14 いずれ訪れるその時
現状を変えなければいけない、この進展の兆しを見せない、先の見えない霧から抜け出さなければならない。周回軌道から外れた本来在るべき道へと戻らなければならない。
時間はない。有限だ。限られた時間の中で掴みとるべきを掴みとり、捨てるべきものを捨てる。取捨選択、乱れきった日々への断捨離。それさえすれば全てが終わる。終わる、のだが、そう簡単にはいかないものだ。
そもそも容易にいかないのだからこんなにも迷って、道を踏み外して、立ち止まっているのだ。
「そこまで」
その一声と共に、教室中のシャーペン並びに鉛筆の音が止む。それは僕も同様だった。その後は手に握っていた文具を机に置く者、手に持ったままの者と、幾つかのパターンに分かれる。ちなみに僕の手には何もない。
「じゃあ後ろから回収してこい」
次に繰り出された指示。この答案用紙を回収するようだ。僕は他の生徒と合わせて椅子を引く。床を擦れる騒音と共に立ち上がり自身の答案も忘れずに持って順々に教卓へと近づいていく。
数枚に束ねられたプリントを科学の先生に手渡す。その時に無意識なのかは知らないが奪いとるような受け取り方をしたのが少し癪に障ったが他の生徒への対応も似たり寄ったりであったので考えないようにする。
「はい、号令」
と、授業終了のチャイムも鳴っていないのにも関わらず教師は委員長である秋葉さんへと目を向けた。軽い睥睨といった感じだった。
「起立、きょうつけ、礼」
その態度に秋葉さんは何か思うところがあったのか少し空白を開けた。しかし、それも数瞬の事であるので誤差と言えば誤差なのだが、さしもの秋葉さんでもちょっとした反抗心の葛藤があったということか。
彼女の凛とした声音を聴き終えた教室は教師の退室と共に脱力した。ところどころから「はぁ」と声が漏れていた。それは明日からテストで始まることへの嘆息ではなく、監獄から解放された囚人のような安堵と希望を兼ね備えたものだった。そんな分析をする僕もまた例外ではなかったりする。
僕はすぐさま秋葉さんの下へと赴き、「何とか乗り越えたよ、ありがとう」と今回のテストに挑む上で最も感謝すべき彼女に頭を下げる。
「ううん、雨則君がとっても頑張って勉強してたからだよ。私がしたのは概要をちょっとだけ解説したくらいだし」
「そんなことないよ。ノートにまとめててくれてたのも秋葉さんだし、僕はただ覚えるだけでよかったからね」
覚えるべき基となる参考書紛いの解説書を作成してくれたのは秋葉さんだ。一銭も払わず、一切の準備せずに目当ての品が入ったようなものだ。
「何かお礼ができるならしたいけど……何か欲しいものとかってある?」
そう問うと、秋葉さんは柄にもなく思考を始めた。普段の彼女を見れば「全然いいよー」なんて何も欲することはなかったと思うのだが。僕の場合、今回が初めて秋葉さんに頼るという形を取っている。何を求めてくるのか、想像を越えてこないかと身構える。
秋葉さんはなおも思考を続けている。今、彼女の脳内はとんでもないスピードで回転しているのだろう。たぶん、僕と脳を置き換えればすぐにオーバーヒートしてしまうほどに。
そして、数秒後。秋葉さんの頭は数時間分の労力を伴っているだろう。ようやく、彼女の口が開く。
「ちょっと、こっち来て」
突然腕を引かれ教室を出る。強引に連れ出され思わず「おわっ」と声に出してしまった。
その光景を一体何人の生徒が黙認したのだろうか。その中に雄吾達も含まれていただろうか。僕には、数十の視線が交錯する、人口密度を考えるとあまりに狭い教室では一目で確認するほどの洞察力を持ち合わせていなかった。
「ね、ねえ、秋葉さん、どうしたの?」
「………」
こんな展開。これから先何が起こるのか。仄かな淡い期待も勿論あるのだけど、それは、僕にとってすれば犯してはならない大罪に直結する。しかし、鳴る心臓。鼓動は全身へと流れ、血流は音を立てて体中を駆け巡っている……ような感覚。
そして、連れ込まれた先は。
「………購買、かよ」
レジのおばあちゃんがニコニコ笑顔でこちらを見てくる。……売店だった。
僕の淡い期待とか不安なんかがガラスが割られたように砕け、散らばっていく。心はガラス。割られたハートはパズルのピースみたい。何処に嵌め込めばいいのか見当も付かない。
そんな散り散りの心を優しく包み込んでくれるのは柔和な表情で接してくれる売店のおばあちゃんだけだった。
「これ、買ってくれない?」
「……どれ?」
「これ」
と、指差す方に目をやれば、そこには数冊と積み重なっているキャンパスノートがあった。隣にある分度器でもなければ、そのまた隣にある電子電卓でもない、ただの大学ノートだった。
「秋葉さん、これでいいの?」
「え、あ、うん」
と、秋葉さんは呆けたような顔で頷いた。
「でも、ほらノートじゃなくて、もうちょっと高いのものでもいいんだよ」
流石に下手したらこれからの人生に影響が及ぶやもしれないテストへの対策会を無償でしてもらったお礼には足りない。本来ならばもっと、数千円する料理屋なんて場所に連れていくべきなのだろうが。それでも、ノート1冊というのは、あまりにも彼女の準備と努力に見合った対価とはいえない。
「え、ああ、ごめん。このノートを全部くださいって言おうとしたんだけど。……大丈夫?」
「え、これ……全部!?」
値段的に見ればそれでも千円するかしないかくらいなのだが、と、これにはおばあちゃんもおったまげていた。おったまげたなんて今日日聞かないが、まあ、おばあちゃんの世代なら流行語になってもおかしくないだろう。
って、そんなことじゃなくて。
「すいません、これ、何冊あります?」
目的の物へと少々身を乗り出しながら訊いてみる。
「んーと、……3、4……7冊だね。で、計950円」
「わかました……秋葉さん、買うよ?」
「うん、よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げた。それでも割りに合っていない気もするが。ともあれこうして僕の金銭的並びに秋葉さんの優先順位は限りなく低いのであろうが、物的な欲求を満たすことができた。生じた散財も支給された金額に比べれば何の損害にもならない。ただ、この考えが金銭感覚の狂い、に該当するのであればそれはもう素直に肯定するしかない。
僕は小銭の厚みが減った財布の感触にそのような思考を挟ませていると横から「ありがとうございました」とこれは店員のおばあちゃんに寄って手渡しされたノートを受け取り、売買の成立に行う一種の儀礼的な意味を込めての礼であるのか、また、既にそのような儀礼は執り行われた末、僕に対しての金銭の支払いの感謝を示すお礼であるのか、以上2択が瞬間的に頭の中に上り、そして脊髄により引き起こされる反射に顔を彼女の方に強引に向ける数瞬の内に択一したのだが、結局目に入れて答えを出す事とした。
「雨則君、ありがとう、ね」
丁度数冊に及ぶノートを抱きしめるように持ち、こちらに身を向けた秋葉さんと目が合った。
「あぁ、いや、うん、こっちこそありがとう。僕としてはまだ足りないけど、秋葉さんがそれでいいのなら、それでいいよ」
答えは後者であることを察するのと同時に、彼女の口から出た言葉の意味を読み取り答えを返す行為を行った。
「それじゃあ、教室に戻ろっか」
腕を後ろに組んで僕に提案してくる。その仕草は一男子の端くれとして心臓に悪いものだった。海里と長くはないけれども、短くもない日々を恋人として過ごして来た経歴があるけど、たじろぐことはなけれど、余裕の微笑で了承するという理想的な回答はできなかった。
だから、一拍置いて。
「おう、そうしよう」
と、ようやく理想通りの回答ができた。
教室へ通ずる廊下には有象無象で犇めき合っている。僕と秋葉さんもその有象無象の中にいる誰かからしてみれば有象無象に見えるのだろう。ここまでの人の多さであれば幾ら突出したような、爛々と空の星のように輝く存在感を発揮するような者も目に入ってこない……ことはなかった。
流石は彼女。流石は学園のアイドル。一般ピーポーの雑多に埋め尽くされていても一目見ただけで発見することができた。迷子になれば、見つけやすさこの上ないくらいの存在感。秋葉さんも同様に、夏樹の顔、体型の一切を一通り流し見してみれば、小さく溜息を吐いた。
「……やっぱり綺麗だなぁ。……悔しい」
前半の羨望を向けた言葉は聞き取れたのだが、後半部分はあまりに細々とした声音であったがため上手く耳に入ってこなかった。でも、おそらく、羨望と似たようなことを口ずさんでいたのだろう。
そんな注目を浴びる夏樹本人は何食わぬ顔で歩いている。どうやら僕のことには気付いていないようだ。と、すればここからでは遠いが海里も紛れ込んでいるのではないか。ここ数日顔すらも合わせていない彼女。そんな三つ巴の分布にはしたくない。
ここはすぐにでも退散を決め込むことにする。
「秋葉さん、ごめん次に授業の準備があるんだった」
「え、あ、そうなの?じゃあ、早く戻った方がいいね」
2人して急ぎ足で教室へと戻る。まるで逃げ足の速いゴキブリのようにカサコソと。
こうして授業が始まり、恙なく終わり、お昼を体育館裏で摂り、気が付けば終礼の鐘の音が鳴り渡っていた。山彦のように反響し、音だけで大気を震わせた。震度にして1にも満たない軽い揺れのような、それくらいの微震だった。
当然、その程度のことでは生徒も教師も意に返した様子もなく、チャイムが鳴り止むのと同時に数人が教室から解き放たれた。後に続いて教師が忙しない様子で出ていく。
学校に残るメリットも理由もない僕は、そんな始発ダッシュに乗じて帰宅しようかと鞄を肩にかけていると。
「あ、雨則。ちょっと待って」
待ったを掛けたのは知音だった。季節に見合った格好を身にこちらへ向かってくる。そんな彼女の接近に僕は1歩後ずさった。
その理由について述べるのは今更だ。いつでも教室の外へとダッシュする準備は整っている。何を言われようとも、誘われようとも、「ごめん、今日はこれから忙しくて」の1言、その後、猛ダッシュをかますという作戦まで、全てイメージ済みだ。
さぁ来い!、と威風堂々さを滲ませた仁王立ちポーズを決めて身構える。
「雨則、一緒に帰ろう」
「……」
はたして紡がれたのはリスクの塊だった。彼女は僕を破滅へ導く少女だったのかと言わんばかりの最低で最悪な1言をことさらもなく吐いてのけたのだ。
一応予想としてはあったもの、こうして直に何の悪びれもなく言われれば少し迷うような間ができてしまう。その間に付け込まれるのが僕の大きな欠点である。
「……あ、いや、今日はこれから忙しくて」
「そうなの?じゃあ早く帰ろう」
手を掴まれる。素材の良い牛革の手袋の質感が手に触れる。まだ温かみのないただの手袋で、こうして僕の温度も交わって少しずつ温まっていくのだろう。
「あ、おい、ちょ、まっ」
数時間前の秋葉さんのように、いや、それよりも強引に、引きずられるように教室を後にし、廊下を走り、階段を降り、そして、外へ出た。
それでも止まらない知音。無理矢理にでも手を引きはがすことはできたであろうが、無駄で無意味な勝手な罪悪感によって阻まれた。なんと愚かであるか、と自分を嘆きたくなる。口に出したくて仕方がなかった。
「ちょっと待って!知音」
代わりに吐き出すのはもう何度も言った言葉。駄々を捏ねる子供のように引きずられ地団駄を踏む。言葉にしない我儘など身体出すしかない。その結果がこれだった。本当に背丈だけが伸びたガキだった。救いようがないほどに無様に地面に音を鳴らす。
そうこうしているうちに校門前までやってきた。すぐに校舎で出たからか、まだ生徒の影は少ない。部活動生も多いうちの学校だからここまで来れば変な視線を送られることはないだろう。
「ストップ、知音。もういいから。自分で歩くから!」
「あ、うん……ごめん」
ようやく止まった。あと数歩で敷地から出るところだった。学校という機関の管轄外へと解き放たれるところだった。
「……知音、もうどうしてこんなことを」
すっかり熱の篭った手をグーパーする。
「いやあ、雨則と一緒に帰りたいなぁって。それで雨則が逃げ出さないようにこうしてハンド・トゥー・ハンドしたわけで」
そんな言い訳を聞いて、僕ははぁと嘆息してしまう。こんな恥を晒すような姿、生徒ならまだしも知り合いにでも見られていたらたまったもんじゃない。
「誰かに見られてたらどうしてたんだ」
「いや、普通に廊下にいる生徒の視線はあったよ」
「あぁ、もう、こんなことでも噂の種になったりするからな」
これが海里や夏樹にバレたりしてみろ。
もう、全く。
「ごめんね、雨則」
しゅんとした顔で謝罪してくる。その顔はやめろ、あまり精神を削り取らないでくれ。
「……もう、いいから、早く帰るぞ」
「あ……うん!」
すぐさまパァッと明るい知音に戻り、2人並んで校門を出る。
……が、すんでのところで。
「雨則君ちょっと待って!」
「―――――――」
本当に後1歩というところで背中より聞こえてはならない声が放たれた。
あまりにも聞き覚えがあって、身に覚えがあって……ドクッと、心臓が鳴り、身体がビクッと震えた。
痙攣するように、完全な意識外から大声で自分を指されるように、それは、幻聴ではなく、あまりにも現実味を孕んだ絶望だった。
知音は僕の名を呼ばれたことに反応したのかがばっと身を翻している。そして、こう思うはずだ。あれ、あの人、学園のアイドルって呼ばれてる人だったよね、と。そんな人がどうして彼の名前を知ってるんだろう、と。
声は残響し、足音は近づいてくる。
これから起こるであろう、それは喜劇かそれとも悲劇か。僕は固唾を呑む。そして、貧血を覚えたようにおでこに手を置く。
足音が止む。振り返らない。現実を現実として受け入れられない。知音に手を引かれて校門前に来る、たったこの間違いで事態はこんなにも深刻になるのか。
「雨則君……、と……白雨、さん」
どうやら彼女の名も、いや性も知っているようだ。
「貴女は、確か、有田夏樹さんだったっけ」
事態を飲み込めていない唯一の人物である知音は記憶を探りながら夏樹と向かい合っている。
「その有田さんが私と雨則に何のようですか?あ、もしかして、何か伝言でも?だから、雨則、待ってとか言ってたんだ」
この空気の中、知音は明るく振舞っている。空気の重さには気付いているだろうが、それを和ませようとしているのか。原因が自分であるのにも知らずに。
「何のよう……って、白雨さん、自分が何をしているのかわかってるの?」
ドクン、ドクン、と、音を立てている。息の吸い方を忘れてしまった。静かに吐き出す方法を忘れてしまった。
まずい。脳が警鐘を鳴らす。たぶん、知音は、何も知らない知音は何も考えずにあのことを言うはずだ。彼女だけの認識を、彼女の盛大な思い違いを。
「何って、一緒に帰ろうとしているだけですけど」
そして。
「私と彼、付き合ってますから」
そう、予想通り。想像通り。バカみたいに的中した。
もうだめだ。これはだめだ。どう考えても良い方向へなんて行かない。
だから、僕は。無我夢中で振り返り。
「夏樹!僕はっ……!」
と、盛大に、他人の目なんて、耳なんて気にせず、気にも留めず……。
ありがとうございました
誤字脱字、ブクマ、評価よろしくお願いします。




