胸の奥深く
メルルーシェが回復してから数日が経った。
ふたりの家は火事によってほぼ崩壊してしまったため、薬屋の薬棚の隣に倉庫として使っていた部屋を片づけてメルルーシェをそこで寝かせて治療していた。
ラミスカはメルルーシェの近くで寝たり、薬屋を閉めた後の折りたたみの寝台で眠っていた。
ユンリーが怪訝な顔で自分を見上げていることに気が付いて、トメパムの棘を抜く手を止めた。
「……あんた急に大きくなったね」
同じくらいの背丈だったユンリーの目線が自分よりも低い。
「最近身体が痛い」
「あたしの方が身体が痛いよ全く」
思い出したようにそう告げると、大げさにため息をつきながら何かぶつぶつと文句を言いながらどこかへ行った。
同じようにスーミェも自分を見つめていることに気付いて俯いた。最近鏡を見ることがなかったが、確かに自分の中に巡る魔力が以前のように荒々しく渦巻いているのを感じていた。
「これ飲んどきな」
戻ってきたユンリーがラミスカの手に小瓶を握らせた。
「成長期だか知らないが、骨や関節の痛みを抑えてくれる。
ったく、あんたの母親から後で何か貰わないとね」
スーミェがくすくすと笑いながら、ユンリーが座りやすいように席に柔らかい布を敷いた。
涼しい音を立てて薬屋の扉が開くと、アルスベルが顔を出した。
「まぁ、ロランさん。毎日ご苦労様です。どうぞ」
スーミェが幾分か柔らかい声で挨拶をする。
ユンリーも顔を一瞥するとすぐに手元に視線を移した。
「お邪魔してすみません。メルルーシェは眠ってますか?」
「さっき軽食を取ったから起きているんじゃないかしら。
はやく動きたいみたいだけれど、止めているのよ」
困ったように笑うスーミェに、お礼を述べて奥へと向かうアルスベル。今日はいつもの魔具技師の作業着ではない、引き締まった身体が良く分かるベルへザードの礼服を着ていた。
「ラミスカ!邪魔するんじゃないよ。こっち来な」
トメパムを机に置いてアルスベルに着いてメルルーシェの所へ行こうとすると、鋭い声で止められた。
しばらく黙ってトメパムの棘を弄っていたラミスカだったが、何故かそわそわしているスーミェと、いつもよりも険しい顔で止めに入るユンリーに、どうしてか、アルスベルがメルルーシェの頬に触ろうとしていた事を思い出す。
「どうして邪魔なんだ?」
ラミスカがユンリーに尋ねると、ユンリーとスーミェのふたりは顔を見合わせた。
スーミェが小さな声でラミスカに問いかける。
「ラミスカ君は、ロランさんがお父さんになるのは嫌?」
ニアハが小さい頃、母のことはたまに思い出そうとしたことはあったかもしれない。しかし父の存在など今まで頭を過った事すらなかった。禄でもない兵士ばかりと接してきたためか、父親という存在に一切の興味がなかった。
「父親は必要ない」
素直に呟くと、スーミェが苦笑し、ユンリーが呆れた顔でラミスカを睨んだ。
「あんたのせいであの子は嫁に行けやしないよ」
「ユンリー様、その言い方はいけませんよ」
珍しくスーミェがユンリーを窘めた。
「お母さんの幸せを願うなら黙って座ってな」
鼻を鳴らして睨みを利かせるユンリーを負けじと睨み返す。
「メルルーシェは母さんじゃない」
むきになってラミスカがそう返すと、ふたりは固まった。
振り返ると奥からアルスベルを伴ったメルルーシェが出てきた。
ラミスカを見て一瞬瞳を揺らしたメルルーシェは、すぐに笑顔を作った。
「あんた……あまり歩くんじゃないよ」
ユンリーが驚いたように椅子から立ち上がって、メルルーシェの近くへと駆け寄る。
「アルスベル様が付き添ってくれると言うので、ちょっと外に出たいのよ。すぐに戻るから大丈夫よユン様」
頬には随分と色が薄れてはいるものの、痛々しいかさぶたが広がっている。
「私が注意して見ています。何かあればすぐに抱えて戻りますから」
アルスベルがメルルーシェの肩を持って手を引きながら、穏やかに微笑む。
「まぁ……それなら。すぐに戻るんだよ」
戸惑いながらもユンリーがそう答えると、ふたりは高い音を鳴らして姿を消した。
ふたりが消えたことを確認すると、目を三角にしたユンリーがドスの利いた声でラミスカに詰め寄る。
「あんた、メルルーシェにいつもさっきみたいなことを言ってるんじゃないだろうね」
ラミスカは事実を告げているだけだった。メルルーシェは自分の母親じゃない。
「言ってる」
ラミスカが困惑気味に呟くと、ユンリーの拳が握りしめられたのが見えた。
「……あの子は立派に母親をやってるじゃないか、なんてことを」
震える声で怒りを露わにする。スーミェが立ち上がった気配がした。
「お前みたいな子どもはいなければよかった。そう言われてるのと同じだよ。
メルルーシェが今まで一度だってあんたにそう言ったことがあるのかい?」
いつも口の悪いユンリーだが、桁違いに激しく怒っていた。
今までメルルーシェが自分のことをそんな風に言ったことはない。いつも優しく微笑んでいて、時折怒ることもあれど、それはラミスカを包むように暖かかった。
ユンリーの肩を柔らかく掴んだスーミェが、ユンリーを宥める。
「ユンリー様、また倒れてしまいますよ。
怒りをおさえて家で少し横になってくださいな、後は私がやっておきますから」
ユンリーはラミスカを睨みつけると、少し乱暴な高い音を鳴らして出て行った。
残されたスーミェがふーっと息を吐くと、自分の机へと向かった。
「ラミスカ君、少し手伝ってくれるかしら?
あと6束ほど棘を抜いてくれるときりがいいの」
ラミスカは黙ってトメパムを手に取った。
「ユンリー様もメルルーシェさんのことをとても可愛がっているから、幸せになって欲しいだけなのよ。メルルーシェさんは何よりもあなたを大事にしているし、ユンリー様が怒っていなかったら、代わりに私が怒っていたわ」
頭の中で何度もユンリーの言葉がこだました。
(最初は、お前など必要ないと、そう思って口にしていた)
昔のことを思い返しながらひとつひとつの棘を抜いていく。
でも途中からはそうじゃなかった。
メルルーシェはいつからか、いつもラミスカの心の中心にいる。
昔殺した兵士たちの死体にメルルーシェが連れていかれそうになる夢。
家に帰ったときにメルルーシェがいなかった夢。
ラミスカが恐れることはいつもメルルーシェが居なくなってしまうことだった。
そして恐ろしい夢を見たときは、眠っているメルルーシェの体温を感じれば瞬く間に心が安らぐのだ。
何故かは分からないが、母と子という関係を否定したかった。
そんな理由でメルルーシェを深く傷付けていたのだろうか。
「スーミェ、メルルーシェはアルスベルと居れば幸せなのか?」
ラミスカの問いかけにスーミェは首をかしげた。
「メルルーシェさん次第ね。でもそうね……アルスベル様はとてもメルルーシェさんを大事にしているし、誠実で優しい方だから、幸せになれると私は思うわ」
「そうか」
ラミスカは棘を抜き切ったトメパムを籠に移した。
しばらくすると、メルルーシェとアルスベルが帰ってきた。
店先までメルルーシェを送ると、アルスベルは店に入ることなく帰って行った。
「久しぶりの外はどうでした?」
スーミェがトメパムを刻む手を止めてメルルーシェに微笑みかける。
「すっきりしました」
メルルーシェがそう言ってスーミェの隣に腰かけた。
「あらあら、まだ寝ていませんと。
ユンリー様に怒られますから」
「少し指を動かしたいの、手伝うわ。
ラミスカ?そこで何をしているの?」
端でメルルーシェが帰ってきた様子を隠れて見ていたラミスカは、名前を呼ばれて驚きつつも口元が緩むのを感じた。
「何もしてない」
「本がないから手伝いばかりで退屈よね」
メルルーシェはいつもと変わらない笑顔を浮かべている。
「メルルーシェ、横にならないとだめだ」
ラミスカは戸惑いながらも、まだぎこちない動きのメルルーシェに向かって告げる。
からからと笑ったメルルーシェは「あなたにまで言われたら言うことを聞くしかないわね」と、ゆっくりと立ち上がると部屋へと向かっていった。
スーミェはメルルーシェを見送ると、じっとラミスカを見た。
「ラミスカ君、メルルーシェさんにきちんとお謝りなさい。
分からずとはいえ、良くないことよ。さっきの言葉も聞こえていたはず」
ラミスカは目を泳がせて頷いた。
そのとき、薬屋の扉を叩く音が響いて、奥への入口に手をかけていたラミスカは振り返った。
高い音を鳴らして店の中に足を踏み入れたのは、ベルへザード軍人らしき男だった。階級の高い軍人だと一目で分かる金細工のサークレットが額に白い鉱石を落としている。腹鎧も細かい細工が施された豪華なものだ。店の外には多数の兵士の気配がする。
壮年の男はスーミェを目に入れると、眉をひそめながら尋ねる。
「癒し魔法の使い手メルルーシェか?」
「私ではありませんが、どういったご用件でしょうか?」
強張った顔で手を拭いていた布をぎゅっと握りしめたスーミェが尋ねると、ラミスカに目をやって男が呟いた。
「炎の魔力を持つ件の少年はお前だな」
スーミェに顔を向けると「息子の事で母親に話がある」と告げた。
「まだ体の具合が悪く奥で眠っております。
改めてお越しくださいませんか」
「いや、時間がないんだ。彼女のためにも今取り次いでくれ」
躊躇った様子のスーミェに男が名乗る。
「私は第6師団の師団長、ハーラージス・ゾエフだ」
魔導兵連隊の指揮官をさらに取りまとめる階級だ。名前の語感は西側の出身者だ、とラミスカは男を観察していた。メルルーシェを傷つけるような怪しい動きをしたら即、こいつの身体だけを燃やそう、と。
スーミェは軍の階級をあまり良く知らないようだったが、頷くと一瞬不安げにラミスカを見やって、奥へとハーラージスを連れて行った。
戻ってきたスーミェがラミスカに耳打ちする。
「ロランさんを呼んできたほうがいいわ。
ラミスカ君、ロランさんを呼んできてくれる?」
ラミスカは首を横に振った。
「外に沢山兵士がいる。出ない方がいい」
スーミェは怯えたように瞳を揺らした。
「メルルーシェの側にいる」
ラミスカがそう告げてハーラージスの後を追おうとすると、スーミェが腕を引いた。
「邪魔をしないように言われているわ。
怒らせないように気をつけて」
頷くと、気配を抑えて奥の部屋へと足を向ける。木の床が軋む場所を避けて入口に近付くと話し声が聞こえる。
ふたりは既に話し始めているようだった。邪魔をするなと言われた手前、無暗に扉を開くこともできない。
「うちの息子はまだ7歳も迎えていません。徴兵は16歳からのはずです」
「……ベルへザード人はな。
条件は良いはずだ。いずれにせよ徴兵される。時期が少し早まるだけだ」
「いいえ、あなたのような方が来たことで分かります。連れていかれるのは西の前線でしょう。私が息子をそんな場所に送り込むと思いますか?」
メルルーシェの怒気を含んだ声を久しぶりに耳にした。
「アルスベル・ロランが何度も君のことを頼みに来たと聞いている。
関所に駐屯する者では名誉ベルへザード魔導兵の彼に言いくるめられるだろうから、私が来たんだ。ロランと君は婚約しているのだろう。息子が徴兵されれば彼と過ごせるではないか」
メルルーシェが沈黙した。顔の見えない場所で、沈黙がこれほど怖いと感じたことはなかった。ラミスカは震える手で扉に手をかけた。
「婚約してはいますが、息子を軍へ送り込むのは別の話です」
“婚約している”という言葉が何度も何度も頭を巡った。胸に汚泥が溜まったように一気に身体が重く感じる。
婚約というのは結婚を約束するものだ。結婚は一生を共に過ごすと、互いに誓い合う儀式だ。メルルーシェは自分と一生を過ごさないのか。
『しばらくは……一緒に暮らすでしょう。
けれどあなたが大きくなる頃には、あなたにも大切な人が出来てその人と一緒に家庭を築くことになるのよ』
昔メルルーシェが寝台で自分に告げた言葉が、今更身に染みるようで唇を噛みしめた。
大切な人など出来るわけがない。誰かも分からない人間と家庭を築く想像なんて付かない。ただメルルーシェがずっと自分の側にいればいい。自分だけのメルルーシェで居て欲しい。メルルーシェが欲しい。
(ただこれは自分の気持ちでしかない)
メルルーシェはただ、ラミスカの母としてラミスカを可愛がっているのだ。メルルーシェが幸せになることは、ラミスカにとっても喜ばしい。
自分にそう言い聞かせて、溢れ出しそうだった感情を胸の奥深くに沈めていく。
自分は、自分に愛を教えてくれたメルルーシェの幸せを願うべきだ。
(怒りと虚しさに支配された人生に、色を与えてくれた自分にとって唯一の……)
「そうか、優れた癒し魔法の使い手は希少だ。気が進まないが……兵士4名を重体に陥らせた子を持つ責任がある。投獄は免れ」
ハーラージスの声が言い終わらない内に、ラミスカは扉を開けた。
ふたりが驚いたようにラミスカを見る。
「ラミスカ、だめよ今は客人と大切なお話をしているの。
あちらで待ってなさい」
寝台で身体を起こしたメルルーシェが鋭い声でラミスカを咎める。
「軍へ入りたい」
ラミスカがハーラージスの薄黄色の瞳を見つめてそう告げた。
(メルルーシェにはアルスベルがいる。自分は邪魔にしかならない)
メルルーシェがふらつきながら寝台から降りようとした。
「そうか。ならば話ははやい」
「この子がそれを望んでいたとしても私がゆるしません」
ハーラージスが表情を変えないまま立ち上がった。メルルーシェが苦しげな顔でハーラージスを睨みつける。
顔色が酷い。しばらくは魔力量が減っているから、興奮すると魔力の流れが早まって体調を崩すとユンリーが注意していた気がする。
立ち上がったメルルーシェを支えようと近寄るも、メルルーシェに手で制される。
「何と言おうが私はあなたの母親よラミスカ。
あなたを戦場になんて向かわせないわ」
身体の芯が締め付けられるように竦む。これは悲しみと、喜びが入り混じった感情だ。
ため息をついたハーラージスが首をすくめた。
「まぁいい。今日は時間がないんだ。ここには少し寄っただけだ。
またすぐに伺う。今日の所は失礼するよ」
ハーラージスはラミスカの肩を抱いて部屋の出口を潜ろうとしてメルルーシェに目を向けた。
「君の息子は7歳に満たないといったか?
とてもそうは見えんな」
ハーラージスがラミスカの頭上から足の先まで見て告げる。
「年齢の詐称も罪にあたるぞ」
メルルーシェが何かを言い淀んで「嘘はついていません」と呟いた。
「そうか。体調が悪そうだ、眠りたまえ」
ハーラージスが面倒くさそうに、メルルーシェに向かって手を振って見せると、屈んでラミスカに耳打ちする。
「成人していなければ母親の許可は必要だ。自分で説得しろ。
母親を投獄されたくなければな」
そういって肩に置いていた手を離すと、ハーラージスは薬屋の出口へと歩いて行った。向こうから扉を開けた鈴の高い音色が響いて部屋は静けさに包まれた。
慌てた様子でスーミェが部屋にやってきた。メルルーシェの顔色を見て、すぐに薬を取りに向かった。
「ごめんなさい。少しひとりにしてくれる?」
メルルーシェが疲れた顔で寝台に座り込んだ。