訪れ
ユンリーは眠るメルルーシェの額に触れて安堵の溜息をついた。
2日経つとメルルーシェの熱は引いた。
どうやら体内の魔力が安定しないようで、減った魔力を取り戻そうとする過程で熱が生み出されて意識の不安定な状態が続いていた。
そんな最中に、メルルーシェの血が必要だから採血をさせて欲しいと言うベルへザード兵が現れた。
仮面魔具を装着していたが、ベルへザード人らしからぬ浅黒い肌が印象的だった。
ユンリーが“そんな体調じゃない”と激怒して追い返そうとすると、メルルーシェが兵士4名を負傷させた罪で投獄される可能性を示唆され、渋々ユンリーが採血を行うという条件で呑み、眠るメルルーシェの血を採って受け渡したのだった。
体調が安定したメルルーシェよりも心配だったのが、ラミスカの行方だった。
2日前、アルスベルの魔具工房に顔を出した後からラミスカは姿を消した。
スーミェが青ざめた顔で、ラミスカが消える前に店に来たベルへザード軍の男の事を話をした。アルスベルはそれに心当たりがあったようで苦々しい表情で店を出ていった。
メルルーシェの治療で離れられないユンリーと店番のスーミェに代わって、アルスベルがラミスカを探すべく奔走した。
昨日店にやってきたアルスベルは、ラミスカはベルへザード軍に入隊したと言うのだ。
『まだあの子は10歳にもなってやしない。徴兵もまだ先の話だ。どうして入隊なんて!』
ユンリーが憤慨すると、スーミェがユンリーの肩に毛布をかけた。
『ラミスカ自身が決めたそうです。書類に血印もありました』
アルスベルは床を見つめたまま続ける。
『ラミスカとメルルーシェに血縁関係がないことが証明されたようです。メルルーシェはもうあの件で罪には問われません…。
ただ、ラミスカは違う。故に入隊を条件に罪に問われないように交渉したのでしょう。もしくはそう脅されたのか』
『脅される?』
ユンリーは顔をしかめた。
『ラミスカの持つ魔力は強大です。優れた戦士になることでしょう。
ゾエフ師団長は自身の手駒を集めています。
自身に身を捧げるのであれば母親を助けると、脅されたのかもしれません』
『つまり…あの子はメルルーシェが罪に問われないように?』
スーミェが隣から口を挟む。
『そう、かもしれません』
『メルルーシェが目を覚ましたらなんて言えばいいんだい……。
あんたの息子は徴兵されてどこか知らない場所へ連れて行かれましたって?』
ラミスカとメルルーシェの投獄を取り下げるように交渉を行っていたのではなかったのか。それは失敗したというのか。ユンリーはアルスベルを睨みつけた。
『あんたがなんとかするんじゃなかったのかい?』
痛む首を抑えながら怒りに任せて問いかける。
『ユンリー様、ロランさんは努力してくださっていました。
そんなことを仰らないでくださいませ』
スーミェがユンリーを諌めた。
『……ユンリー様の仰るとおりです。
自分の力が及ばなかったせいですから。
彼女が目覚めたら、彼女には私から説明します』
アルスベルは床を見つめたまま苦しそうにそう呟いた。
メルルーシェとラミスカには、4名の兵士を重体に追いやったという理由で何らかの処罰が下ることは理解していた。メルルーシェの体調が戻った後、嫌でも考えなければならないことだった。
ユンリーはそれは正当な防衛だったと承知しているが、軍が“兵士が4名民家を襲った結果返り討ちにあって重体になった”などということを、良しとしないだろうということも容易に想像がついていた。
ベルへザード国内の情勢は、軍国主義と長い戦争が残した厭戦思想がぶつかり合って揺れ動いている。
ユンリーは昨日のやりとりを思い出して大きなため息をつくと、痛む腰を擦りながらメルルーシェの頬に触れた。
「大変なことになっちまったね」
****
メルルーシェは白い柱で支えられた神殿が建つ庭園のような場所に立っていた。
足元の踏み石は貝の裏のような、真珠層らしい不思議な輝きを放っていて、踏み石の先に吹き抜けの白い神殿が建っている。
周りには花や新芽が芽吹いていて、生暖かい風がメルルーシェの髪を撫でて通り過ぎていく。
確実にエッダリーではない気候に首を傾げながら周りを見渡す。
(不思議な場所ね。夢なのかしら)
柱は美しい細工が施されているのが遠目にも分かる形をしていて、中心に大きな弦楽器のようなものと、椅子が見える。
踏み石を辿りながら目の前に広がる吹き抜けの神殿に向かう。
現実的な夢だと関心しながら足元から顔を上げると、中心の辺りに夜空が広がっているように見える。ぼんやりと認識することしかできないそれに、はっと息を止めた。
椅子に誰かが座っていた。
神がそこに御座すのだと感覚で理解し、床にひれ伏す。
神が人の夢に現れる逸話はいくつも存在するが、メルルーシェにとってこれほど神の存在を近くに感じたのは生まれて初めてのことだった。
先程目にした夜空はある神の身体的特徴だ。
(私は死んでしまったのかしら)
死を司る神イクフェス。その顔は生きる者を魅了し宵の国へと誘うほど美しく、足にまで届く長髪は夜空そのものを映し出す。死後の世界、宵の国を治める神だ。
脈打つ心臓を抑えながら平服するメルルーシェの耳に、心地の良い旋律が流れ込んでくる。
ぽろん、ぽろんと溢れる物悲しい旋律に、心の底から何か熱いものが引き出されていくような感覚を覚える。
(死の神は音楽を嗜まれるのよね。音楽の神とも仲が良いとリエナータが言ってたわ)
———我が国へ迎え入れたというのに。未だ来ないというのか。
声が聞こえたわけではなかったが、死の神がまるで自分に語りかけているかのように言葉が伝わってくる。
顔を上げるように促されているような気がして、恐る恐る顔を上げると、神殿の中心で白い何かが巨大な弦を両手で包み込んでいるのが分かった。夜空を映している髪以外はぼやけたように認識することができなかった。
———これで2度目だが次こそは迎えよう。近いうちに。
唖然と見つめていると、死の神イクフェスが微笑んだ気配がした。
死の神に目を留められた人間など、長く生きられるはずもない。メルルーシェは背筋に冷たいものを感じながら息を整えた。
「わたくしの子が大きく育ち、伴侶を見つけ、子を持つまで見届けさせてくださいませ」
目を伏せたまま震える声で嘆願する。
旋律が緩やかに音量を落として曲の終わりを告げる。
———その魂は私のもの。
体の奥に痺れが走った。まるで身体の内側に直接触れられているような、ぞくぞくとした悪寒に目を見開く。息の仕方を忘れたように口から音が漏れた。
目の前にはよく見慣れた薬屋の染みがついた天井があった。
激しく上下する胸に手を当てて息を整える。
「メルルーシェ!目を覚ましたかい!」
隣に座っていたユンリーが大きな歓声をあげた。
死の神が夢に訪れたなんて……リエナータに嫉妬されるに違いない。
冷めやらぬ興奮のせいか、見当違いなことを考えるメルルーシェだった。