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ニアハは聖女の愛を知る  作者: 森メメ
6章 宵の国と狭間の谷底
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宵の杯人




 扉の前に立っていた。


 ゆっくり瞬きをしてから、じっと手を見つめる。


 ぼんやりとした輪郭が見えるが、どれだけ目を凝らしてもはっきりとは見えない。いつもの自分の掌ではないような気がしてくる。


 全身に言い表せぬ違和感があるものの、動かすと普段よりも軽く感じた。

 不思議な感覚に浸っていると、急に水が湧き上がるように、ここに来るまでの状況を思い出した。


———リエナータ、リメイ。


 悲鳴にも似た叫びが胸の奥で燻る。


 最期に見えたリメイはリエナータのお付きの神官に襲われていた。彼らに何があったのかは分からなかったが、リエナータも同じように頭を押さえてうずくまっていたことから察するに、死の神が何らかの手を打ったのだろう。


 自分たちを謀った死の神に怒りを覚えるが、それよりも二人が無事なのかが気がかりだった。


 どうか無事でいて。


 用意されたと思しき一本道を、恐る恐るでも辿るしかない。

 自分は既に死に、宵の杯人を探すための旅路が始まったのだから。


 目の前の自分にできることをこなすのよ、メルルーシェ。


 ずしりと重いものがのしかかる心とは反対に、身軽になった手を扉にかける。


 開けるとそこには懐かしい匂いがする小さな部屋が広がっていた。

 女性が寝台の隣に椅子を近づけて座って、寝ている誰かを覗き込んでいる。


 近づいてみると、顔の火照った幼い頃の自分が寝台で寝込んでいた。女性の顔を一目見て、その穏やかな視線に泣き出しそうになる。


———お母さん。


 口に出しているはずなのに自分の声は聞こえない。


 手から生み出した小さな氷を細い首筋にそっと当てる。汗ばんで額にくっついた髪を撫でつけて、その小さな額に口付ける。


 自分に似た雰囲気の顔立ちを眺めて、自分は母に似ていたのだとはじめて知った。

 胸に溢れ出した温かい思いがはち切れそうになる。


 頭では理解している。

 これは過去の記憶を見せられているだけなのだと。


———待って、お母さん!もっと一緒にいたい。置いていかないで。


 徐々に遠ざかっていくその空間に、愛おしそうに幼子を撫でる母の姿に、手を伸ばす。


 しかし伸ばした手の先には扉だけが残っていた。



 顔も覚えていなかった。

 自分に向けられる優しい眼差しをずっと見ていたかった。


 そんな感情の余韻に、しばらく呆然と立ち尽くした。


 けれど、ひとりで立って生きていかなければならない。

 たくさんの人に助けてもらいながら。自分も誰かを助けられるように。



 また扉に手をかける。



 目の前には真っ白な一本道が続いていた。上り坂になっているようで道の先が見えない。周りには道以外に苔一つとして何もなく、一面が白かった。


 厳密には自分が立っている場所から“道が続いている”と感じているだけで、道すらもそこには存在していない。


 黙々と白い一本道を歩いていると、何かが視界で動いたので顔を上げる。そこには満天の光を浮かべた青の層を重ねる夜空が広がっていた。いくつもの光の筋が遠くの方へと落ちていく。


 この美しい光景を、ラミスカにも見せたい。


 まだ宵の国の入り口さえ見つけていないはずなのに、まるでこの場所は私が想像する宵の国の風光の一部だ。


 遅くなった歩みを進めるために圧巻の星空から視線を戻すと、灯り杖がなくても十分に明るく、二つに分かれた道が照らされていた。


 どちらの道も続く先は見えなかったが、どちらに行こうかと悩むまでもなく、自然と身体は左の道へと向かった。



 見覚えのある門が、森が現れた。


 モナティ神殿の神の庭だ。

 幼い少女が幼いもうひとりの手を引いて神の庭の門を潜って行くのが見えた。


 これは、憶えている。

 幼い2人の少女は自分とリエナータだ。


 リエナータが神殿に入ってばかりの頃、エリザベートの言いつけを破って洗礼前のリエナータを神の庭へと連れて行った。神の庭に興味を持っていた彼女に、早く見せてあげたかったからだ。


 一本道を進むため、必然的に門を潜って後をついていく。

 すぐ近くのようで遠い声が聞こえてくる。



『わたしがお姉ちゃんなんだからね』


 そう得意げに宣言して先行するリエナータが、メルルーシェの静止に気づかず微毒を持つ茨に足を突っ込んだ。


 ぼこぼこと腫れていく左足に、瞳いっぱいに涙を溜めながらも年上の矜持を保とうと、泣き出すことを堪えているリエナータ。


『だいじょうぶよ、リエナータ』


 そうだ。酷い怪我をしたリエナータを治そうとして、それまでうまく扱えなかった癒し魔法を初めて成功させたんだった。


 メルルーシェが慌てて足に手をかざして、一生懸命癒し魔法を施そうと集中している様子が、灯り杖に照らされているほんの少しの空間のように見える。


『すっごく痛い』


『わたしが治してあげるからね。

だからだいじょうぶよ、お姉ちゃん』



 唇を噛み締めたリエナータから大粒の涙が零れ落ちて、淡い光の粒が空へと立ち上っていくのが見える。そして幼いメルルーシェの手から光が溢れて全てを包み込む。


 言いつけを破ってリエナータを連れ出したことを心の底から反省したことを今でも覚えている。


 眩しさに瞑っていた目を開くと、色が折り重なる森が続いていた。

 しばらくその雄大さに身を委ねて、ひたすら歩き続けた。


 森をさらに進んでいくと多様な植物の様相は深みを増し、そこここに張りついた苔が、差し込む光の加減で淡色の光を帯びている。静寂に包まれたその驚くべき空間を眺めている内に、きらきらと宙を舞っている光が胞子なのだと気付いた。


 こんなに深い森は人生で一度も見たことがない。


 神の恩恵を一心に受けたかのような、枝いっぱいに鈴なりに実った大きな橙の実を見上げて感嘆のため息をつく。


 ここが神の国だとするならば、恵みの神リディーヴィエが司る地に違いない。


 所々にラミスカテス鉱石のような深い藍色の結晶が顔を出していて、その周りをきらきらとヒュッセラが飛び回っている。


 ふと気になって道を逸れて近づいてみる。


 樹間に気配を感じて目を凝らすと、幼いラミスカと自分がしゃがみ込んでいる。


 メルルーシェが小さなラミスカの手を包み込んで、小瓶の中で輝くヒュッセラを乗せた。


 ラミスカは羽を広げてもぞもぞと動くヒュッセラに落ち着かなさそうにしていたが、その鱗粉から生じる輝きを不思議そうにじっと見つめている。



 近くの藪が揺れてそちらに気を取られて視線を移すと、異常なイボが体中にできた猪が発達した牙の合間から涎を垂らし、首をぶるぶると振って地面を踏み鳴らしていた。


『後ろに向かって走りなさい!』


 猪が走り出すと、ラミスカの前に立ちふさがったメルルーシェが切羽詰まった声で叫んだ。



 その様子を、慈愛の神の守りで助かった所だ。と眺める。



 短剣を抜いたメルルーシェの後ろ姿を戸惑った顔で見上げている幼いラミスカの身体から、ふんわりとした光の粒が立ち上っていく。



 慈愛の神が助けてくれるはず。



 そう思った時、自分がそのまま猪に胸を串刺しにされる様子が鮮明に思い浮かんで、思わず声を発して手を伸ばす。


 私が倒れたら、誰がその子を守るの。


 突き出した手が光を発して、過去のメルルーシェに飛んでいく。そして猪の牙を掴んだ瞬間、その場面は遠ざかって消えていった。


 ばくばくと脈打つ心臓の鼓動を静めるために目を閉じて深く息を吸い込む。

 何が起こったのか分からなかったが、突然このままでは自分は死ぬという確信が湧き上がってきたのだった。



 落ち着きを取り戻して目を開くと、火のくすぶり始めたエッダリーの家が目の前にあった。怒りに染まった目で兵士たちを睨みつけるラミスカと相対する自分を見て確信する。


 今まで自分を助けてきたのは慈愛の神ではなかった。




****






 舌打ちをして身を翻すと、魔兵器の足が地面を抉った。炎を纏った槍を斜め上から魔兵器に突き立てて内部で爆発させると、爆風で地面に叩きつけられた魔兵器が鈍い音を放つ。


 神殿から得体の知れない大きな音への悲鳴が湧き上がる。

 胸元で鈍い光を放つメルルーシェの首飾りを握りしめて、その心地の良い魔力を感じる。


 仮面魔具に魔力を注いで周辺の魔力を探るも、阻害が働いているのか反応はなかった。


(厄介だな)


 いつでも神殿を守れるように、神殿からそう遠くない距離で交戦しているが神殿の光源はあまりあてにできない。自分の炎である程度の視界を確保していても、その範囲は限られていた。


 ある程度魔兵器の動力となっている魔力を感知できれば応戦できたかもしれないが、これが続けば間違いなく少なくない被害が出るだろう。


 槍の爆発を利用して上空へ飛び上がる。ラミスカを避けるためなのか、神殿のすぐ反対側に回り込もうとする個体を見つけて、爆発で軌道を変えながら飛びかかる。



 神殿の周囲には建物がないため、魔兵器の倒れる位置をそこまで気にしなくて良いことが救いだった。


 5体の魔兵器を破壊して感じたのは、休戦前ケールリンで交戦した個体よりも一回り小さいということだった。


 仮面魔具から絶えず流れている指示は既に各師団の通信に変わっている。的確に指示を与えているハーラージスの声を聞き流しているものの、南への援軍の派遣を指示する文言はない。


 何れも南西寄りからの襲撃だった。

 魔兵器から槍を抜いて強く蹴ると、神殿の屋上に飛び降りた。


 モナティには神殿よりも高い建物はない。神殿から点々とした明かりを放つ低い家々を見つめていると、大きな何かが前を横切った。


 身構えた瞬間、大きな土の塊が頭上に迫っていた。


 槍を投げ爆散させたものの、大きな塊が神殿上部に落ちて大きな穴を開けた。



(さっきまでの個体は斥候だったのか)


 瓦礫が礼拝堂に落ちて大きな悲鳴が上がったが、誰かが氷魔法を展開して頭上を守ったのが見えた。一瞬であれ程の範囲に氷を展開出来るのは相当魔力の高い人間だ。


 ほっと息をついて槍を掴むと、投石してきた魔兵器に向かって走り出す。


 うねり回転しながら身体を掴もうとやってくる幾つもの足をくぐり抜け、脚を削いでいく。耳障りな音を発する関節部分に右脚を突き立てて中心に勢いよく槍を押し込むも、僅かに身体をずらした。


(躱した?)


 槍に魔力を注ぎ込んでも爆発が起こらないため、真っ直ぐに引き抜き炎を纏って手をかざすが別の足によって阻まれる。


 魔兵器は感情を高ぶらせたときに溢れる魔力に反応して、その魔力を排除しようと動くヒュドシルという、ヒュッセラに似た生物を利用して作られた兵器だと国内では推察されている。知能は高くはなく、自己防衛の本能もない。ただ魔力を排除しようとするだけの兵器のはずが、何かおかしい。



 背後から空を切る音が聞こえて、身体をひねるとその場所に鋭利な金属が刺さった。義脚を引き抜いて距離を取る。


 見える範囲だけでも別の魔兵器が3体、自分を取り囲んでいた。


(これは大変そうだな)


 まずはあいつから槍を引き抜く。動きを読みながら、炎を手に纏って地面を蹴った。



****





 一本道が、蔓が張り巡らされてできたらしい壁で塞がれていた。



 過去の自分の体験を見ることを繰り返してここにたどり着いた。

 自分が危険に陥った場面では魔力を飛ばして危険から守ることができたが、そうでない場合はどれだけ後悔したことでも何の影響も与えることができなかった。



 周囲に目を配るも他に道はなく、こぼれ落ちてくる水の流れで溜まった落ち葉がぐるぐると水の上を泳いでいるだけだった。



———ここが最後の場所だ。



 直感がそう告げていた。


 短い人生だったな、と感じる旅だった。

 自分がどれだけの人と関わり、どんなことをしてきたのかを突きつけられる。

 もっと生きてみたい、もっと色んな事を知りたい。次は後悔しないのに。と何度も何度も思わされた。


 自分はまだ死んでいない。生きて帰るんだ。これはただの安穏の神を助ける過程だと言い聞かせても、頭で考えることとは反対に、死を迎える準備を進めてしまっているような、そんな葛藤が繰り返された。



 壁に近寄ってそっと撫でると、ごつごつとした指ざわりで蔓同士が緻密に絡み合っている。


 耳を押し当ててみるが変化はない。蔓の一本一本を眺めて指でたどってみると、するすると解けた。


 一本、また一本と解けていく度に、情景が浮かび上がった。



 幼いメルルーシェに泣いて感謝する男性の姿。

 少し成長したメルルーシェの手を取って微笑んだ老婆。

 礼拝堂を掃除する速さを競って笑い合う年の近かった神官仲間たち。

 戸惑いに瞳を揺らしてメルルーシェを見上げる幼いラミスカ。

 メルルーシェに失礼を働いた患者の要求を一蹴するユンリー。

 メルルーシェとユンリーの口喧嘩を穏やかな微笑みを湛えて仲裁するスーミェ。

 はにかむように自分に笑いかけるアルスベル。


 そして自分に優しく口付けた成長した姿のラミスカ。




 胸の奥深くから懐かしさと愛しさが、悲しみがせり上がってくる。

 涙で歪む視界から完全に蔓がなくなると、澄んだ小さな湖が広がっていた。



 まだ死にたくない。

 いや、死ぬつもりなんてない。ラミスカが待ってくれている。

 進まなければならない。

 メルルーシェ、あなたがやらなくてはならないのだから。



 おずおずと足の先を冷たい水に浸して心を落ち着かせると、決心してゆっくりと歩み始める。足を前に進める度に水の抵抗を感じながら、胸元まで浸かった辺りで湖の中心にたどり着く。


 さざ波立つ水面が静寂を取り戻すまでじっと水面を見つめていると、幼い不思議な響きの声が降ってきた。


『お別れはできましたか?』


 顔を上げると、そこには小舟に乗った幼い少女が———否、幼い頃の自分がいた。


 ふわふわと広がった色素の薄い髪が丸い輪郭に沿って流れ、優しげな淡い紫をした目がじっと自分を見つめている。


 宵の杯人だ。すんなりとそう認識した。


———えぇ。


 幼い自分の姿をした何者かに返事を返すのは妙な気分で、戸惑いが伝わったのか、または答えに満足したからか、宵の杯人が微笑んだ。


 水をすくった小さな手が目の前に差し出される。



『宵の国へ参りましょうか』



 その小さな手を下から包んで、冷たい水を口に含んだ。






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