20 恋文のエピグラフ
今回は夏樹の過去話です。
ただ、今回の場合は、前篇プロローグの前日の話になります。
「雨則」
「……雨則」
丘の麓からこちらに向かってくる知音と、海里が見えた。二人とも僕を見据えて、僕の名前を呼んでいる。
「………」
もう逃げられないところまで来てしまったと、この時、悟った。そんなことずっと前から分かっていたのに。こうして、目の当たりにしてみて、改めて自身の犯した罪の重さを理解した。それほどまでの想いを胸の内に秘めて、三人はここに来たのだろう。それは、僕も全くもって同じであるが。
「九時四十八分、ちょっと予定より早いわね」
半歩ほど後ろにいる夏樹が自身のスマホを確認しながら呆れるように丘を昇る二人へ言った。付き合っている頃には見たことも聴いたこともない敵意を剥きだしにした声音。
「全く、十分も早く集合するなんて。人間としてできているわね全員。……というか、雨則君のこと、そんなに好きなの?」
僕と同時刻に来た夏樹が言う台詞ではない。そうツッコミたくなる気持ちをどうにか抑え、もうすぐ僕と同じ高さまで来る二人を見る。
「………おはよう、雨則」
まだあと少し届いていない程のところで海里が僕に微笑みを向けてきた。そう……いつもの登下校の時のあの。
「――――――っ」
くらり、と軽い貧血に襲われた。そして、走馬灯、あるいはフラッシュバックのような、目の前の海里と並び歩く海里が重なって見えた。ぼやける視界は同じ彼女であり、違う彼女を時に重ね、時に分身させてくる。だんだんとどちらが本物か見分けが付かなくなってくる。それくらいに、目の前の海里はいつもの海里だった。
「寒くない?大丈夫?今日はちゃんと厚着だね。マフラーも手袋も……でも、それでも耐えられそうになかったら言ってね。私があっためてあげるから」
なんて恥ずかしいことをこの状況で言ってのけるから、肝が据わっているというか……どんな神経してるんだよ。
「……あぁ、いや、大丈夫だよ。大丈夫」
「そ、ならよかった」
海里の瞳は僕を射抜くように見つめてきている。対照的に僕は海里の顔には目が行くのだが、目を合わせることができないでいた。顔を背けるごとにちらりと僕をガン見する彼女を瞳が見えてくる。
「………」
右往左往と、視線を泳がせ、視点を変え、顔を動かす。自分が一番楽になれる方向を探して。何もない雑木林を見て、面白みのない雪景色を見て、自分の靴を見て、見て、見て、見て、それでも、どこにも僕を安息させてくれる場所も方向もなかった。
「はぁ」
そんなことをしていると、海里の隣の方からあからさまに落胆の意を含んだ嘆息が白息と共に漏れたのが聞こえた。
「あのさ、こんな寒い場所に呼び出しておいて、何一つ進展なしってことになったら、有田夏樹、あんた只じゃ置かないからね。……早く、進行してくれない?このままだと全員氷結してあの世行きよ?」
苛立たし気に知音は夏樹を睨んだ。僕が知音に告白した日となんら遜色のない激情を伴っているのが分かる。
「分かってるよ。……短気だなぁ」
「………あ?」
夏樹、本音が漏れてるぞ。まだ本題にも入っていないというのに、さっきから冷や汗が頬を伝うのを止めない。いつ誰が爆発して、誰かに掴みかかってもおかしくない、そんな一触即発の状況が繰り広げられている。このままじゃ、話が終わるころには僕はボロボロになっているかもしれない。可能性だけど、十分に、いや十二分にあり得ることだ。
「ほらほら心頭滅却、心頭滅却。息を吸って吐いて、落ち着いて、リラックスしていこ?ストレス溜まって、血圧上がって……もう目も当てられない大人になっても知らないよ」
「……滅茶苦茶煽るじゃん」
これには僕も思わず心の声が外に出てしまうほどに純粋に、誠心誠意、煽っていた。
「……ルックスとスタイルがいいからって……喧嘩売ってるの?」
当然、焚きつけられた知音は、敵愾心をメラメラと燃やしながらドスの利いた低い声で返した。
早くも一悶着ありそうな雰囲気。女と女のリアルファイト、観戦者は僕と海里の寂しい乱闘が始まりそうだ。
………そんなことしてたら余計、本題から外れるだろう。
「……ちょい二人とも、ストップ、ストップ。ここへは何しに来たんだよ」
「………」
「………ちっ」
僕の呼びかけに矛を収める二人。聞き分けが良くて助かった、が。
「………ふん」
「………」
今度は冷戦が勃発していた。直接的なものよりも性質が悪い。ただ、今回の場合、知音の申し分が正しいというか、実際僕以外そうなのだろうから。
「確かに寒いな。……ってことで、夏樹、初めて貰っていいか?」
「……えぇ、雨則君、白雨さんの味方するのー?」
冗談交じりに夏樹が僕の方を見てきた。自身がどんな顔をしているのかは分からなかったが、みるみるうちに彼女は無の表情になっていく。
対して知音はというと。
「………ふっ」
鼻で笑った。明らかに馬鹿にしているようだった。
「………ごめん、雨則君。ちょっと時間頂戴」
「………抑えてくれ」
別に寒いから言っているのではない。ただ、彼女二人の争いが僕と海里に飛び火してしまう危険性を見越してのことだ。こんなところでこの歳にもなって大乱闘をしたくはない。
「命拾いしたね」
「そっちこそ」
まじでこの二人を一緒にしてはならないと心から思った。二人きりにすれば場所を選ばず殴り合いをしているだろうな。
こうして僕の仲介の元、どうにか場は冷静を取り戻した。
静寂の丘。今しがたの騒ぎなど嘘であるかのように皆沈黙を保っている。気まずい状況、誰から切り出すか、不安になる……こともなく。ゴホン、と夏樹がわざと咳をした。それは状況を変えるのには容易く、僕を含めた全員が彼女を意識した。
「じゃあ始めようか。私としては不本意だけど。雨則君の頼みとあっちゃぁね」
「いちいち本音口に出さないで」
また始まったら、今度こそ止められないかもしれない。だから、少々語気を強めにして言った。
「……ごめんね、雨則君。その、怒らないで、ね?………それじゃあ本題に入りましょうか」
本気で動揺しながら、慌てて口調を戻した。そこまで怒っていたつもりではないのだけど。普段の高嶺の華的存在である彼女のイメージからして、その姿はあまりにも別人のようだった。か弱い小動物のような、男の女の身体的な差に怯えるような、僕の夏樹への印象が様変わりするほどに弱く、小さい、女の子のように見えた。
「……いや、あ、うん」
見知った夏樹とのギャップにまるで自分が悪いことをしたみたく沈んでしまう僕がいた。同時に襲ってくるのは罪悪感。そもそも僕の罪を追求するための集まりなのに、僕が懺悔する場所なのに、どうして高圧的な態度を取るような真似をしているのか。
「まずは………雨則君と白雨さんの関係を――――」
「有田夏樹、先に貴女達のことを話して」
「………わかったわ」
命令されることへの怒りを呑み込む数秒の沈黙の後、先に少数への理解の擦り合わせを行う方が効率がいいという知音の意見に賛同し、一拍置いた。どう話すか筋道を立てているのだろう。
「……まあ、時系列に沿って行くのが定石よね」
「それでお願いするわ」
知音からの了承を貰った夏樹は、最後に僕と海里に一瞥して、遠い夏へと瞳を向けた。現実では当然、雪景色なのだけど、彼女が見ている場所はきっと違うのだろう。海馬に植え付いた夏の記憶。……彼女の、夏樹の届かなかった夏。
彼女は古い鏡を見ているかのように、みるみる夏の頃の微笑に変わって。
「―――――あれは梅雨の真っただ中の頃」
ゆっくりと紡ぎ始めた。
「……やった!できた……」
私は汗ばんだ手をタオルで拭きながら、まるでプレゼントを貰った子供のように燥いだ。机の上にはボールペンと、一枚の紙が置かれている。濃ゆめの黒で書かれた文章はママも驚くくらいに達筆で、私としても誇らしい気持ちになった。
「北上、雨則……君」
宛名と同じ姓名。何を隠そう、私が書いていたのはラブレターだ。正真正銘、本物の恋文。密かな想いを告げる手段の一つ。今時遅れているだろうけどメールで伝えるよりも、こうして手紙を書いて、口で伝える方が気持ちの大きさは伝わるだろう。
さて、現在は午前三時。丑三つ時も過ぎ去ったこの時間。すぐに寝ても明日に差し支えるのは確実だろう。
でも、どうにも今日は眠れそうにない。
だって。
「明日のことが気になり過ぎて…………もう、どうしたらいいの」
散らばっている失敗した紙をどけて机に突っ伏す。肱元にはママに淹れてもらったコーヒーの入ったマグカップが静かに置かれている。もう湯気は立っていない。
「ちゃんとオッケーして貰えるかな?……もしかして今日、誰かからか告白されてないよね」
情報収集は漫勉にしてきた。目立った女性関係はないという事実もとうに知っている。
それでも。
「……雨則君のこと狙ってるって子多いみたいだし」
そう、告白相手の男子、雨則君は結構モテてるみたいなのだ。直に告白したなんて人はいないみたいだが、聞いた話では十人近い女子が狙っているみたいだ。上級生や下級生もその中には含まれているらしい。
「下級生はともかく、先輩は……それも女子バレーの主将だし」
一番の強敵は彼女だろう。私が告白したと知れば仕掛けてくるかもしれない。あの人、男子からの人気も高いし。無理にでも動かれればそれなりに脅威になるだろう。
――――――まあ、でも。
「大丈夫」
強敵というだけで、脅威というだけで、私の敵ではない。私の立場であれば、問題ない。
そう不安要素は限りなく少ない。のだが、そんな限りなく少ない不安要素が私にとってはあまりにも大きい。
こんな経験が少ない私には、まず、どのように彼に接していいのかもわからない。手紙については雨則君のクラスの友達に渡して、それとなく彼の目につくところに入れておけと命令すればいいだろう。
しかし、つまるところ、私が問題として提議しているのは、彼に手紙を読んでもらって体育館裏に来た後だ。
告白なんてことをこれまでの人生で一度たりともした経験がないため、何を話せばいいのか、何を言えばいいのか、それが分からない。友人たちの教えであったり、動画を参考にすれば。
曰く、女としての魅力を最大限に発揮すること。
曰く、長々しく喋らずに要点をまとめて伝えること。
曰く、断られそうになったら無理矢理にでも既成事実をつくる。
と。理解できる内容だった。下一つを除けば。最後のはどう見ても上級者向けではなかろうか。他二つが霞むくらいに強烈な印象を残すものだった。
ただ、正直なところ、これくらいしても私としては一向に構わない。言い換えればそれくらいの覚悟はあるということだ。
当たって砕けろ。その前に、篭絡しろ。押せ、引くな。
そんな格言を胸に身体を起こし、ベッドにダイブした。
「………」
ベッドから見える外の景色。ほとんど空だけしか見えないけど、車なんかの往来は聴こえてくる。こんな時間でも世界は回っている。忙しなく動き回っている。何だか不思議な気持ちになった。毎日のように見ている世界だけど、時間を変えて見るだけでこんなにも変わるものなのか、と。
俯瞰して見る人の営み。俯瞰される私。
幾千もの時間があって、そのうちの何人が明日、誰かに愛を告げるのだろうか。
「……届くかな」
ぽつりと呟く。
幾千、幾万、幾億の時間があって、同じ数だけ人がいて。その中のたった一人、彼には。
「私の恋は、届くかな」
そう、夜に願う。
まだ結末の分かっていない時間の話。全てが始まる前の話。それは、恋する少女の夜の話。
「――――――――」
有田夏樹のエピグラフ。
そして、そこから続く雨則との日々を夏樹は話した。
「………」
夏樹は静かに物語を終わらせた。あの日、ここで月と星々を見た記憶までの全てを。それは、僕としては忘れられない、忘れてはならない、記憶の一端。
そして、夏の物語の破滅への序章だった。
「私はこれで終わりよ」
知音を見た。記憶から戻った夏樹はまだあの頃に浸っているようで、ほんのりと桜色に頬を染めている。
「…………そう。それが、雨則と貴女が付き合っていた頃の話ね」
知音は夏樹が語っている間、一度も口を開かなかった。突っ込むことも口を挟むこともせず、ただ無言で夏樹の話を聞いていた。
「ここまで聞いたら、付き合っている相手が有田夏樹でないことの意味が分からないわ。……まあ、その先は、彼女が話してくれるのよね」
知音が次は海里を見た。
「貴女がどのようにして、雨則を手に入れたのか。聞かせて貰おうじゃない」
「……私の話はちょっと長いよ」
「……」
海里は、夏樹と知音に僕との関係の長さを言葉の中に隠して言った。たぶん、二人とも理解しているだろう。
「………構わないわ」
知音が夏樹の代わりに告げた。
「わかった」
海里は黒髪を触りながら、物語の続きを語り始めた。
夏樹が雨則を好きになった理由に関してはもうちょっと先で明らかになります。




