第一話
「王太子妃はやり直しを要求する」の続編となります。
――様……。
――……ぉ嬢様。
意識が徐々にはっきりしてくる。
誰かがカーテンを開けたのか、目を閉じていても眩しさを感じる。しかし、頭はまだ眠っていたいようで、ベッドから体を起こしても、ちゃんと目が開かない。
クローディアの前に立った誰かに両手を引かれ、椅子に座らされる。温かいタオルを渡され、ふわりとしたその表面に顔をうずめた。その間に、誰かの手が髪を梳く。
「ふふ、くすぐったあい」
温かいタオルと、髪を梳いてもらう心地よさからそんな声が出た。
「お嬢様、まだ寝ぼけておられるのですか? もうすぐ朝食の時間ですので、シャキッとなさってください」
「だって……」
その先を続けようとして、クローディアは疑問に思った。
今、後ろにいる侍女は、自分のことをお嬢様と言わなかったか? 王宮に嫁して二年。そんな呼ばれ方をした覚えはない。
大体、自分はいつ寝室に戻り、ベッドに潜り込んだのだろう。思い返そうとして、別の光景を思い出した。
そうだ、茶会の席にエイメリックが来て、クローディアのティーカップに毒を入れようとしたレオノーラの手を掴んでいた。
それから――
クローディアは、物言わぬ人形となってしまった妹の顔を思い出した。口の端から零れた赤い血がいやにはっきり脳裏に浮かぶ。
「ノーラ!」
短く叫んで立ち上がると、櫛を持った侍女が「きゃっ!」と驚きの声を上げた。その拍子に、手に持っていたタオルが足元へ落ちる。
クローディアの目に、鏡に映った人物の顔が飛び込んできた。人物、と称したのは、そこに映っているものが、自分というにはあまりに違うものだったからだ。しかし、非常に見覚えのあるものだった。
おそるおそる顔に手を当てる。ぺたぺた触ると、鏡の人物も同じように動いた。
右手を上げても首を傾げても、そっくり同じ真似をする。鏡に手をつくと、向こうの彼女も同じように手を添えた。
「……ねえ」
「――はいっ!」
侍女の声が裏返る。クローディアの取った行動を不審に思ったのだろうが、クローディアの方こそ何かの間違いだと言ってもらいたかった。
尋ねるのに間が空く。
クローディアは意を決すると、後ろで櫛を抱いた侍女に尋ねた。
「私の名前、呼んでもらえる?」
「はぃ……え? あの……?」
「あなたが戸惑うのも無理ないわ。でも、私も確認したいのよ。お願いだから名前を呼んでくれないかしら」
鏡越しに侍女の困惑した顔を見つめる。侍女は数瞬ためらったあと、この体の名前を呼んだ。
「レオノーラ様」
やっぱり……。
人から名前を呼ばれたことで、間違いないと確信した。まだ、自分の目がおかしくなったと言われた方がマシな気がした。
叫び出したい衝動に駆られ、はっと気づく。
(ちょっと待って。私がノーラの体に入ってるってことは……)
クローディアは一目散に駆け出した。
「えっ……あの、お嬢様!?」
侍女の制する声にも構わず、部屋を飛び出す。
廊下に出て真正面の部屋。その扉の前に立った。まだ侍女が起こしに来ていないのか、部屋の扉は閉まっている。
クローディアはノックもせず、ばん! と扉を開けると、信じられないものを見た。
いや、そこにいる人物については半ば予想していたのだが、その行動が思いもよらないものだった。
クローディアが入ってきたことにも気づかないのか、見た目はクローディアをした誰かは、鏡の前でその身体を抱きしめていた。
何かぶつぶつ言っているのが聞こえてくる。
「ああ、まさか本当の意味でクローディアと一緒になってしまうとは」
そう言いながら、鏡の前でくねくねと身をよじり、髪をかき上げポーズを取ったかと思うと、両手で頬を包んでにんまりする。
クローディアは身の毛がよだつのを感じた。扉を開けたのが自分であったことを神に感謝する。
鏡の前の誰かは、ふと動きを止めると、なにを思ったのか襟ぐりの開いたネグリジェの襟を引っ張った。
「顔だけということはないよな。当然ここも……」
「うわあぁあぁぁぁ!」
それ以上は我慢ならなかった。大きく叫びながら自分の体を突き飛ばす。
中に入っているのはレオノーラではないのか。
もしそうなら、絶対にこんなことはしない。
クローディアは荒く息をつくと、絨毯の上に転がった誰かに向かって指を突きつけた。
「あ、あ、あ、あんた! 人の体で何してんのよ!?」
床に転んだ誰かは、その場で手をついてクローディアを見上げた。
「……レオノーラ? いや、人の体って……もしかしてディディか?」
――ディディ。
その呼び方、この喋り方……。見た目がクローディア、つまり女体だからわかりにくいが、クローディアの頭に、ある人物の名前が浮かんだ。
「……リック?」
クローディアは、公式でない場所では彼のことをそう呼ぶ。
途端、彼、いや彼女? の黒い瞳がぱっと輝いた。
「やはりそうか!」エイメリックは嬉しそうに立ち上がると、抱きついてきた。「ディディ、きみはレオノーラの中に入ってしまったんだね」
レオノーラの中と言われ、クローディアはエイメリックを押し返す。
「ちょっとリック、離れて……これは私の体じゃないのよ!」
なんだか、いけないことをしてしまっているような気がして身をよじる。すると、エイメリックがどうして? と首を傾げた。
「俺の体は今クローディアだし、姉妹で抱擁したっておかしくはないだろう?」
「え? うん? そう……かな?」と考え、やはりおかしいと思い直す。「いいえ! やっぱりおかしいわ! 大体、私とノーラはこんな風に抱き合ったりしないもの!」
仲はよかった……と思っていたし、手をつなぐこともあったが、こんな風に恋人や夫婦がするように抱きしめたりはしない。エイメリックの顔を肘でぐいぐい押していると、申し訳なさそうな声が扉のところから聞こえてきた。
「……あの、そろそろ朝食ができますので、身支度を整えさせていただいてもよろしいでしょうか?」
振り向けば、いつの間にやってきたのか――。
クローディア付きの侍女とその後ろ、先ほど部屋に残してきたレオノーラの侍女が困惑気味に立っていた。