第八話
感情的にふるまって、いいことなど何もない。
そんなこと、誰に言われるまでもなく分かりきっていることなのに――
クローディアは、カーテンを透過してくる清らかな光を目蓋の裏で感じ、憎らしく思った。
昨日のことを思い出し、気が重くなる。
今日は平日だった。
体調を崩しやすいレオノーラの体も今日に限っては快調で、重かったりだるかったりなんてこともなく、頭はやけにスッキリしている。
(うう、お昼過ぎまで寝ていてはダメかしら)
クローディアは、部屋まで起こしにやってきたヴァニラのことを恨めしく思った。
入れ替わりが起きる前――王宮で過ごしていた頃は、お昼くらいまで寝ていることも多かった。というのも、毎夜のごとく開かれる夜会のためだ。
夜十時くらいから始まり、自室に戻って寝る準備をする頃には、深夜零時を回ることも珍しくなかった。訪れる会場によっては朝方なんてこともざらだった。
しかし、アカデミーは朝の九時から始まる。
準備にはそれなりに時間が必要で、侍女もその辺のことは心得ている。
いつも決まった時刻にやってきては、半分寝ていようが枕にしがみついていようが、ベッドから引っ張り出して、身支度を整えてくれていた。
クローディアがそんなことを考えたのは、もちろん、エイメリックに会うのが気まずいからだ。
昨晩、寝入る前には静まっていた気持ちが、ぶり返してきて悶々とする。
あんな風に人に感情をぶつけてしまったのは、幼い頃を除けば初めてだった。
昨日の今日で、どんな顔をして会えばいいのか分からない。
アカデミーまでの道のりを考えると、吐息が洩れそうになった。
移動には馬車を使う。
行く時間も場所も同じなのだから、当然、エイメリックも一緒だ。
朝食で顔を合わせるのも気が引けるのに、その間、ずっと二人きりかと思うと、気が滅入ってくる。
大体、こういう事態にならないために、普段から立ち居振る舞いに気を配っているというのに。
「……天変地異でも起きないかしら」
思わず零すと、ヴァニラが首を傾げた。
「――――? なんですか?」
「なんでもないわ」
クローディアはヴァニラに身支度を整えてもらいながら、段々と胃の辺りが重くなってくるのを感じた。
(……か、帰りたい)
誰にとっても気持ちのいい朝。
そのはずなのに、クローディアの心の中は、その一言で埋め尽くされていた。
家人に「いってらっしゃいませ」と見送られた先ほどのことが、懐かしく思えてくる。
車内の空気は最悪だった。
身だしなみをきちんと整え、むっつり押し黙ったエイメリックが足を組んで座っている。
やはり怒らせてしまったのだろうか。
クローディアはちらりとエイメリックを盗み見た。
昨日の件で気まずくなっているのは間違いない。けれど、謝るのはなんだか違う気がした。
勝手にすればいいと思ったのは本当だし、それを訂正する気もない。
とはいえ、この空気……いつまで続くのだろう。
クローディアからかける言葉はなく、エイメリックもそうなのか、自然と静かになる。
少しでも動けば、この場の均衡が崩れてしまいそうで、息をするのにも苦労する有様だった。
(……もしかして、私、普段こういう感じなのかしら)
ミモレ丈のドレスに身を包んだ自分の姿を視界の隅に入れながら、ふと思う。
彼は眉を怒らせているだとか、口を引き結んでいるだとか、そういったことはない。
あくまで自然体でそこにいる。
だというのに、なぜかとっつきにくい雰囲気があった。
妙な威圧感までもが車内を満たし、空気が薄いような気がして、餌を求める鯉よろしく、口をパクパクさせたくなってくる。
自覚してやっているならまだしも、知らないうちに人を寄せ付けないオーラを放っているとしたら問題だ。
(き、気をつけよう)
クローディアは、膝の上に乗せた両手に力を籠めると、心の中で固く誓った。
***
結局、アカデミーに着くまで、どちらも終始無言だった。
エイメリックのあとに続き、馬車から降りる。
ようやく暗黒の時間から解放される――そう思い、ホッとしたのも束の間、目の前に広がる光景にビクリと肩が跳ねた。
(これはいったい、なにごと――……?)
そこそこ広さがあるとはいえ、立ち止まると邪魔になる校門前。
そこに自分たち――正確にはエイメリックだ。彼を取り囲むように、ご令嬢たちが佇んでいる。
その先頭に立つ人物に目を留め、クローディアは息を飲んだ。
(……イレーネ様)
同学年中、成績順位は女生徒の中で常に二位。
クローディアがいなければ、エイメリックのお相手にと目されていた人物だ。
キツク巻いた豪奢な髪を背中へ流し、形の良い胸をツンと反らしている。
フェイスラインの髪を引っ張り上げているからか、目元はキリリと吊り上がり、そのためか、どうにもキツイ印象が拭えない。
クローディアに落ち度があれば、すぐにでもその地位を掠めとる――そんな態度をうまく隠し、遠回しに絡んでくる非常に厄介な人だった。
そんな彼女が朝っぱらからうちの馬車の前で待ち構えている。訝しむのも当然と言えた。
しかもすごい人数――と、イレーネの後ろにいる顔ぶれを見て、クローディアは首を傾げた。
てっきり取り巻きだとばかり思っていたのに、普段よく話す子も交じっている。
このちぐはぐな組み合わせはなんだろう。疑問に思う間もなく、エイメリックが声をかけた。
「あら、皆様お揃いで……どうかされました?」
「馬車からレオノーラ様が見えたものですから」
答えると思っていなかったイレーネの口から、現在、自分のものである名前が出てドキリとする。目が合った、と思った瞬間、かつて見たことのない慈愛に満ちた顔で微笑まれ、背中がゾクリとした。
「クローディア様、ずっと心配されてたでしょう? ご容体がよくなられたのかと、声をかけずにいられなくて」
眉を曇らせ、頬に手を当てるのを見る限り、嘘をついているようには見えない。
(……イレーネと私って、そんな関係だったっけ?)
一瞬、イレーネの中身まで誰かと入れ替わってしまったのではないかと疑ってしまう。
そんなクローディアの動揺などお構いなく、彼女の後ろにいる子たちまでもが「私もです!」「回復されたようで安心しました!」と、口々にさえずるのが聞こえた。
「まあ――、そのために……?」
嬉しい、とエイメリックが感じ入ったように言うと、イレーネを初め、この場にいたご令嬢たちの口から、ほう、というため息が洩れた。中には恥じらうようにうつむく子や、挙動不審になる子までいる。
エイメリックはこちらに背を向けているため、その表情まではうかがい知れない。
しかし、正面にいるご令嬢たちの反応から、いま、彼がどんな顔をしているのか気になった。
「せっかくですので、教室までご一緒しましょう」
イレーネの隣に並んだエイメリックがそう言った。彼女のほうを向いたため、今度はクローディアにもその顔がばっちり見える。
(――っ、あなた、普段わたしのことどう見てんのよ!?)
彼は百合が風にそよぐような、たおやかな仕種で微笑みかけていた。
声までもが楚々としていて、自分の顔だというのに、いや、自分の顔だからこそか? 背中の辺りがむずむずしてくる。
アカデミーで完璧にクローディアとして振舞っているのだと思っていたのに、とんだ見当違いだった。
間近で食らったイレーネは、耳どころか首まで真っ赤になってしまっている。
(イレーネ! そこは頑張って! いつもの棘はどこにいったのよ!)
思わず応援してしまったものの、彼女は庭師に棘を全部抜き取られてしまったらしい。いつものチクチク攻撃が繰り出されることはなかった。
「ももも、もちろんですわ」
思いっきりどもりながら、エイメリックと肩を並べて歩き出す。
ふたりの後を追って、他の令嬢も動き始めた。
ふらふらと精気を抜かれたようについて行く彼女たち。
「ああ、おねえさま……」
そのうちの一人がぼそりと零す。恍惚とした息づかいまでも拾ってしまい、クローディアは口の端がヒクつくのを感じた。
(いやいやいや、あなた私と同い年でしょう?)
見た目がクローディアでも、接し方がエイメリックなら、こんな事態になり得るのか――すっかり篭絡されてしまったご令嬢たちを目の当たりにし、ふとあることに気がついた。
(元の体に戻ったら、どうなるの? これ……)
門のところで校舎へ向かう一団を見送る。
そんなクローディアの胸の内に、ある思いが浮かんだ。
――……私、このままでもいいかも。