表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
僕と、三人と、夏と、  作者: 齋藤夢斗
「中篇」高校二年 冬 
38/39

21 屋上のエピグラフ

めちゃくそ長いです。

海里と雨則が出会うところまでです。海里視点で。

 私が彼――雨則のことを忘れた日なんてない。あの雨の日、彼と歩いた時間、そして、彼の名前だけは鮮明に覚えている。日々、時間の経過と共に朧げになっていく情景、彼の姿。でも、あの人と話した内容や当時の心情だけは一片たりとも忘れていない。

 


 ……だから、私が、入学式の日、見知らぬ人に囲まれた高校最初の日、誰とも知らぬ教師であろう女性が発した名前。北上雨則、そう、彼の姓名を聞いた瞬間、全身に電気が走ったような衝撃を受けた。

 


 「………ぇ」

 


 北上雨則……。同姓同名だってあり得る。同じ苗字の漢字だって全国に三千人近くいるし、雨則って名前はあまり聞かないけど……、でも。

 


 この胸の動悸。あと、何の根拠もない運命を感じていた。でも、運命に根拠も何もないと思うのだけど。

 とにかく早く彼の顔を見たい。私の運命が現実なのか、それを知りたい。

 


 「代表の言葉」

 


 司会の声。ようやっと新入生全員分の紹介が終わったのか。

 高校生としての生活への期待とか不安とか、そんなことよりも、ただ一人の男子の顔を見ることが何よりも楽しみになった。

 


 ……早く終わらないかな。

 閉会を今か今かと待ち続けた。

 

 





 入学式を終え、それぞれの教室へと別れ、自己紹介なんかを含めたオリエンテーションが行われた。担任の教師は若い女性だった。新任らしく、まだスーツ姿が初々しかったのを覚えている。教育実習を終えたばかりだというのだが、子供達だけでなく、その保護者もいることが原因であるだろうが、彼女からは教師としての余裕は感じられなかった。焦っていたり、口ごもってしまったりなど頼りなく見えて、どうやら、他の生徒や保護者も似たような思いだったらしく、呆れるような苦笑が何度か教室に起こったりした。

 


 人は第一印象が重要であると言われる。見た目や性格など、それらは一目見て、一言交わすだけで理解してしまうのだとか。その瞬間から、好き嫌いに発展していくとかなんとか。 

 


 ちなみに私の場合は、自己紹介の時点で、根暗認定を受けているようで、前後との拍手の大きさが既に違っていた。格付けも教室の空気が行っていたようだ。

 けど、私にとってそれはどうでもいいことだった。

 


 出会ったばかりの相手にその人の評価を下されるよりも、ずっと昔に出会った人に振り向いてもらうことだけが私の在り方であると、そう思った。

 

 

 




 だからと言って、もし彼が私のことなど覚えていなくて、私のことを避けるようなことがあったら。それこそ私の想いも薔薇の学校生活も途端に灰色の塵芥に成り変わるだろう。

 


 だから私にとって、雨則に近づくということは目標でもあるが、諸刃の剣でもある。当たれば勝ち、外せば負けの博打打なのだ。

 


 家族を失った日だからこそ印象深い彼との時間。私にとってはそうだが、逆に雨則の場合はどうだろうか。少し変わった子との少し変わった出来事程度にしか考えてなかったら。そもそももう記憶から抹消されているのかもしれない。

 


 彼と擦れ違う度に目で追って、彼があの時の面影を残していることに気が付いて、その時はかなり嬉しかった。間違いなく、あの雨の日の少年であることを断定できたのだから。

 


 しかし、それ以上の進展がない。こちらが一方的に知っていて、一方的に想っていても何の進歩にならない。

 一言、ほんの一音、声をかけるだけでいいのに。初めて会った日とは反対に、私の方から声をかけさえすれば、確証はないけど、何かしら始まるのかもしれないのに。

 


 「……明日こそは、明日こそは」

 


 そう自分に言い聞かせて、気付けば………。


 










 高校二年の梅雨。相変わらず片思いを続ける私にとんでもない情報が届いた。

 


 「C級の雨則って人が夏樹ちゃんと二人でご飯食べてたって!」

 

 「雨則って、確かC級の副委員長の人でしょ?」

 

 「え!あの夏樹さんと!?」

 


 女子を中心に教室が騒めき立つ。色恋沙汰にはそれなりに興味のある私がだが、たぶん、皆の驚きより何倍も、それどころか何十倍も驚いていた。学校のアイドルなんて言われている有田夏樹って子のことじゃなく、男の方、雨則にだ。

 


 ………雨則が、女子と?

 


 「夏樹ちゃんがC級に突然来て、雨則君と屋上に行ったって」

 


 きゃーきゃーと女子特有の黄色い発狂が空間を揺らした。天変地異か何かと勘違いするような声に男子も注目の目を向ける。 

 


 「早とちりじゃない?雨則君、顔をそこそこ良いけど、夏樹さんと吊り合うようには思えないよ」

 


 ………あ゛あぁ?今なんて言った?吊り合うようには思えない、だって?彼のこと何にも知らない人に語る資格はないんだよ。 

 口では言えないから、心の中でぐつぐつと業を煮やす。


 

 「でも、そんな人とお昼なんて食べるかな?しかも二人っきりで」

 

 「夏樹ちゃん人が良いから、そうなったんじゃない?」

 

 「まあ、後から聞けばいいんじゃない?」

 


 憶測が飛び交う。意見と意見の押し付け合い。会議でもなんでもない、この昼休みとはいえこの騒々しさといえばなかった。

 結局、学校のアイドルと雨則の疑惑に対する討論会は昼休みが終わるまで続いた。

 


 ちなみにそれからほとんどの女子は有田夏樹さんの元へと押しかけていたが、彼女が腹痛ということですぐにお開きとなった。

 雨則の方も同じような状況だった。

 

 






 それからの教室棟二階は有田夏樹と北上雨則で持ち切りとなった。両名ともに交際は否定しているものの、毎日のように二人で昼食を取っていることもあって、なかなか納得する様子はなく、野次馬の如く、一つだけ離れた教室で二人を全く同じように取り囲む光景は二人が可哀そうだった。それでも頑なに否定するものだから、時間の経過と共に、少しずつ人の数も減っていき、一時の平穏が訪れた……はずだった。

 


 そう、そんな平穏の中、突然、始まる。

 切っ掛けは、ある日の放課後。私が一人、教室で読書をしていた時。

 


 雨雲に空は覆われ、今にも雨が降り出しそうな天気だった。外の方からは、部活動生の掛け声も聴こえてきたりして、吹奏楽の演奏も相まって、何とも放課後らしい雰囲気があった。

 


 そんな中、私はどこにも属していない、放課後になればすぐに帰宅できる身の上にある。しかし、学校に残って読書をしているのだから、二年前に設立された文学部にでも入部すれば今からでもそれなりに歓迎されるだろう。文化系の部活ならばそこまで力を入れてはいないという当校であるから、いつでも遅いということはないだろう。

 


 別に入る気がないのではい。ただ入りたいと思える魅力がないだけだ。読書家として文学部は願ってもない環境なのだが、私には多くの人と会話をしたり、読書をしたりして笑い合えるような絵は想い描けなかった。根っこからの根暗であると、確信を持って言える。

 


 まあ、だから今日もあとこのページを読み終えたら、帰ってゆっくりしよ――――――。

 

 

 「あ、いた」

 


 ページの半分くらいを今まさに目を通そうとして、廊下から教室へ向かって声がかかった。

 私の動きは静止する。ピタリと。

 そして、そのままの体勢で頭を捻る。 

 この教室には私以外に人はいないような。

 


 「瀬口海里さん」

 


 と、それは迷うことなきほどに私を指していて。父が死んでから変えた母の旧姓を呼んでいて。それだけでは飽き足らず名前まで呼ばれて。フルネームで自分の事を呼ばれるのは何故か緊張する。

 


 「……は、はい」

 


 声の主は教師かまたは知らない生徒か。めまぐるしい速度で一日の出来事を振り返り、そして、何も教師から召集されることもなければ、はたまた、友人の少ない私が誰かに興味を持たれることもないと受け止め、他の誰かを探していて、丁度私がいたから情報提供してほしいという意味であるという結論に至った。

 


 うん、納得。であれば、堂々と人の顔を見て、声を上げて言えばいいんだ。知りません、見ていません、って。

 私は脳内と同じ言動と取ろうと、まず余裕綽々の表情で廊下を見て。そこから……。

 


 「瀬口、海里さん、だよね」

 

 「有田夏樹……さん!?」

 


 予想外過ぎる相手に驚愕。彼女が相手であると悟った瞬間にしゅんと萎えた。これは、ダメだ。次のアクションを起こしてはダメだ。

 


 「そんなに驚くことじゃないと思うけど……って、貴女の名前間違ってた?」

 

 「……あ、い、いや、うん。大丈夫、大丈夫」

 

 

 大丈夫、私。ちゃんと話せてる。意志疎通はできてる。

 


 「そう?ならよかった。……えっと、じゃあ、私は……さっき呼んでたね」

 

 「う、うん」

 


 自分の名前を初めて話す相手に知られていると分かった有田夏樹さんは、どこか悲しそうに一瞬目を伏せた。思うところでもあるのだろうか。それとも私が傷つけるようなことを発したのか。 

 


 「だ、大丈夫?」

 

 「………っ……え、えぇ、うん。大丈夫。ありがとう」 

 


 別にそこまで心配したわけではないのに、ありがとうなんて。きっと、有田夏樹さんはいい子なんだろうな。恵まれた環境で育って、純真な心で人と接することができて、初めて対話する私にも線を引かずに感情を表してくれて、美人だけじゃないんだな、と感心してしまった。

 


 「……えと、有田さんが私に何か用かな?」

 


 けれど、長ったらしく話していられる自信もない私は本来の趣旨へと話題を戻した。閑話休題、なんて言ってみたいけど、私にはキャラ的に似合わないかもしれないから、言わないでおく。あと、普通に恥ずかしいし。

 


 「あ、そうだったね」

 


 本来の目的を忘れていた有田さんはハッと我に返ったように姿勢を正した。私よりも数センチくらい高い背丈はすらりと伸び、見事な直立を私に見せてきた。

 


 「実は、瀬口さんにお願いしたいことがあって」

 


 姿勢を崩さぬまま私に頼み事をしたいと言ってきた。

 


 「………はぁ」

 


 この時点で幾つか疑問があるが、敢えて口を開かないでおく。

 


 「別に無理だと思ったら断ってもいいから。取り敢えず、聞いて欲しいな」

 

 「……わかったわ」

 


 どのような頼み事なのかは置いといて、第一に何故、私なのか。私の頭の中は既にその疑問でびっしりに埋まっていた。

 


 「もう知ってるかもしれないけど、私とC級の北上雨則君って男子は付き合ってるって噂、あるでしょ?」

 

 「――――――――――」

 


 そう、一時期、学年中がその噂で持ち切りになった。目の前の有田夏樹と、雨則が付き合っている、という噂。本人らは否定していたのに、今になって、それも当事者自ら話題にするなんて。

 今更、自分たちから噂は嘘でした、なんて言い回っているわけないし。つまりは。

 


 「あれ、実は本当の事で……まだ公言しないでほしいのだけど」

 

 「―――――――」

 


 こう本人からの言質を貰って、現実味が増し……頭が真っ白になって。

 


 「―――――って、瀬口さん?どうしたの?」

 

 「――――――――――――――ぇ……ぁ、あ、ああ、ごめん、何だっけ?」

 


 叩き起こされたような感覚。実際には数秒にも満たないけど、数分に近いくらいの時間を私の全てを空白が埋め尽くしていたような。

 


 「私と雨則君が付き合ってって噂が本当だっていう……」

 

 「…………あっ!、ああ、うん、そうなんだ」

 


 ………そうなんだ。と、どうにか心情を外に出さず一言言い切った。次いでやってくる胸が引き裂かれそうなほどの痛み。それすらも顔に出さず。

 


 「うん、それでね。聞いてもらった上で、お願いがあって」

 

 「何かな?」

 


 痛みと苦しみと嫉妬で狂いそうになるのを必死に抑え込む。そんな乙女の表情で私を見ないでほしい。そんな恋する声音を発さないでほしい。

 


 「ある目的の為に、彼とのデート中にやってほしいことがあるの」

 

 「………デート?」

 


 デート、ね。デートかぁ。デート……デート。デート……でーと。

 思い浮かぶのは目の前の少女と手を繋いで笑い合っている彼の姿……ではなく、私と歩く彼の姿だった。夏の暑さを、秋の紅を、冬の寒さを、春の桜を、二人で、恋人として、あの時のように私を案内するように少し先を歩いて、その背中を追うように私が付いて行って。

 


 「どうかな?引き受けてくれる?貴女の了承を貰えないとそれ以上のことは話せないし。返事は明後日までならいつでも―――――」

 

 「いいよ。私やる」

 

 「……え、あ、そう」

 

 「それで、具体的に何をすればいいの?」

 


 強烈な憧憬を見てしまった以上、もう指をかじって見ていることはできそうになかった。

 そして、計画を聞かされ、最後に渡されたものは―――カメラだった。









 



 当日の夜は、まるで雨則と夏樹を祝福するかのように絢爛として美しかった。梅雨の最中であることを忘れるくらいに、空は雲一つとしてない。

 


 私は有田さんの計画に従い、来たことも、立ち寄ろうとも思えない雑木林に赴いていた。密会には最適な場所選びといったところか。不気味なくらいに静寂で、安堵するくらいに誰もいなくて。人っ子一人として存在しない、この世とは思えない場所だった。死体を隠すにはここが正解だろう。

 


 スマホの地図が指す方へ視線を這わせる。目印となる白旗が淡くスマホから外界へと次放出されるライトに映った。

 


 夜の闇だからこそ、こうも目立つのか。目印、それ以上には存在理由を感じさせない旗にはそれ以上触れずに雑木林へと足を踏み入れる。鬱陶しい蒸し暑さを肌で感じながら。借り物なのに、愛用であるかのようにカメラを首から下げながら、まだ、彼の来ていない、彼が知ることのない時間を過ごす。

 


 「………」

 


 闇よりも深い闇。暗黒。一切の光を通さない。ただ光源となるスマホの光だけが唯一世界に抗うことのできる。闇を払う。闇を消す。進む先にだけを照らし、その先に。

 


 どれくらいの時間が経ったのか。スマホで確認すれば一発であろうに、でも、私の意識はこの林の先の開かれた目的地にだけ向けられていて。

 


 「………わぁ」

 


 空気が漏れるような声を上げる。光景を目の当たりにした。

 私は雨則と有田さんより一足先に、空を見た。

 


 「綺麗」

 


 綺麗だった。でも、隣に雨則がいれば、もっと綺麗に見えるだろうな。

 


 「あは」

 


 何て美しい夢。なんて、なんて美しい理想。こんなロマンティックな夜空をバックに蕩けるくらいのキスがしたい。熱情よりも熱いキスをしたい。抱きしめて、息遣いを感じて、鼓動を感じて、瞳を合わせて、唇を合わせて、絡めて、重ね合って、痺れるくらいの愛を、溺れるくらいの愛情を、涙が出るくらいの愛を全てを、彼と私の人生の全てを。

 


 そして、これからの人生の全てを誓って、誓わせて、誓い合って、誓おう。

 


 「―――――――――――――――」

 


 …………。

 


 何考えてるんだろう、私。我に返って、全てが妄想だと自覚して、全てが想像であると悟って―――――。

 


 「君?大丈夫?」

 


 同じくここへ星々を撮影しに来ていたであろう男が心配そうに寄ってくる。

 


 「あ、はい、大丈夫です」

 

 「そう?ならいいけど」

 


 そう言って、また来た方へと戻っていく。丘の上へと昇っていく。

 


 「………さっさと準備しよう」

 


 現実に引き戻された私はただ淡々と所定の位置に就き、計画を進める。

 


 「………」

 


 あと十分もすれば二人はやってくる。有田さんの後に続いて、雨則がやってくる。そして、雨則は星と月の壮大さと美しさに目を奪われ、そこからは有田さんの考えている通りに進むのだろう。

 一発勝負の部分も勿論あるのだろうが、有田さんの美貌ならば、雨則の気を引くことは容易だろう。

 


 なんて、そう言い切れる自分が歯痒い。確信したくないけど、あの人ならやってのけそうな確証のない確信がある。

 きっと成功して、私が撮影したそれらしい写真を学校のいたる場所に貼り付けて、貼り付けて、そして、その後は知らないけど、二人は良い方向へと進んでいくのだろう。

 


 「………」

 


 どうすることもできない。どんな小賢しい手段を駆使しても、結局は先に手を着けていた方が勝つし、どんな醜い手段を講じても、結局純粋に綺麗な方が勝つし。

 そもそも戦いにすらならないのかもしれない。

 


 これが人間の常だ。別に雨則が悪いわけじゃない。

 黄金比に近しい美しさならば美しい方へと惹かれるし、じゃんけんをして負ければその時点で終わりなんだ。そこから勝ちへと覆ることなど世界の秩序に逆らうようなことは絶対にできない。

 


 そう雨則が悪いわけではない。遺伝子レベルで美しい方に魅力を感じてしまった雨則の遺伝子が悪いのだ。

 それなら仕方がない。くっきりと刻まれてしまったものを消すことなど難しいし、それが見えないところにあるのなら、なおさら難しい。

 


 バイオレンスな思考はいかんせんブラックな心であるのに加えて感情が落ち込みやすくなる夜であるから滔々と湧き出てくる。

 もうどうにもならないのだから素直に手を引けばいいのに。彼が幸せになることも私にとってはこれ以上にないくらいに幸せなことではないか。

 


 「別に悪いことじゃないのだから……」

 


 そう思い、思うことにして。

 


 「―――――――――」

 


 へばり付いた負の感情を拭い去ろうと奮闘していると……。

 


 「雨則君にこれを見せたくて」

 


 聞き覚えのある声。感情の浮き沈みが声に乗せて心地よく伝わってくる。発音が綺麗で、一音一音が鈴のように聞き取れて。

 ああ、これが有田夏樹なんだな、と。

 


 「………うん、凄く綺麗だね。星も月も……」

 


 今度は雨則の声。よく顔は見えないけど、これ以上ないくらいに感動しているのだろう。有田さんを見つめて、星と月を見つめて、何を感じているのだろう。

 二人の時はゆっくりと流れ、至福の領域が形成され、このまま流れに乗せて愛を語り合おうとして。

 


 「……ねえ、雨則君」

 

 「……なに?」

 

 「耳、貸して」

 

 

 その時がやってきた。

 構えていたカメラは空ではなく、二人を映りこませて。

 


 「え?」

 


 雨則が有田さんと至近距離で見つめ合い。

 


 「今」

 


 シャッターを切った。

 力強く押されたそれは激しく瞬き、絵のような一枚を描き出した。

 


 「―――――――――――――」

 


 美しかった。神々しいとさえ思えた。敏腕なカメラマンが撮っても同じものはできないだろうなと断言できるくらいに、いっそこの一枚で世界取れそうなくらいに、つまり、人に見せるのにはこれ以上になくピッタリな一枚が保存された。

 


 それから二人は別れるように雑木林へと消えていった。有田さんが振って雨則を置いて帰ったような、無論、それも計画の内であるのだが、傍から見ればそんなふうに見えるのだから、本当にそうなのではないかと。

 


 「帰ろ」

 


 ……淡い期待をする方が帰って落ち込むから、潔く私も次の行動に移るとしよう。

 二人と出くわさないように注意を払いながら星見る丘から退散した。少しだけ、煌めきから目を反らすのは名残惜しいと思った。


 





 その日の午後九時半。見回りの教師と数人の事務員のみの校舎に侵入するのはそこまで難しくはなかった。こんな時間まで働いているのかと、理想の公務員像とはかけ離れた過重労働に軽く恐怖した。

 


 二階に上がれば、暗闇と無人が支配していた。生徒が学習することを主とした設備の配置や配慮のお陰で学校側の機密的な書類などを保管するような部屋はない。そのため、教師陣や見回りがここへ来ることはまずない。

 


 しかし。

 目的の教室が開いているかと訊かれたら……。

試しに目の前の教室のドアを開けてみる。

 


 「…………よし、開いてる」

 


 どうやらまだここまで見回りの手は行き届いてないみたいだ。

 ならば……それからは早かった。

 


 忍び足で教卓まで物音を立てぬよう気を遣って歩く。

 先にコンビニで複製しておいた写真を黒板に貼り付け。

 


 「………一つ目」

 


 これが何になるのか。本当に有田さんの計画は雨則の為になるのか。疑心暗鬼になる。こうして実行に移してみて、良き未来へと進むビジョンが、見えない。

 


 「………」

 


 不安要素は指では数えきれないほどあり、それでも有田さんの頼みを引き受けてしまった以上、ここまで来てしまった以上、もう引き返すことはできない。

 


 ……分からなくなっていた。

 何が正しいのかが。このまま続行するか、止めて家に帰るか。有田さんの計画は本当に正しいのか、間違っているのか。

 


 月明かりが教室に入ってくる。淡く綺麗で、明るく、私を映し出し。黒板に貼られた写真も光に照らされて、見えて。

 


 「………」

 


 踵を返す。

 次の教室に向かう。

 


 頭が麻痺してしまっているのだろう。

 興奮を通り過ぎて、冷静になっていた。

 嫉妬、幸せ、悲しさ、美しさ、苦しさ……多種の感情を短時間の内に思ってしまったが故のパンク。

 


 冷静であって、全然冷静なんかじゃない。

 自分が何をやっているのか、後先なんて難しいことはどうでもよくて。

 


 「―――――――――雨則の為なら」

 


 そう、雨則の為ならば。

 彼が幸せになるのなら。

 


 「………二つ目」

 


 彼が幸せになるための行いはきっと正しいことなんだ。


 





 


 夜が明け、目を醒まして、「あれ、家にいる」と、自覚した。

 服装は昨夜のまま。たぶん、あれから帰宅してすぐ眠ってしまったのだろう。

 


 頭がボーとしている。思考が定まらない。思考回路は断線して繋げようにも、それすらも拒否してしまう私がいる。

 


 たぶん、考えたくないのだろう。辛いことを考えたくないのだろう。

 それでも、私は学生として、学校に行かなければ。

 


 「海里ちゃん、仕事行ってきますね」

 


 ドアの向こうから母の声が聞こえた。

 


 「いってらっしゃい」

 


 そう返して、玄関を開ける音と共に、私も部屋から出た。朝はじめじめとした暑さのわりに朝日はこれっぽっちも入ってこなかった。でも、鬱陶しいくらいに暑かった。

食卓には焼けていないパンが一枚皿の上に置かれている。パンだけは冷え切っていた。冷房すら点けていない部屋の中で唯一冷たいと感じられるものだった。 

 



 朝食を済ませ、シャワーを浴びて、制服に着替えて、家を出る。

 家の中よりは涼しさを感じた。建物に日を遮られているからなのだろうけど。

 足早に登校する。 

 実はこれっぽっちも余裕なんかない。ホームルームまでの時間は差し迫っている。

 定刻までのカウントダウンはない余裕すらも奪っていく。。

 


 「………」

 


 通りを抜け、普段通りの朝道を歩き。 

 肌を伝う汗。顔、首、鎖骨、胸の谷間、お腹……体に隈なく跡を残しながら落ちていく。

 


 「…………っ!」

 


 頭痛。軋むような痛み。昨夜の分のツケだろうか。酷使した脳は痛みを伴って私を苛んできて。

 


 「―――――――――」

 


 フラッシュバック。日光に当てられて、数時間の記憶が一瞬に凝縮されて、映像となって上映された。

 


 「―――――――」

 


 …………、そして、ようやっと昨晩の全てを思い出し。

 


 「――――――――――――」

 


 ………私は、何をやって。

 ガンガンと頭痛が増す。ドクドクと血流が慌ただしく脈を流れる。ドクンドクンと心臓がこれ以上にないくらいに鳴っている。

 


 「――――――――――――雨則っ」

 


 そして、浮かんだただ一人の名前を呼び、背中を押されるように、走り出す。

 果てしない空の下、果てしない生命を感じ、果てしない世界の一点で、私は走る。

 自分でも驚くほどのスピード。目まぐるしく景色が変わる。

 


 肺が酸素を欲し、足が悲鳴を上げ、それでも……走る。

 汗が流れ、汗が飛び散り、汗が目に入り、汗が全身を駆け巡る。

 地に足を着け、前傾姿勢で朝を走る。

 


 ついに校舎が見えてきた。ちらほらと生徒の姿が見えてきた。

 それでみ止まらず、坂道を走る。

 校門を駆け抜け、校舎に入り、スリッパに履き替え、階段を一段飛ばしで上がって、C級に向かい。

 


 異常なまでの静寂を耳にして。

 次の瞬間。



 「………ぁ、夏樹」

 


 雨則の声。焦燥と恐怖を纏った、声。

 


 「――――――――あ、おい!雨則!」

 


 雨則を呼ぶ、男子の声。

 しかし、雨則は逃げるように教室を出て、私の目の前を通り過ぎ、隣の、有田さんのいる教室へと入っていった。

 


 「夏樹!」


 「夏樹」  

 

 「…………」


 「夏樹」

 

 「…………」

 

 「夏樹!」

 

 「…………」

 

 「何で、こっち向けよ。話せよ」

 

 「…………」

 


 雨則が捲し立てるように声を荒げているのが聞こえる。



 「これで、誰の目も気にしないで一緒にいられるでしょ?」



 そして、有田さんの声。冷静沈着がお似合いなくらいに落ち着いて、いつもの声音で。

  

 

 「だって悩んでたじゃん雨則君。私達付き合ってるって学校の人にバレたら困るって。だから、こうしてこっちからバラした方が手っ取り早いじゃん」


 

 ………あ。

 そういうこと。そういうことの為に、そういうことの為だけに、有田さんは、私は……。

 


 「―――――――――――――――」

 


 これから起きることが目に見えて分かる。

 そうなったら、雨則は。

 


 ――――――――――――――雨則。

 

 


 


 あれから予想通り雨則と有田さんは孤立した。特に雨則は酷かった。確認するところだと、クラスメイトからは無視され、陰口を叩かれるようになり、彼のありもしない噂を持ち上げたり、私のクラスも同じような状況だった。 

 


 逆に有田さんは、庇護されるようになり、事の全てを雨則の仕業であると結論付けた。全くもって全然違うのに、でも、当の有田さんは沈黙に徹し、真実は闇の中だった。かくいう私も知っている癖に何も言えなかったのだから同罪だろう。

 


 しかし、私はこの怒りに耐えられないでいた。雨則の為であると思っての行動がこうして彼にとって最悪な結果として終わったことが。

 それを招いた有田さんと、私に、猛烈な憤りを覚えていた。 

 


 時間が経つにつれ鎮火するどころか、更にその熱度を上げていく彼への誹謗中傷。

 ………もう、限界だった。

 

 








 今日も屋上で一人なのだろう。

 階段を上がる。 

 

 

 覚悟なんて大それたものは持っちゃいないけど。

 階段を上がる。

 


 ことの原因がしていいようなことではないけど。

 階段を上がる。

 


 あの日の、雨の日の。

 階段を上がる。

 


 彼と、入学式で呼ばれた彼の名前と、久しぶりに見た彼の顔を。

 階段を上がる。

 


 私の想いを。私の恋を。

 階段を上がる。

 


 あの、夜空を。

 階段を上がる。

 


 ―――――――全てを無にすることが、最悪な結末にすることだけは、私にはできない。

 階段を上がる。

 

 階段を上がる。

 

 そして。



 「あ……いた。雨則……」

 

 


 これは私の始まり。

 屋上の、再会。 

 屋上のエピグラフ。


ありがとごうざいました。

ブクマ、評価よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ