密会
静まり返った大広間に、元々そこに存在していたかのように、死の神イクフェスが現れた。
床にまでつきそうな長い髪は夜空そのものを映し出し、その身に纏った身の丈以上の長さの半透明の布が、大理石に緩やかに尾を引いている。
目の前に聳える天まで届く扉の前で立ち止まると、優雅な動作で数回扉を叩いた。
戦神テオヴァーレの殿堂はいつも彼を冠する名とは正反対の静けさに包まれている。それは穏やかな静けさではなく、張りつめた弦のような、緊張の伴う静けさだった。自分の国とはまた違った良さがある。イクフェスは友人の殿堂を案外気に入っていた。
しばらくの間の後に扉が音も立てずに開いた。
宵の国を離れてここまで足を運んだのは、友であるテオヴァーレから急な召喚があったからだった。
何重にも張り巡らされた薄いとばりが、吹き抜ける風で揺れる中、薄っすらと椅子に座る影が見える。とばりを潜ると、長机の一番奥の席で頬杖をついていた友が、自分を視界に入れるなり背もたれにのけ反った。
「イクフェス!遅いぞ!」
「こちらに出向くのは随分と久しぶりで少し手間取ったのだ」
苦笑を浮かべて座り心地の良い長椅子に腰掛けるイクフェス。
「それはそなたが時の流れの異なる場所にいるからだ。
この間杯を交わしたばかりだぞ」
呆れた顔でそう返したテオヴァーレだったが、嬉しそうに本題について口を切った。
「下界ではすぐに戦が始まるだろう。祈気によって我が神力が満ち、力が漲っていくのが分かる。早めに手を打った甲斐があったというものよ」
興奮気味に話すテオヴァーレは、以前に会ったときよりも声が少し変わるほど若返っていた。
「手を打った?」
「心配するな。干渉とも言えぬ些細なことだ。
例の土地の一部に少しばかり我が魔力を注ぎ込んだだけよ。
その地では質の高い魔鉱石が手に入ることだろう」
笑みを浮かべていたテオヴァーレはふと真剣な眼差しを向ける。
「して、テンシアのその後の様子はどうだ?」
安穏の神テンシアはイクフェスの統べる宵の国で眠り続けている。
戦への昂りや勝利への祈りを力の源とする戦神のテオヴァーレは、テンシアが力を奮った時代、長らく苦境に立たされていた。
戦神テオヴァーレと死の神イクフェスは、かつて宵の国にのみ実るトルカシアの実をテンシアへと贈り、それを食したテンシアは意識を失い深い眠りについたのだった。
以前、安穏の神テンシアが纏う光の強さが増していることをテオヴァーレに報告したことが今回の召喚の理由だろう。
「彼の神は力を増しているように見える」
彫刻のようなイクフェスの顔を睨みつけるテオヴァーレ。
「何故だ。祈りも届かぬ宵の国で、どうして力を取り戻せようか」
「……他の神が力を貸しているのかもしれない。
テンシアと関係が深く、宵の国へと影響を及ぼせる力を持つ神など限られているが。すぐに思いつくのは慈愛の神ルフェナンレーヴェか……。それも憶測でしかない」
「そうだな……。難儀なものだ。
しかし此度の戦はどちらかの民族が滅びるまで終わらぬだろう。その間我が力は衰えぬ。創造神の怒りを買いたくはないが、人間が勝手に憎みあうのだから仕方なかろう」
テオヴァーレが楽しそうに口角を上げる。
「そうだね。人は全ての素質をその内に宿して創られた生き物だ。
人の魂は、腐肉に集る蛆のように醜くも、創造神に近い輝きを持つこともできる。創造神が何を考えそう作ったのか。彼らの一生を観察するのもまた一興だ」
珍しく無機質な表情を緩めたイクフェスが、自分の発言で何かを思い出したかのように顔を傾けた。
「以前君が気に入っていた、戦いにおいて天賦の才を持つ男がいただろう?」
イクフェスは、退屈しのぎに観察していた赤子について切り出した。
「フィランティーナが赤子に戻した奴か」
テオヴァーレがうんざりとしたような声音で妻の名前を呟いて、ゆっくりと顎を撫でた。
「奴は気に入っていた。
怒りに満ち、微塵の恐れもなく、全てを憎み屠る様は中々楽しませてくれたものよ」
テオヴァーレは思い出したものの、友が何故今更そんな話をするのか、と首を傾げた。
「あの赤子が無事育っていてね。つい魔力の暴走を起こしたばかりだ」
イクフェスが苦笑しつつ疑問に答えると、テオヴァーレの顔色が喜色に染まった。
「おお!そうかそうか!育ったか。
良い機会だ。これからの戦に使えるではないか!
どれ、見てやろう。真名は確か……思い出せん。イクフェスよ、ここへ映せ」
一気に気を良くしたテオヴァーレは、弾んだ声で卓上を指す。
身体が若返ると精神まで幼くなったように錯覚させられる。イクフェスは友テオヴァーレの期待に答えるべく、何かを呟いて手をかざすと、床に力なく横たわる少年の姿が卓上に映し出された。
「何だイクフェス、これは器が未成熟ではないか。
もっと成長しているかと思ったが」
「本来の魔力を取り戻せば身体はそれに順応しようとする。下界で数年過ぎれば元に戻るだろう」
イクフェスが感情の籠らない瞳を少年に向ける。
少年を注視していたテオヴァーレが突然くつくつと笑う。
「ふむ。強い願いが聞こえるな。“殺したい”と。
この戦神テオヴァーレが叶えてやらねばならんな。少しばかり魔力の流れを早めるだけだ。元の身体に追いつくように」
テオヴァーレがほくそ笑んで、指で何かをかき混ぜるような仕草をした。
「テオヴァーレ、あまり目を付けられない程度に留めろ」
イクフェスが視界を遮る長い髪を耳にかけて溜息をつく。
卓上に小さな火柱が立った。小さな家の中で爆風が起き、燃え盛る炎を身に纏い起き上がった少年が兵士の息の根を止めようと手をかざす。
火柱の中心に立つ少年をしげしげと眺めてテオヴァーレが首をかしげた。
「ふむ。魔力の質が随分と変わった。
それに未熟な器のせいか幾分と弱い……だが良いぞ。望みのまま殺してしまえ」
逃げ惑う兵士の足を炎で貫く様子を、手に顎を乗せながら楽しそうに眺めるテオヴァーレ。
イクフェスが死期の迫った兵士の魂の匂いを、瞳を閉じたままうっとりと感じていると、テオヴァーレの舌打ちが聞こえて顔を上げる。
テオヴァーレが何かを見て顔をしかめている。視線の先を追いかけると、イクフェスがずっと観察していた女がいた。
「この女はなんだ?」
兵士を庇い少年へ対峙する女を指す。少年もその女の魔力の前には攻撃を仕掛けられないのか、攻撃する気がないのか、膠着している様子だった。
「……ルフェナンレーヴェの加護を厚く受ける人間だ。
この赤子をここまで育てた」
淡々としたイクフェスの答えに、テオヴァーレが大袈裟に首を横に振った。
「女は邪魔だな。はやくそなたの国に迎えてしまえ。
そしてこやつを戦場へ放り込めば数多の連鎖を生み出すことだろう」
テオヴァーレが怒りに我を忘れて火をけしかけようとする少年を見つめる。
「あぁ、どうかな。ルフェナンレーヴェが簡単に手放すかどうか」
テオヴァーレにはそう返しつつも、イクフェスは少年に身を預けた女を静かに見つめていた。
イクフェスは悠久の流れる宵の国にて、人間を観察することを楽しみとしている。
気に入った人間がいれば宵の国へと誘い、その魂を愛で、嗅ぎ、触れる。たまに素晴らしく気に入った魂があれば食す。それがイクフェスの愉悦だった。
昔は酷く濁った魂を好んでいたが、最近のイクフェスの好みは清らかな魂だった。
女の美しく清らかな魂を眺めながら、無意識に舌舐りをした。