第七話
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「平気よ。でも、休みたいから一人にしてくれる? 夕食も今日はいいわ」
邸へと戻ってきたクローディアは、レオノーラの侍女であるヴァニラの手を借り、楽な格好に着替えていた。
体調が優れないからと言って、額に手を当ててみせる。
一人になりたくてついた嘘だったが、こうして実際に触れてみると、少し熱があるようだった。
ヴァニラは「かしこまりました」と返事をすると、先ほどまでクローディアが着ていたドレスを持って部屋を出て行く。
彼女がきちんと扉を閉めるまで見届けて、クローディアはくるりとベッドのほうを向いた。
レオノーラの部屋は可愛いもので埋めつくされている。
ピンクの壁紙、微細な刺繍が美しいレースのカーテン、オフホワイトの調度品、貝殻のランプ。
天蓋付きのベッドに置いてある枕にも、可愛い刺繍があしらわれている。
クローディアはそれをぐっと持ち上げると、シーツの上に叩きつけた。
ぼすんと鈍い音を立て、ベッドの上で軽く弾む。
期待していた手応えが感じられないことに不満を覚え、もう一度掴み上げた。
勢いよく振りかざしたところで、ピタリと止まる。
「……なにやってるんだろう、私」
柔らかな表面をぽんぽんと撫でると、腕に抱え込んだ。
そのままごろんと横になる。
クローディアは邸に戻ってくるまでのことを思い出し、イライラした気持ちを鎮めるように、枕に顔をうずめた。
***
――王太子宮を出ると、こちらへ来たときと同じ馬車が横づけされていた。
エントランスまで出てきた者たちに見送られ、エイメリックとともに馬車に乗り込む。
クローディアは座席に腰を下ろすと、窓の外へと顔を向けた。
邸を出たとき、高い位置にあった太陽も、いまでは大分傾いている。
空はまだ明るかったが、もういくらもしないうちに暗くなってくるだろう。
後方へと流れていく街路樹に目をやりながら、クローディアはそっと息を吐いた。
エイメリックが賭けを持ち出してからこっち、もやもやとしたものが胸の内で燻ぶっていた。
いつもならすぐに平静を取り戻せるはずなのに、今日に限ってうまくいかない。
常日頃、冷静な行動を求められるクローディアにとって、珍しいことだった。
制御のきかない感情に息苦しくなる。
どうしたのだろうと自問しながら車内へ視線を移すと、座席に腰かけるエイメリックが視界に入った。
やけに静かだと思っていたら、彼は軽く足を組み、目を閉じていた。
窓から差し込んだ光がエイメリックの長い髪を艶めかせている。
クローディアはまったく動く気配のない彼を見て、無意識のうちに胸を押さえた。
「……ディディ、もしかして怒ってる?」
「えっ?」
唐突に思いもよらないことを言われ、どきりとする。
顔を上げると、しっかり見開かれた彼の黒い双眸が、こちらを見ていた。
寝ているとばかり思っていたのに。
クローディアはいつもの癖で、とっさににこりと微笑んだ。
「いいえ、そんなことないわ」
普段はうまく取り繕えているはずなのに、今はなんだか自信がもてない。
それを裏付けるように、エイメリックが聞こえよがしにため息を吐いた。
――ため息をつきたいのは私のほうよ!
思わず口に出してしまいそうになり、慌てて視線を落とす。
本当にどうしてしまったのだろう。
クローディアは気持ちを落ち着かせようと、膝の上で組んだ両手をじっと見つめた。
「……言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいだろう? そんな風に黙っていられると気分が悪い」
やれやれと肩を竦めたエイメリックの声が、クローディアの耳に届いた。
そこに、煩わしさが滲んでいるのを聞き取って、カチンとくる。
なにを――と思った次の瞬間、頭に浮かんだ言葉が飛び出していた。
「そっちが先に会話を放棄したんじゃない!」
自分でも驚いたものの、いったん声に出してしまうと、押しとどめるのは無理だった。クローディアの意志とは関係なく、喉の奥から口を衝いて出てしまう。
「賭けを持ち出した時点で勝算はあるのよね? ああ、答えなくていいわ。あなたはいつもそうだもの。今回のことだって、私の助けなんて必要ないんでしょ?」
「――ディディ」
途中で彼が口を挟んできたけれど、そちらを見ることも出来なければ、言葉を止めることも出来ない。
そんなクローディアの脳裏に、ある人物の顔がパッと浮かんだ。
「護衛の彼とは、ちゃんと連絡とってたみたいね」
レオノーラのいた部屋から出たときのことを思い出す。
あのあと、クローディアたちは従者に連れられ、エントランスへと向かった。その途中、廊下でエイメリックの護衛であるジャマルとすれ違った。
そのとき、彼とエイメリックが視線を交わしていたのを、クローディアは見逃さなかった。
おそらく、自分が寝込んでいるあいだに、どうにかしてコンタクトを取ったのだろう。
二人の様子から察するに、今のこの入れ替わっている状況や、今後のことについて、なにか話したに違いない。
もしかしたら、ああやって賭けを持ち出すことだって、すでに知っていたのかもしれない。
――彼とはちゃんと話す癖に。
そう思うと無性に腹が立った。
自分は必要ないと言われているような気がして、胸の奥がじりじりする。
「茶会の時もそうだったものね。あのときみたいに、私にはなんの説明もなく、勝手に全部片づけてしまうのでしょう?」
興奮して捲し立てているからか、頭がぼうっとしてきた。
哀しいのか、悔しいのか、腹立たしいのか――クローディアにもよく分からない感情がごちゃ混ぜになり、声にする度に膨れ上がっていく。
病み上がりでだるさの残る体が、更に重くなった気がした。
不意に、馬車の揺れが止まった。
どうやら邸に着いたらしい。
クローディアは、御者が扉を開けてくれるのも待たず、自分で押し開くと、馬車の中にいるエイメリックをきっと睨んだ。
「勝手にすればいいんだわ!」
***
「――ああ、もう、なんであんなこと言っちゃたのかしら」
クローディアはベッドに横になったまま、枕をぎゅっと抱きしめた。
飛び降りるようにして馬車から出たあと、クローディアは脇目も振らず玄関へと駆け込んだ。
そして現在に至る。
あれから少し時間も経ったからか、いまではいくらか落ち着いてきている。
胸にあった重苦しさが軽くなり、熱っぽかった体も、随分マシになっていた。
クローディアは体の力を抜くように、はあっと息を吐いた。
自分にはなにも告げず、エイメリックが勝手に行動するのなんて、いつものことだ。
いまさら腹を立てるようなことでもない。なのに、なんであんなにも我慢できなかったんだろう。
そうやって自分の心に問いかけていると、馬車から降りる直前、座席のところで腰を浮かせたエイメリックの姿が目蓋の裏に浮かんだ。
もやもやした気持ちがまた湧き起こりそうになり、慌てて追い払う。
「もう、なんなの?」
それもこれも、ぜんぶエイメリックのせいよ――
クローディアはそう独り言ちると、眠たくもないのに、無理矢理目を閉じた。