3 デート
今回も長いです。
カラオケの知識は皆無です。そもそも誰かと行ったことすらないです。
つまり妄想です。
翌日の午前九時半ごろ。僕はスマホの黒画面で自身の髪を整えながら、夏樹の家の玄関で彼女が出てくるのを待っていた。まだベルを鳴らして五分も経っていないから「待っていた」とは言わないか。
日付が変わるまで降り続けていた雨のお陰で今朝はじめっとしていて既に汗が頬を伝っている。昨日同様雲の割合が高いものの、太陽の光によってそれなりに明るい朝だ。
寝起きに観た天気予報では来週の中ごろには梅雨も明けるとのことで、ようやっと雨から解放されることの喜びとこれから増していく気温への絶望に何とも言えない気持ちになった。
と、中から足音がこちらに向かって来ていることに気づいた。
かなり急いでいるようで床を叩いているかのような、地鳴りのような音が聴こえてくる。
急ぐ理由などすぐに分かった。別にそんなに焦らなくてもいいのだけど。
まあ、僕との時間を考えてくれているのなら嬉しい。そう考えればこの音も耳心地が良くなるものだ。
何とかキマっている髪型に整えて、スマホをポケットに滑り込ませた刹那。
「ごめん!待った?」
ガチャン、と玄関のドアが開かれた。
足音でそろそろだろうとは分かっていたが、考えていたよりも早かったため一テンポ反応が遅れてしまった。
そのため、返事するよりも早く夏樹の姿が目に入ったもので。
「―――――――あ」
それはもう、あからさまなくらいに見惚れてしまった。誤魔化す言葉を思い着いたところでもうどうこうできるレベルじゃないほどに。世界一のボキャブラリーの持ち主であっても、この一瞬に感じた数秒を弁解できる術など持ち合わせていないだろう。
それほどに、目の前の美少女は、夏樹は綺麗だった。
まず目に入ったのは汚れ一つないワンピースだった。純白の白を身に纏い、照り付ける太陽をも魅了してしまいそうなほどに現実離れしている美しさ。まるで彼女が着るために作られたかのような。きっと一言一句違えずに伝えたら、「過大評価し過ぎだよぉ」とか言って頬を赤くしながらニッコリと笑うに違いない。
けど、言えない僕の勇気のなさが情けない。
ここまでで約一秒。
まるで時の流れが一万分の一くらいになったみたいに僕の脳の処理速度は圧倒的な速さになっている。
そして、次に目に留まったのは見せつけるように露出した素肌だ。ちょっぴり日焼けしていて、でもその日焼けが彼女の美しさを引き出す材料の役割を買っていて、なんというかベストマッチしている。腕は手から脇まで、足は履いているヒールから太ももまで。すらりと伸びた足と靡く風に髪を止める手。若さと美しさを際限なく併せ持った紛うことなき美少女の姿がそこにはあった。
「あ……いや、待ってない、よ」
三秒。
それだけの時が経過した後、ようやく僕の口は動いた。
「…………」
目線を夏樹の顔に合わせた。
「………あ」
そこには頬とは言わず、耳まで真っ赤にした夏樹の顔があった。
恥ずかしそうに口をもごもごさせて、僕と目が合うと一層赤くなった。
この反応。やっぱり……。
僕まで恥ずかしい気持ちになってしまった。
かあ、と顔が熱くなるのを感じた。夏の暑さによるものじゃないとはっきり言える。
「……ごめん」
「う、うん。全然平気。気にしてないし」
「そ、そう?なら、よかった」
いや、気にしてるだろ。あんなじろじろ見たんだし、気にしない方がおかしい。
顔を見れば一目瞭然だし。
「……昨日ね、家に帰ってから、ずっと考えてたんだ。明日何着ていこうって」
夏樹は両手を組みながら俯き加減に言った。
「うん」
僕はもっと顔を見せないように俯きながら頷いた。
「夜にね、君のメールを見て……更に張り切っちゃって、ね」
「うん」
昨日夜の八時過ぎに送ったメール。内容は何時にどこで待ち合わせをするかというもの。
決まったのが先ほど僕がベルを鳴らし髪を整えていた時間になる。
「結局ベッドに横になったの時にはもう日付を越えてて……」
「うん」
何だこの会話。どう返せばいいんだ。どう反応すればいいんだ。未知の問題過ぎて「うん」としか言えてない。でも、夏樹が頑張って話しているのに邪魔なんてできない。だから、今、最も最適解な返答が「うん」であると、そう強制的に自分に納得させた。
「で、朝寝坊しちゃって」
「……だから、あんな焦っていたんだ」
「声、聴こえてたんだ」
「いや、足音だよ。ドタバタしてたから」
「ごめんね、騒がしかったよね」
「ううん、別に」
急いでたのは寝坊の所為だったんだ。
「ママ、起こしてくれなくて」
「そうだったんだ」
早く僕に会いたかったから、じゃなくて。約束の時間に遅れるから、だったのか。
意味なんてそこまで変わらない気もするけど、ちょっとだけがっかりした。
「……そろそろ行こうか」
まだお互い下を向いたままだけど、ここに長居しても仕方ないと思い、僕は踵を返して夏樹を促した。
「あ、うん」
僕を追うようにして夏樹も歩き出した。
彼女を背に歩きながら僕はやっぱり情けないなと思った。彼女に微笑みを送ってやることもできなかった。彼女の手を取ってやることもできなかった。そして、簡単なシャツと半パン姿のあまりに釣り合いの取れていない僕の不格好さも情けなかった。
ほどなくして僕と夏樹は並んで歩くようになった。ヒールを履いた夏樹より少し高い背丈は唯一夏樹と並び立つ者として相応しいステータスであった。
「それで、何処に行くの?」
いつもの笑顔を僕に向けながら、行き先を尋ねてきた。
顔を合わせられるようになったのはこうして並んで歩くようになった数分前くらいからだ。
「その前に、条件として学校の人達や顔見知りに見つからないようにしなくちゃならないおと、分かってるよね」
指を立てて前提条件の確認を行う。
硬いと思わるかもしれないけど、互いに意識しないと思わぬ祖語だったり認識の食い違いが起こったりするから、何と言われようと思われようとこれだけは譲れない。
「うん、勿論。最大限注意するよ」
どうやら大丈夫なようだ。自身が話題にされるような存在であるという自覚はあるみたいだ。
自覚はあるけど驕らないことは素直に感心するし、夏樹の美点であるといえる。
「うん、それならいいよ。……ってことを踏まえて、近くの映画館で連続で何本か映画観るか、そこらの公園でのんびりするか」
「んー、そんなところだよねー。隠れながらってなると買い物だってゆっくりできないし、都心に行ってぶらりなんてこともできないしね」
「これが平日なら話は別だけどな」
「国の中心なのに、知り合いには高確率で会うよね」
「それなー」
皆考えることは同じなのだろう。
幾ら娯楽施設が多くても学生である僕達が行きそうなスポットなどたかが知れている。
「じゃあカラオケなんてどう?」
デートの経験など指で数えるくらいしかない僕のない頭でひねり出した第三の選択肢がカラオケだった。
正直悪くはないと思う。
「ん、いいね。映画何本も観るお金ないし、こんな暑い中に公園もあれだしね」
お、結構いい反応だ。
「了解、んじゃ善は急げだ。さっさと駅に行こう」
「うん、場所は任せるね」
僕が歩く速さを上げると夏樹もそれに合わせて付いてきた。
カラオケ、か。高一の時はよく友人と行っていたものだ。今じゃめっきり行かなくなったし、ヒトカラもしなくなった。
「夏樹はカラオケ結構行ったりするの?」
友人たちとバカ騒ぎをしていた記憶を思い出しながら、夏樹に問うてみた。夏樹のことだから、友達もいるだろうし、週一くらいで行ってるのかも」
「んー、何時振りだったかなー。たぶん、もう五、六年くらい行ってないんじゃないかな」
「え?そんなに?歌とかそんなに好きじゃないの?」
「というか行く機会がなくてね」
「へー」
カラオケには興味ないのかな。さっきも言ってたけどショッピングの方が良かったのかな。
何をするにしても人の目が邪魔をする。駅のホームで電車を待つ時も、人目に感覚を尖らせた。
それからカラオケの個室に入るその時まで気を抜くことはなく、結局知人とは会うことはなく、無駄に身体と心に疲労を負ってしまっただけだった。
僕、夏樹共に久方ぶりのカラオケだったが、意外にも楽しい時間を過ごすことができた。
他にどこに行くという計画をなかった二人は迷わずフリータイム、ドリンクバーを選んだ。
ちなみに注いだ飲み物は僕が某有名な黒い炭酸飲料で、夏樹が烏龍茶だった。
専用のタブレットに曲名を入力する。僕は今時なJポップと有名処のアニソンを次々とキューに入れていく。
夏樹は「私は後でいいよ」と遠慮した。連続で歌わせて喉を枯れさせることを目的としているのでは、と疑いもしたが。ずっと飲み物を飲んだり、モニターに流れる映像であったり歌詞であったりを見つめていたりなんかして。たまに歌っている僕を見てきたりして。何が面白いのかずっとニコニコしていた。
「なあ、夏樹は歌わないのか?」
既に両方の手の指を使わないと数えられないぐらいの曲を歌いきった僕がそろそろ疲れてきたと夏樹に目を向けた。
「んー?私はまだいいかなぁ」
「そう?」
「うん、あと、雨則君の歌ってるとこ見るの楽しいし」
「……そう?」
別に悪だくみしているわけじゃなさそうだ。
でも、何だろう。この釈然としない感じは。
僕は、再び曲を幾つか選択し、キューに入れる。
「今度はランキングに入ってるのを入れたけど……一緒に歌わない?」
何かしらのインターネットに接続できる媒体を使っている人ならば誰でも一度は聞いたことがあるだろうという曲のタイトルが画面に表示される。
「あーうん知ってるよこれ」
もう何杯目かの烏龍茶を飲みながらうんうんと何度か頷いた。
「じゃあ、じゃあさ、ほら、歌お?」
籠の中に入っている、まだ一度も使っていないマイクを取り出し夏樹へ渡す。
というか、このマイクは夏樹のだ。
「えー悪いよ。雨則君の足引っ張っちゃうかも」
「大丈夫だから、ね。……あ、もうイントロ流れ出したよ」
「…………」
何故だか本当に乗り気でないらしい。
強制するつもりはないのだけど。でも、やっぱり、せっかくのデートなんだし。せっかく大切なお金をはたいて来ているのにただ聞き専に徹するというのも。夏樹は構わないという姿勢だが、僕は構う。
「夏樹」
「……ん?」
「もっと夏樹のこと、知りたいんだ」
「……ぁ」
「夏樹の歌声、聴かせてよ」
「…………」
夏樹は、少し頬を染めて黙りこくってしまった。
かなり勇気を込めたのだけど。僕にしては珍しく、格好いいこと言った気がする。
そろそろイントロが終わる。画面に歌詞が表示された。
夏を思わせる曲。青い空と白い雲、暑さとか、虫とか、そんな風物詩なる事柄が歌詞に多様されていて、嫌でも夏の情景が浮かんでくる。
歌詞を追って僕は声を出す。頻繁に耳にしている曲だけど、ところどころ不安な箇所がある。
それに、僕は歌詞の他にもう一ヶ所目を向けなければならない。勿論、夏樹だ。
歌詞と夏樹なら四対六くらいの割合で見ている。夏樹を優先的に見ている。
いかにも外行用のワンピースを着て、いつもの微笑を画面に向けている。
今何を考えているのだろう。夏樹は今何を思って画面の歌詞を追っているのだろう。
やがて曲も終盤に差し掛かる。ラストサビだ。
僕は夏樹から目を離す。この曲の最後であり、一番の盛り上がりどころ。僕も大好きな部分。
ここだけは集中して歌いたい。夏樹のことは気になるけど、とても気になるけど―――。
―――来る。
僕は口を開き最初のフレーズを発する。
その時。
「―――――――え?」
歌声が、聴こえてきた。バックコーラスなどではなく、正直、とても音痴な歌声。
鼻で笑ってしまいそうになるほどの。
でも、笑えなかった。代わりに僕から出たのは驚きの声だった。
「夏樹?」
音程も音階も絶妙なくらいにズレていて、画面の音程を示すバーが正しさから無縁な方へ伸びていく。
救いようのないくらいに酷くて、同時に何故夏樹があそこまで頑な歌いたがらないのかが理解できた。
ははは、心の中で笑いがでた。そうか、そうか。また夏樹の新しい一面を発見した。
曲が終わる。数秒間の静寂の後、画面に歌に対する評価が下される。
“七十一点”。
ラストサビまではそれなりに綺麗に音程は取れているという評価が書かれていた。ビブラートとかこぶしとかそこまで気にせずに歌っていたが知らず知らずのうちに幾つか判定されていたみたいで、その分の得点も加算されていた。
いや、でも、それにしても低すぎないか、これ。原因は言うまでもなく夏樹なのだけど……。
歌ってくれただけでも感謝しなければ。
「お、やっとやる気になったのか?夏樹」
歌声については触れないように。
「すっごい音痴だから、私。ママに歌うなって言われるくらいにね。今も、分からないけど、迷惑かけたんじゃないかな?」
「……そんなことないよ。夏樹も歌ってくれると嬉しいよ」
「そう?……それなら、私、もう一曲くらい、歌ってみようかな」
「おっ!それなら一緒に歌おうよ!」
次の曲、これまた一度は耳にしたことのある有名曲が流れ出す。
イントロが短いことで話題になったのをネットで見たことがある。前曲に比べたら、歌詞も音程もそこまでしっているわけじゃない。
ただ、サビの盛り上がりが非常にいい。暗い気分になった時にこれを聴くとたちまちハイになれ、その為応援ソングとして人気を誇っている。
この曲も前曲同様。夏を彷彿とさせる歌で、つまりは今の時期にぴったりな一曲である。
まるで汗をだらだらと流しながらも我武者羅に走り回る子供達を思わせる陽気で軽快で純粋な曲調。そこに込められた歌詞は、スポーツであったり勉強であったりなど何かに一生懸命に励む少年達へ向けた応援メッセージだ。若くて青くて、成功も失敗も全て未来に受け継ぐことが出来て、過去に洗い流すことができる。そんな、どこまでも子どもである者を思う歌。
夏樹の声が聴こえてきた。僕の声も夏樹に聴こえている。
夏樹のやっぱり音痴な歌声が聴こえてくる。僕の方は……どう聴こえているんだろう。外したりしてないかな。
まあ、でも、もし外していたとしてもお互い様だよな。
僕は気づけば夏樹の歌う姿を見つめていた。ちらちらと目は合うが、歌詞を見るのに集中しているらしく、僕がずっと見ているのに気づいてはいないだろう。
僕は歌うのを途中で止めた。夏樹はもう僕の声なんて耳に入ってないみたいで、ただスピーカーから流れるメロディーと一体になっていた。曲の世界に入り込む、とまではいかないだろうけど、そこから見えてくる風景のような、もしくは、ずっと昔の自分の記憶に浸っているかのような、どちらなのかは分からないし、どちらでもないかいもしれない。けど、これだけは分かる。
今、夏樹の意識はカラオケルームにはいないということだけは。
「……なんだ、楽しんでるじゃん」
ぼそっとした呟き。でも、聴こうとしたら聴こえていたであろう呟きは、夏樹には届かなかった。
最初はあと一曲と宣言していた夏樹は、曲が終わった後にあと一曲と再び宣言した。そして、その曲も終わったらまたあと一曲なんて言って、まるで親にゲームを止めろと言われた子供がよく口にする「あと五分」と全く差異なかった。
何曲かデュエットし、その後は、もう一人でタブレットを操作して曲を追加していくようになった。ひどかった歌声も数時間もすれば大分マシになってきた。
僕は前半一人で続けて歌いすぎたことで後半になってからは立場が逆転していた。
「ねえ、歌わないの?」
「歌えねえんだよ」
とっくに枯れてしまった声を聞いた夏樹はあははとマイク越しに笑っていた。
「にしても、夏樹がこんなに音痴だったとはなぁ」
恨み返しというか、冗談混じりに夏樹のたぶん言われて嬉しくはないであろう言葉を発した。
言った後になって後悔の念が押し寄せてきたが。
僕はおそるおそる夏樹の顔を見た。
「ふーん、そういうこと言うんだ、雨則君って」
「……い、いや、それは……」
「まあ、いいんだよー。別に。雨則君にどう思われようが」
「あ、あの夏樹?怒ってる?」
「ううん、全然。全く。これっぽっちも」
いや、マイクを握る手がおそろしいことになっているんだけど、それは。
夏樹は笑顔を貼り付けたまま、今にもマイクを握り潰してしまいそうなほどに力が籠められていた。
絶対怒ってるんじゃん。
「あの、ごめん。その、僕」
「……あ、ごめん、次の曲始まるから」
画面に目を向けた夏樹。そっぽ向いたかのように見えたけど、実際、音楽がかかりだした。
あれ、でも、この曲って……。
「イントロ結構長かったよね。三十秒くらいあるよね」
「集中したいから……」
話しかけないで、とでも言うつもりだったのか。
どうやらかなりご立腹のようだ。
十秒。
二十秒。
ゆっくりとしたピアノの音だけが部屋を支配する。
その間には会話なんか当然なくて、ピアノコンサートのような荘厳で重苦しい空気に個室は張り詰められていた。
「…………」
気まずい……。
どうにか謝ろうと頭を捻っても謝罪の言葉が出てくることなかった。ただピアノの音だけが耳に染み入るとように入り込み、頭の考える力を奪っていく。
そして、ついには、沈黙を破ることができぬまま、夏樹は歌い出した。
やっぱり下手くそだった。
実はこの曲、イントロのようにピアノが主旋律として構成されているのだけど、盛り上がる部分、つまりサビに入ると、それはもう最初とは考えられないほどにアガる。あのピアノの旋律からは想像もできないコンサートからライブ会場にチェンジする。
サビまでの「溜め」が長い分、一気に鬱積を晴らすことができるのだ。
僕は、どうにかそこを利用しようと考えた。
あのサビに向かって少しずつ盛り上がってくる。合わせて夏樹もノッて……行くことはなく、淡々と歌詞を見て、声を紡いでいく。
ちょっと心配になってきた。
今まで何曲か夏樹の歌う姿を見て来たけど。今思い返せば、どれもリズムの良い、サビに盛り上がる、といった曲ばかりを歌ってきた。でも。
「………」
夏樹はノッてはいなかったのだ。あぁ、そうだ。「歌っている」という光景にだけに目を、意識を向けすぎて、夏樹の「歌う姿勢」には目を向けてこなかった。
何が言いたいのかというと、僕から見た夏樹は、感情を曲に込めて歌う夏樹を楽しそうと思ったのだが、当の夏樹自身はどう思っているのか、本当に楽しみながら歌っているのかは別であると、そういうことだ。
楽しんでいるのかもしれないし、僕に合わせて無理に楽しんでいるフリをしているだけなのかもしれない。
まだまだ短い付き合いだけど、少しは、というか、彼女に群がる男共よりかは彼女のことを知っている自負がある僕は、今どんな心境で心情でいるのか理解することができるようになってきた。
が、まだ「なってきた」というだけだ。たぶん「なった」になるには僕は夏樹の全てを知り尽くさなくてはならないだろうし、逆に夏樹も僕の全てを知らなくてはならないのだろう。
そんなこと、結婚して家族になるくらいにまで関係を進めなくては絶対にできないだろう。
だから、まだ「なってきた」であるのだ。
それに、正直なところ、今の夏樹の心境は僕には読めなかった。
……サビに入った。
静かさの欠片もない。だけど、バックの方には、微かにピアノの旋律が残っている。
普段は気にも留めないピアノの音に意識を傾ける。イントロで流れた荘厳に満ちたメロディーが繰り返されているのが分かった。作曲者は何を考えて、何を思ってこんなメロディーにしたのだろう。素人ならばまず気づかないバックに何を思って組み込入れたのだろう。
そう考えると気づく。
音楽の深さに。毎日聴いている曲でさえもまだまだ知らないことだってある。
一曲一曲に込められた想いとか願いとか、それはあまりにも深い。底の見えない深さだ。
だからこそ音楽は人を魅了する。惹き付ける。
恋に落ちた瞬間のように、コロン、と。その瞬間から、その曲の虜になり、そして、一日に一度聴かなくては生きていけなくなるようになったらもう離れられない。
そう。恋人のように。
主旋律ではなく、あえてバックのメロディーを聴く。そして、また気づくわけだ。主旋律という主人公はバックという脇役なしでは成り立たないことに。
まさに縁の下の力持ち。
絶妙的なまでのメロディーラインを確立するために、仕組まれた緻密なメロディーのギミック。どれほどの時間を費やして完成させたのだろうか。
曲の中から夏樹の声は止んでいた。曲の世界に捕らわれてもう聴こえないだけかもしれない。
再びピアノオンリーなアウトロが流れ出したのを聴いて、あぁ終わりなんだと思った。
ついに部屋は無音になった。
「………はぁ」
夏樹は息を吐いた。
終わったのに、僕はまだ曲の世界に佇んでいる。
「――――――君」
何も聴こえてこないはずなのに、頭の中ではまだピアノの音色が流れている。
「―――――則君」
どこからか雑音が入ってくる。
「――――雨則君」
その雑音はどうやら僕の名前を呼ぶ声みたいで。
「雨則君」
「……え?あ、夏樹?」
はっと我に帰った僕のすぐそこに夏樹の顔があった。
「なに呆けてるの?眠くなった?」
「い、いや。そんなこと……」
「ピアノ、綺麗だもんね、この曲」
「……うん、すっごく、綺麗だった」
寝起きのように回らない思考。
ここまで曲の世界に入ったのは初めてだ。まだまだ深奥には到底達していないけど。
どうして、突然、こんなにも深みに入れたのか。理由は全然分からない。けど、曲の聴き方を変えたことが原因ではないだろうか。
評論家みたいな上手いことは言えないけど、カラオケのスピーカーから流れる音源如きが、と思うかもしれないけど、どうやら虜になってしまったみたいだ。
「去年の映画の曲なんだけどね。世界的にも有名な作曲家が作ったものをデビューしたばかりの歌手が歌っているんだって」
僕はその世界的にも有名な作曲家に対して誰?と訊いた。
すると、返ってきた答えに成程と納得した。
だって僕だって知っている人だったから。
「聴き入ってしまってたよ」
「私の歌声に?」
「……それも、だけど。メロディーに」
同じ轍を踏まないように、苦笑しながらも頷いた。
「だよね。家で聴いている時よりも一つ一つの楽器が耳に届いたよ」
「夏樹もなんだ」
「うん」
やっぱりいい音楽はいい設備の中で聴かないと。カラオケごときでも、家のスマホから流れる音質とは大違いだった。
「そうなると、生で聴いてみたくなるな」
「そうだね。今度機会があったら二人で行こうよ」
「……だな」
いろんな問題をすっ飛ばした提案だったけど、その時の僕は、本心から、そうあって欲しいと思った。
それからも夏樹は歌い続けた。僕の喉の弱さがバカらしく思えてくるほど、夏樹は歌い続けた。
……やっぱり、下手なのは最後まで変わらなかったけど。
こうして僕と夏樹の初デートは一日中カラオケで歌い続けて終わった。
店を出たのは午後六時半。陽はまだ落ちていなかった。
すっかり掠れてしまった声で笑い合いながら、僕と夏樹は帰路に着いた。
今度は堂々と二人で手を繋いで歩きたいね、って空に願いを伝えながら。
誤字脱字、評価、感想よろしくお願いします。