16 パレットを落とす雨
嘔吐します。
「…………」
目が覚めた時は既に部屋は闇夜に染まっていた。眠ってしまっていたのか。ゆっくりと上体を起こしてみる。質感からしてベッドの上であろう柔らかさを手に感じながら立ち上がる。僕の体重という重しがなくなったベッドは陥没から這い上がるように本来の形へ戻る。そして、水平よりは凹凸のある、使用者のいないベッドが完成した。
「…………ん、ぁ」
手探りで電気を付ける。一瞬、目が眩んだがすぐに慣れる。そこは自室。内装に変化なし。あるべき場所に家具があり、予想通りの場所に鞄が放り投げられている。
「時間………十一時………何時間寝てたんだろう、僕」
曖昧で靄のかかった記憶を手繰る。
確か、四時過ぎに家に帰ってきて、数十分ぼーとして………。そこから先がない。道が途切れているみたいに断絶してしまっている。つまり、それ以降は夢の中ってわけだ。
「制服着っぱなしだし、風呂入らなきゃ……あとご飯……はどうしよ」
冷蔵庫の中身は空っぽだ。シュレディンガーの猫理論すらも通用しない。そもそも猫を入れていないのだから中身がないのも当然だ。
取り敢えず食事は後にして風呂に入ることにする。一日分の汚れが蓄積されたままの状態でもうひと眠りしようとは考えられない。
「今年は全然湯には浸からなかったなぁ。……汚いかなぁ、流石に」
寒さを感じなくなった体質になってからというもの、暖かさを付加させるようなことは極力しなくなっていた。例えば、暖房。例えば、防寒具。勿論、人の目は優先するが、一人になれば他人の迷惑にはならない。
お風呂も入るのが嫌いであるというわけではないし、入ろうと思えば喜んで入るのだが、なんせ湯を張るのが面倒臭い。実家にいた頃は親が入れてくれていたから毎日浸かっていたのだが、一人暮らしになった今では蛇口を捻ることすら億劫になる。シャワーだけでもすっきりするから己が本能を優先する形をとっている。
浴室中にシャワーの音が鳴る。空のバスタブに豪雨の如く水が弾ける。槍の雨が降り注ぎ、いつか穴でも開きそうな不安があった。
十数分後。時刻を見れば十一時二十分近く、バスタオルを肩にかけて下着一枚着て浴室を出た僕は、また眠くなるまでの間、テレビのチャンネル漁りをすることにした。
深夜アニメを観るのが正解であり正義である。クラスメイトの誰かが主張していた気がするそんな迷言。それに従うように番組表から丁度放送中であるアニメを視聴することにした。
「あ……これ、去年やってたやつの二期か」
インターネットで話題に上がっていたのを覚えている。アニメ化のお陰で評判が落ちたことで有名な、あれだ。仔細は避けるが、作者が不憫で仕方がなかった。
どうやら十一時から始まったこのアニメは僕が見入る頃にはもうエンディングが流れ出していた。
「終わっちゃったか……」
前話を知らないため何をやっているのか到底理解に苦しんだのだが、次回予告を観ることで更に意味の分からないことになった。在り来たりな展開ではないことはわかるが。こうして呆気なくテレビの視聴を終了する。このまま視聴を続けるという選択は僕には欠片もなく、ただ、溢れんばかりの無気力感だけが全身を襲っていた。
これは疲労から来た睡眠欲を催す類の作用ではなく、ただ、何に対してもやる気が起きず、世界が終わる瞬間もじっと天井だけを眺めているくらいに行動する気がなかった。
「………」
暇潰しにもならないかもしれないが、近くに落ちているスマホの電源を入れた。………付かない。長押ししてみる。
「充電切れてんじゃん」
こういうのは非常に面倒臭い。手軽に使用できて便利、というのがスマホの売りの一つであるというのに、その役割すらも全うしていないとは。完全に僕の管理不足故の事象なのだが。無気力さを更に倍増いや、累乗させてしまうのにはこれ以上にないくらいの事象だった。
眠くもならない、やる気も起きない。どっちつかずの現状。気分転換に外へ出るという手段が妥当ではあるのだが、時間も時間であり、何より夜間徘徊として警察に補導されたくはない。彼らのお世話になるということは、つまり、彼らの業務事項を一つ追加することになり、以上に、犯してしまった事柄が学校に、そして、おばあちゃんの耳に届くとなると、それはもう何と釈明して、大きからず、また小さからずな社会的な罪を抱えて生きていけばいいのか。
あまりにリスクが大きすぎる。現状の維持か悪化か、どちらかを選べと言われれば間違いなく前者を選び取るだろう。そんなこと小学生でも自分の危機察知能力で判断できる。
と、なれば現状に甘んじて、いつか来るやも知れぬ睡眠欲の到来まで座して待つか、数時間後に訪れる夜明けまでこのまま座して待つか、この二つになる。どちらにせよ、「待つ」ことは同じである。
……あぁ、考えることすらも怠い。立ち上がることすらも、同様に。
つまり、この状態からの変化が見込めないことが分かった。ただ、湯上りの暖かさがどうしてか少しずつ抜けていくという変化だけは着実かつ確実に起こっていた。
リビングの電気が消える音がした。お母さんがスイッチを切ったのだろう。もう、寝る時間なのか。
自室で読書に励んでいた私はその音を聞いて本から目を離した。頭上の時計を見やれば時刻は既に十一時半過ぎ、肌のゴールデンタイムの真っただ中にある。同年代の恋する乙女たちは自分の美に執着しながら、今頃は布団で彼氏の死ぬ姿でも妄想しているのだろうか。
凝っていた肩を解すために大きく伸びをする。ググッと固まったものが和らいでいく。数時間を同じ体勢で過ごしていたのだからこうなるのも当たり前だ。最近、また胸が大きくなったようで、その分の重さもずっしりと肩に圧し掛かってくる。
女の大きな魅力の一つである胸。好奇の目に晒されるのは恥ずかしいが、胸が大きいというのはそれだけでステータスになる。しかし、自身の枷になるというバッドステータスも。
「はぁ……肩、痛いなぁ」
伸びてもなお完全には凝りの取れない肩。手で揉んでやるけど、あまり主だった効果は得られない。
どうにかしなければなんて対策を練っては試行錯誤で最高効率への道を探すのだが、結局は諦めて、ベッドに横になって読書をする始末。日々、一歩ずつ進んでいく。背伸すれば二歩だって三歩だって進むことができるだろう。しかし、毎日毎日背伸びすることは人間にはできない。そんな効率の悪いレベリングしかできない生き物なのだ、人間とは。
ページを捲る。体勢を変えながら、登場人物の心境に呼応して私の集中力も読み進めるスピードも変化していく。感情は本の中にある。私の体は本の外にある。ならば心は。
「………」
おかしな話だが、私はいつもの私ではなかった。人はその都度、感じ方が異なるものだ、なんて返しが来るのだけど。私の場合、根底ではただ一つの事柄が支配し尽していた。
それはもう、ご察しの通りの事柄。今の私の心中には、どれだけ騙しても、結局はこれしか浮かんでは来ない。
自分の彼氏である少年と、そんな彼氏の元彼女であった少女と、気づけば彼の隣にいる少女。そんでもって、少年の死体を見ている自分の妄想。それに塗れていた。
人間関係の縺れがここまで行けば大したものだろう。雨則を中心に様々な心情が交錯している。もう1+1=2になるという単純さからは逸脱してしまっている。混沌と言っても差し支えないほどに。
そんな渦中に私も当事者なのだから、ここまで思考領域が日常から脱却しているのにも頷ける。
虹よりも醜く、黒単色よりは美しい加減が私たちの関係だ。そんな混色を真っ白に戻す時、何があるのか。そうすれば白になるのか。歪んだ混色のパレットを洗い流すもの。
それはきっと。
「………雨」
降りしきる雨。止まぬ雨。それではないだろうか。美しさも醜さもいっしょくたに洗い流してくれる、そんな雨が、全てを終わらせるのではないか。
ページを捲る音と共に、私は、そう確信した。
夜が更けていく。各々の気持ちは月と星の見えない雲に消えていく。夜が明け、朝が来て、また夜が来る。そんな回帰の中で、彼らは。
「…………ぁ」
朝、か。僕はソファーに座ったまま朝を迎えた。相変わらず雲に覆われた空は、それでも限りない太陽の光の強さに負けて、隠しきれない日光を地上へと降り注がせている。
一睡もできなかった。朝になれば学校に登校する、という学生ならではの典型的な使命感に苛まれている僕は強引に立ち上がる。
「おぁっ……」
と、思わず体勢が崩れる。咄嗟にテーブルに手が付く。異常に全身が痛い。頭が痛い。
急に現世に帰り、身体と魂が久しぶりにリンクしたように意識的なズレが生じていた。
「なんだ、これ」
混乱しているのか、そう思わせるくらいに眩暈のような、立ち眩みのような、そんな不快感が視覚に表れる。やばい、戻しそう。やばい、倒れそう。
半分植物人間状態にあった僕。そこから解き放たれた結果がこの有様だった。
倒れそう、ではあるのだけど、どこかで倒れてしまいたい自分がいるけど、倒れることができない。意識を手放すことができない。
これでは学校に行かなければならなくなる。
昨日の出来事がフラッシュバックして更に頭痛が襲う。同時に頭痛以上の苦しみとか辛さとかが心の底から湧き出てくる。
なんだこれ。何だ、この気持ち。
それは一人のガキが背負い込むには、あまりに大きすぎた。
夏樹、海里、知音。三人が三人なりの気持ちがあって、主張があって……。何をどうすれば、何がどうなるのか。何がどうなれば、何がどうなるのか。
「………う、ぷ」
それを催したのは、仕方がないことだった。ズレのある体を無理矢理動かして浴槽に駆け込み、トイレの便器に向かって。
「……お……ぇ、ぇ……えぇ」
気持ちが悪い。気色が悪い。
久しぶりに胃の中身を吐き出した。空になるくらい、昼のコンビニ弁当がそのまま放出されるように。出てくるものが胃液になるまで、何度も吐き続けた。
そして……。
「……行ってきます」
どうにか制服に着替えた僕は、そのまま部屋を出る。鞄の中身は昨日のままだ。今日、授業で何があるのか、それすらも不明確だ。
茜さんの部屋の前を通り、エレベーターに乗り込む。
「………」
こんなにも学校に行きたくないのは何時ぶりだろう。おそらく記録更新しているだろう。中学の時、今年の夏……思い返せばいろいろあって、でも、それぞれに結末があって。
「………これは……結構、くるな」
下へ下へと降りていくエレベーター、その壁に凭れかかりながら心の底から苦笑した。
チーン、とドアが開く。安らげるのはここまでだ。ここから先は地獄だ。
「………」
一人、一歩を踏み出す。冬の世界へ。
教室のドアを開ける。中には既に結構な生徒が来ていた。様子を見るに、今先ほど登校してきたばかりの人が大勢見受けられる。
今、何時?と顔をすぐ横の上の方へ持ち上げる。
八時十七分。
部屋を出たのは七時二十分と普段よりも少しばかり遅くなってしまったが、それでもこんな時間にドアを開けるのは久しぶりだ。
あと数分もすれば教師が入ってきて、出席を取り始めるだろう。
僕は急ぎ足で自身の机に向かう。途中、三樹弥から挨拶され、それを返しながら、席に腰を落ち着かせた。
「………ぁ」
が、腰を下ろしたところである人物の後ろ姿が目に入ってしまう。他でもない、白雨知音、本人だ。
彼女は黒板だけを直視していて、僕という存在に気付いてすらいない様子だ。いつも通り、「おはよう、雨則」と挨拶をしてくれることが嘘のように彼女の背中には無関心のみが宿っていた。
僕の所為だ。僕が彼女をこうしてしまったんだ。
僕に会う為だけにこの学校に来たのに、僕に裏切られて……彼女は今、何を思ってこの学校に、この教室に来ているのだろう。
僕と同様に義務的なものが働いているのだろうか。
クラスには溶け込んだ彼女。けれど、本当にこれからもこの学校にい続けたいと思うだろうか。実家から態々出てきて、慣れない都会の暮らしを、彼女は笑顔で続けていけるだろうか。
「………っ」
机に俯せになる。教室の騒がしさに馳せながらゆっくりと目を閉じる。途端に、ぐんと引き寄せてくるのは夢の世界。このまま寝てしまおうか。そうすれば、何も考えなくて済む。何も感じず、傷つかず、それが最善だ。
ホームルーム直前にも関わらず僕は欲に負けていくのだった。
その後、必然、教室に入ってきた教師に叱られた。
ありがとうございました。
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