19 約束を果たしに約束の場所へ
ようやっと中篇もクライマックスです。
目を開ければ外は明るみ、車の往来や犬の散歩をする人が見てとれた。いつ朝になったのか、いつ夜が明けたのか。はたまた、いつ寝たのかさえも覚えていない。ただ、目を開ければ時が経過していて、そして、自分が寝ていたという事実を初めて知る切っ掛けとなった。
雪月花。嗚呼、雪月花。まさに冬の光景が、季節を際立たせる雪の情景が僕の閉ざされたままの視界を広げてくれた。
粒雪が降り、アスファルトを真白に染めている。
「………てか、暖房点けっ放しだったんだ」
いつもより暖かいと思ったら。電気代大丈夫かな。一銭として支払っていない僕には、月々の平均がどれほどかは知らないが、実家が窮屈しないか不安になる。
最悪の場合、強制退去にでもなったら本当に申し訳ないし、人生破滅ルートへまっしぐらだ。ご近所さん方からの視線であったり、あらぬ噂を囁かれたりでもしたら、おちおち外へも出歩けない。なんて可能性の問題を深堀していっても気分が落ちていくだけだ。話題を変えなければ。
取り敢えず顔でも洗おうか。僕は、浴室へと向かう。洗面台の前に立って、滝のような水を流し、そして、鏡を見て。
「………」
ほんのちょっぴり赤みの乗った片頬が映った。昨日、雄吾に殴られた跡がこうして残っていた。触れれば残り跡と同じくらいの痛みが走った。ズキリとかチクリではなく、しこりのような、その程度の違和感だけ。無意識であればそんな違和感すらも感じないくらいに、外的な痛みは消えていた。
しかし、内的なものは真反対な異義であり、見えないどこかに色濃く根を残している。
「……いてぇな、まじで……」
雄吾に殴られ、諭された記憶。
痛かった、でも、それよりも大事なことを気付かされた。いや、本当は最善策は分かっていた。でも、仮だけど、こうして覚悟を決めることができた。自分一人では決めかね、下手したらまた逃げていたかもしれない、目を背けていたかもしれないことに立ち向かうことができるようになった。
全部、雄吾のお陰だ。件とは全く全然関係のない雄吾が勝手に首を突っ込んできただけとも取れるかもしれないけど、こうして、彼の言葉と拳によって終結へと導けるだけの自信をくれた。結末がどのようになるのかは神のみぞが知ることであるが、でも約束は守ることができる。
逃げない。全てを話す。そして、けじめをつける。
現状にようやく進展の兆しが見える。
水を顔に叩きつけ、僕は気を引き締めた。
浴室から出た時刻は午前八時過ぎ。約束の刻限まで後、二時間ない。
直に時間として告げられることによって、一層高まる不安や緊張。
まるで場慣れしていないプレゼンの直前のような、不安と焦りの絶頂期にいる。しかし、こんなところでこれほどにびびっていたら、あの場所へと向かう途中はもっと辛いはずだ。
落ち着け、落ち着け。掌に「人」の字を書いて食べる。迷信で気休めな自己暗示が唯一の頼りだ。
「………ふうぅぅ」
換気のしていない、空気の悪い部屋で深呼吸する。しかしいつからか胎動した心臓の高鳴りは止まらない。ドクドクドク、ときつめの運動後を思わせる心拍数。
どれだけ覚悟を決めたとしても怖いものは怖い。戦いの最前線へと赴く時の光の見えない限りない絶望を前にしても足を踏み出す兵士はどうしてあんなにも勇気があったのか。
「……」
何かしていないと落ち着かない。何か身体を動かして、思考を都合の悪い方向へと向かせないようにしないと。
即座に思いつくのはテレビの視聴かゲーム、読書くらい。……正直、どれも身に入るとは思えない。まともに集中できないだろうし、たぶん頭の中は二時間後のことで埋め尽くされそうだし。気を紛らわすことがこれほどに難しいとは。
そもそも大好きなゲームをする気が起きないという時点でどうにかなっているのは明白だ。
「……むぅぅ……」
思案する。思案しないように思案する。
念仏でも唱えようとするように「むむむ」と声を出しながら。そんなこんな、頭に全リソースを割きながら、長く苦しい時間を耐えた。
部屋を出た。いつものようにエレベーターでエントランスに降り、そのまま外へ。
「………」
相も変わらずの寒さを感じさせる白の世界だが、やはり、こちらも相変わらず何も感じない。
「……行くか」
ただ、今そんなことを気にしている余裕なんて一欠片も塵一つもない。別に時間が差し迫っているとか、そんな切羽詰まった状況ではない。十分時間はあるし、なんならどこかで食事をして行っても余裕で間に合うまである。
しかし、我慢の限界だったというか、あのまま部屋の中に居たら頭がおかしくなってしまいそうだったから、自分の意思が変わる前に向かっておこうと考えたわけだ。
ナビがなくとも、行き方は頭の中に残っている。
負けそうになる気持ちを雄吾の拳から貰った痛みで押し留める。あの痛みがあったから僕は今、歩こうとしている。
闇に覆われた世界で、灯すらない世界で、それでも進むことができる。
「……逃げないって、決めただろ」
………皆が待ってる。
責任を果たせ、義務を全うしろ、約束を違えるな、彼女らの想いを無碍にするな、男を見せろ……けじめをつけろ。
人生の試練。人間、生き続ければ必ず訪れる神からの与えられた挑戦。それは、あらゆる因果を巻き込みながら、その人の元へとやってくる。
そして、今、その時が、来たのだ。
……行こう。
確かに足音がした。
「―――――――」
雪を踏む足音だけが耳元でする。
「―――――――」
吐く息の白さだけが宙へ昇っていく。
「―――――――」
一面、白の景色が目に見える。
「―――――――」
暖かい。いや、熱い。身体の中が沸騰しているみたいに熱い。
「―――――――」
マフラーが、手袋が暑い。何故、着けて来たのか、わからない。
「―――――――」
そんな中、目指すはただ約束の場所。
「―――――――」
目指すは、皆が待つ、約定の地。
「―――――――」
目で見て、耳で聞いて、鼻で臭って、口で味を知って、手で触れて、僕の体は僕のものではないように思える。五感は外からのもので感じる。逆もまた然り。永久機関にはなれない、世界と干渉しながら生きていかなくてはならない。
そのことを歩いて、ふと考えてみて、そして、気付いた。
「―――――――」
ふさ、ふさ、と踏みしめる度に音が鳴る。この辺りは他よりも高く雪が積もっている。木々にはイルミネーションや飾り付けが施されていて、新年の前に訪れるクリスマスの活気が頭に過る。夜になれば星よりも綺麗に輝いて、月よりも明るく灯して、男女はその美しさに囲まれながら歩くのだろう。手を取り合って、まるで城の王と女王のように。
「―――――――」
林の中を記憶を手繰り、歩く。あの日、あの夏、夏樹の背中を追いながら、歩いた道。
たぶん、当時と同じ道のりをなぞることはできないけど。
「―――――――」
それなりの時間を乏しい光の中を進み、そして。
「―――――――」
その先に、光を見た。
「――――――ぁ」
息が漏れる。
林を抜けたことに対する安堵か、これから先のことに対する恐怖故か。
それでも、もう、足は止まることなく、光の先へ、先へ。
その先に。
――――――――空に近い丘がある広場に出た。
「………ぁ」
厚い雲に覆われた――――――星々の瞬きが綺麗だった。
雪が積もっていた――――――豊かな緑が咲き乱れていた。
隣を見れば、――――――――浴衣姿の夏樹がいて。
「―――――夏樹」
「……うん」
革のコートに身を包んだ夏樹と目が合った。
「途中で、雨則君の背中が見えてね」
「そうなんだ」
「なんか夏とは逆だね」
「そうだね」
「あの時は、私が先導して、君が後ろをついてきて」
「うん」
「一杯の星を見て」
「……うん」
「手を繋いで」
「………うん」
「綺麗、だったよね」
「………」
「覚えてる?あの日のこと」
「…………うん」
忘れるはずない。忘れてはいけない。忘れることはできない。
それは、きっと夏樹にとっても僕にとっても、一瞬のかけがえのない時間だったから。
「――――昇ろうか」
夏樹はそう言って丘を昇り出す。どんどん空に近づいていく。
「………」
僕も従って歩く。どんどん空が近づいてくる。
頂上。遅れて、夏樹の隣、から一歩分くらい後ろに立つ。それが、今、僕と夏樹の距離だった。
「この季節でも星空は綺麗なのかな」
「……どうだろ」
わからないけど、たぶん、綺麗なんじゃないだろうか。斜め後ろから見える夏樹の横顔、夏よりも大人っぽくて、綺麗になっていた。そんな感じで、冬の眺めは、夏よりも、もっとずっと綺麗だろう。
「―――――――」
「……寒いね」
「……そうだね」
「ここを選んだの、ちょっと後悔してる」
「………そうなんだ」
たぶん、この後悔にはいろんな気持ちが籠められているんだな、と、そう思った。
人気のない林道。くるくると飾り付けがなされている。
私はメールに送られてきた地図を参考にここまでやってきた。
「有田夏樹、こんな寒い所に呼び出すなんて」
溜息が出る。ここ最近、溜息ばっかりの自分。その所為か、どんどん不幸になって行ってる気がする。自分が世界の誰よりも不幸であるかのように思えてくるくらいに。そんなの少し考えれば絶対にあり得ないのに。誰かに優しくしてもらいたい、自分は完全な被害者である、と言って励ましてもらいたい。慰めてもらいたい。
「……そんな、我儘な考え、もっちゃいけないのかな」
当然、誰からも返事はない。
でも、その代わり、私と同じような足音がこちらに向かってきた。つまりは人。この時期、この時間帯にここまでやってくるような人と言えば。
「………」
目が合った。見たことのない顔だった。人目で有田夏樹ではないと確信した。
と、いうことは。
「瀬口海里さん?」
「………白雨知音さん?」
どうやら向こうも同じようなことを考えていたらしい。私は彼女の顔や声は知らなかったのだが、相手はどうなのか。
「………」
「………」
当然、沈黙する。ここにいるということは、つまり雨則を中心としたいざこざの中心人物であるのだから。ある意味、敵である者同士なのだから、こうもなる。
「………一緒に行かない?」
海里さんはすぐに視線を切って、林の中へと促してくる。一人では怖くても、二人でなら安心、それは、敵という立場にあっても揺るぎようのない事実であった。
「………分かった」
光の乏しい林の中へと消えていく海里さん。待ってくれはしないようだ。
「………」
私も慌てて後を追う。
あの日の有田夏樹の口ぶりからして、海里さんも約束の場所へは初めて行くのだろうが、それにしては確かな足取りを残している。芯が根太いのか、ただ行き当たりばったりに進んでいるのか。その答えは定かではないが、妙な安心感が私にも伝わってくる。
「海里さん」
「……なに?」
「ここへ来るのは初めてなの?」
「………」
前だけを見て、進む。無視されたのか。呼びかけには反応したのに、何だかムカつくな。
「初めてでは、ない、わ」
「……そうなんだ」
彼女の声はどこか含みがあった。何かあったのは明確だろう。
「どうして?」
今度は海里さんから問いかけてくる。やはり、私の方を向かず。
「なんだか、歩き慣れてる気がして」
「………」
「まあ、別にどうってことないけど」
「………」
こんな根暗そうな女が雨則の彼女だっていうの?……まあ、そんな子に限って何やってるか分からないのよね。他の男も誑かしているんじゃないでしょうね。
そんなことを考えながら終始、ペースも状況も変わらぬまま、林を出た。
「――――――――」
さっきまで林を歩いてきたとは思えないほどの開かれた場所へ出た。
高く聳える丘。一面に広がる広大な空。その狭間に。
「――――――――ぁ」
彼等はいた。
二人、空を見上げていた。仲睦まじそうに。まるで永遠を誓い合ったパートナーのように。永久の時を生きてきたかのように。
その姿は、あまりにも印象的に、衝撃的に、心に残った。
あまりにもお似合い過ぎた。神が二人を選んだかのような、そう思えてしまうほどに、美しく、絵になった。
ふと視線を下ろせば、海里さんも同じように二人の方を見ていて。
たぶん、同じことを考えているのだろう、と思った。
そうなればなおさら。こんな光景を見せつけられたら尚更、雨則と有田夏樹の関係が気になってくる。一体、何があったのか。
美しい少女と、私の色眼鏡の入った少年。
そして、同じ高さで見上げる少女。
彼等三人が紡いできた、日々。
「………っ」
こうして約束は果たされる。
雪の丘。灰色に塗りつぶされた空の狭間で。
ありがとうございました。




