腿に拳を打ち付けて魔力を増幅させると、悲鳴のような叫びが反響した。
すぐにとてつもない力で振り払われて地面に激突した。
化け物は間髪入れず伸ばした爪でメルルーシェを追撃する。
爪を避けてすぐに魔力を身に纏うと、接近していた化け物の身体が焼けていくように音を立てて後ずさった。
(やっぱり私の魔力が効いてる)
この化け物からは知性は感じられない。攻撃も単調で、メルルーシェが防御しているだけでも癒しの魔力の影響を受けて苦しんでいる。
足を掴まれて地面に打ちつけられたせいで、頭から出血してるため視界が悪い。
何度も繰り返し攻防している最中、化け物は魔力に怯まずメルルーシェの左腕に噛みついた。
鋭い痛みに魔力が溢れて、化け物も悲鳴をあげながら噛みちぎろうと首を左右に降る。肩に食い込んだ牙のあまりの痛みに叫びながら左手に魔力を流し続ける。
化け物の身体全体にメルルーシェの魔力が行き渡ったのか、化け物の胸元の顔たちが叫びをあげて固まった。力を失った口から抜け出して自分の腕に癒しを施す。
化け物は力なく倒れて身体の内から崩壊していくように色を失い、ゆっくりと塵へと変わっていった。
化け物の微睡んだような瞳を見つめて、哀悼を捧げるメルルーシェ。
(どうか安らかに)
「御身が安穏の神の導きを受けますように」
哀れな化け物に、震える声でそう呟いた。
戦いの痕を見回して、ゆっくりと一本の大樹に手を添える。
安穏の神テンシアはその大樹と同化していた。
閉じられた目、長い髪、穏やかに弧を描いた口元、木の内側に存在する安穏の神テンシアが水色の流れに縁取られていた。
(慈愛の神ルフェナンレーヴェ様、与えられた使命を全うすることが出来そうです)
メルルーシェは言われた手順通り、その大樹に自身の魔力を流し始めた。
化け物の身体だった塵が風に吹かれて丘の下へと舞っていく。
ふと空が翳り始め、悪寒を催す気配が色濃くなっていった。