13 早朝の布石とその一端
今回はメインの話ではない、所謂サイドストーリーと言いますか、これから先の話の中で雨則が選択した末の物語「IFストーリー」の布石になるような1話です。
彼女らの話の中に海里や夏樹など主要人物は絡んできません。
今日もいつもの朝が来て、いつもの1日が始まる。目を醒まして、顔を洗って、カーテンを開けて、適当にご飯を食べる。昨日ようやく今月分のお金が入った僕は自炊を継続することなくコンビニ弁当に切り替えるつもりだ。
冷蔵庫の中身は昨日の時点で丁度空っぽになるよう計算しており、結果は計画通りとなった。このまま自炊を続けようかという考えもあるにはあるのだが、おそらく楽な方に言ってしまう性質である僕にはきっと無理な話なのだろう。
「行ってきます」
マンションを出る。珍しく同じ階に住んでいる女性に声を挨拶をされた。
「おはよう、雨則君。今日も寒いわね」
白のコートを纏った女性、僕が入居する前からここに住んでいる彼女――冨塚茜さんはフリーのウェブデザイナーをしているのだとか。
「ははは、ですね。今日はどちらへ行かれるんですか?」
苦笑いをしながら、話題を変えた。近づいてみると分かるのだが茜さんは結構な長身であり、僕と比べても大差ないくらいだった。僕の身長が171cmだから、女性の中では高い方になる。
「今日は今クライアントから頂いてる案件、それ共同なんだけどね。私の他に2、3人請け負っているの。で、簡単な方針を決めたいからって、ファミレスで集まることになっているの」
「ファミレスって、コンプライアンスとかは大丈夫なんですか?」
「ええ、本当に大まかな部分らしいから、……でも、確かにファミレスじゃ誰が聞いてるか分からないしね。雨則君、そういう所考えられるなんて、偉いわね」
同じ高さの目線がニッコリと笑った。褒められるほどのことを言った覚えはないのだけど、でも年上の人から、というのは素直に嬉しかった。
「雨則君はぁ……今日は学校か」
整った顔立ち、紅色の唇が特徴な茜さんは、僕の格好を見て察したように口を開いた。
「はい、そうです」
「それにしては早いんじゃないかしら?まだ7時ちょっと過ぎたくらいだけど」
茜さんはそう言って、自分の証言を確認するように手首の腕時計を凝視した。そして、間違いないと分かったのかうんと頷いた。
「あ、もしかして、誰かと待ち合わせしてるの?……恋人?」
茜さんは興味深そうに僕の顔を覗き込んでくる。紅の口元は孤を描いており、ちょっとした行動をするだけで、何かを勘づかれそうなほどに目を光らせている。
「……い、いえ、違いますよ」
僕は慌てて目を反らす。嘘ではないのだから堂々としていればいいのに。
「怪しいわねぇ。たまに女の子連れてきてるじゃない。知ってるわよー」
「ま、まあ彼女はいますけど……でも今朝は待ち合わせしてるわけじゃなくいです」
「ふうん、そうなんだ。ま、いいわ」
まだ半ば疑っているという表情ではあるが、口だけは納得を示した。
「でもいいなぁ、青春じゃない。……仕事柄でこっちは出会いのきっかけなんてないし。親からも
いろいろ言われてるのよ。そろそろ焦らないといけないんだけど……。もう27だし」
「え、付き合っている人いないんですか?こんなに綺麗なのに」
「あら、嬉しいこと言ってくれるわね。貴方の歳からしたら私なんておばさんじゃない?」
「いえ、そんなことはないと思いますけど。歩いててナンパとかされないんですか?」
それだけの魅力は感じる。と言っても僕の場合、年上だからという見方も含まれているのだろう。僕たちと同年代のような、言ってしまえばガキにはない、女性らしい雰囲気が感じられる。
「まあ時々声をかけられることならあるけど。私、正直、そういう軽い男好きじゃないのよね。偏見混じってるけど、大抵の場合、ああいう類の人に股開いたら人生壊されそうだから」
「………は、はあ」
刺激的な話だ。こんなことで熱くなってしまう僕はまだまだ子供なのだろう。
「あ、ごめんね。変な話しちゃって、雨則君、まだ未成年だしね。私の周り、近い年代の人しかいないから、つい普段の調子で話してしまったわ」
「いえ、気にしないでください。すいません、年が離れてて話づらいですよね」
「ううん、私としては新鮮だから。……それより、そろそろ行った方がいいんじゃないの?」
「あっ、はい、そうですね。すいません、お忙しいところ、失礼しました」
「こちらこそ、楽しかったわ、またね」
茜さんは礼する僕に対して、手を軽く振ってくれた。
僕は最後に軽く微笑んで、その場を後にする。エレベーターに乗り込む。ちらりと見れば茜さんはいつも通り階段へと歩いて行く。
聞けばダイエットなのだそうだが。ともあれドアが閉まるまでの間、茜さんのセミロングに伸びたダークブラウンの髪が揺れるのを見つめていた。
エレベーターの方へ雨則君が歩いていく。私も彼に背を向けるようにして階段の方へ歩いていく。
カツンカツンとヒールの音が響く。1段ずつ足を踏み込む度に。
「雨則君、少し暗い表情してたけど、どうしたんだろう」
会話の最中、雨則君は年上である私と話す緊張の他に、影が差すような暗さがあった。顔を見ながら話しているのに、俯いているかのような。人をよく視るようにしている私にとって彼の僅かな陰りははっきりと映った。
「彼女さんと何かあったのかしら」
少し派手過ぎるかというくらいに目立つ唇へ指を当てて考える。そもそも、彼女以前に彼のことをよく知らない。だから必然的に、彼のダークさの意味が思い浮かばない。
1年と数カ月前に入居してきた彼。まだ少しあどけなさが残った少年。そういえばあの時も似たように暗い表情をしていたっけ。
挨拶をしに来た時もどこか明後日を見ていたし。あの時は今でも鮮明に覚えている。まだ15歳の男の子が独り暮らしを始めるって……よくある話なのだが、当時の彼の抱えていたものといい、どうにも無視できない存在だった。例えるなら弟のような。
「……でも」
少しずつだけど彼は笑顔を取り戻していった。心境に変化があったのか、環境が自然とそうしたのか。どちらにせよ、完全ではないのだろうが、彼は年相応の日々を送ることができるようになったのだろう、そう思った。
でも、雨則君は当時に戻ったかのように、陰りが現れた。おそらく、学校で何かあったのだろう。雨則君の年代であれば学校が生活の大半を占めているし、大人が訪れるような店には行かないだろうし。
彼女もいるのであれば不安も不満も当然出てくるだろうし。
「それにしても」
……それにしても。
あの、俯いて苦しそうに、悲しそうにしている雨則君を見ていると……。
「はああああぁぁ、さいっこうっ」
思わず声が漏れる。本音がマンション中に聞こえたのではないかというくらいに、響き渡る。
あの顔、あの表情、あの仕草、あの無理矢理な笑み、苦しそうな表情、悲しそうな表情、私を見て、大人な私を見て緊張している時の顔、顔を赤くして視線を右往左往させている時の雨則君、一挙手一投足全ての雨則君。
その全てが、全てが、私の心に身体に……性癖に突き刺さる。
堪らない。この高ぶりを、この胸の高鳴りを、抑えられない。
「あの子、私の物にしたい」
それは、彼が入居してから、あの曇り切って、それでも笑いかけてくるあの顔を見た瞬間から想ってしまった本心。
彼を私の部屋で飼って、ベッドに鎖で縛りつけて、身も心も私の物になるまで、従順なペットになるまで躾たい。
殴って、蹴って、彼の大切なもの全てを壊して、ちぎって、折って。そして、その度に私が謝って、彼が安堵したところをまた殴る。
――――なんで、殴ったんですか?とか。
――――どうして、こんなことするんですか!?とか。
――――ごめんなさい、ごめんなさい……とか。
言わせてみたい。考えさせてみたい。
「はぁ、はぁ、はぁ」
たまらない。私の今の顔、どうなっているんだろう。お天道様に見せても大丈夫だろうか。
絶対に人前で公言してはならない、性癖。異常性癖。
でも、でも。雨則君ならわかってくれるよね。あの子、優しそうだから。小さなことでも抱え込んでしまうくらい繊細で、優柔不断で、不器用で、でも、大事な人のことを考えて、悩んで、どうやって悲しませないようにするのか迷って、考えることができるだろうから。
……だからこそ、そんな雨則君を泣かせてみたい。泣き喚かせてみたい。震え上がらせてみたい。
そうこうしているうちに階段を降り終える。そこから1度館内へ入って、正面玄関から外へ出る。
雨則君はぁ、もう行っちゃったかな。また会うのが楽しみだ。次会ったら、お茶くらいしていってもらおう。私の部屋で。
そう決めて、私は誰にも見せない裏側から、人当たりの良い表側へと切り替える。
「後でトイレに行っとかないと、ね」
女性としての嗜みは大事だ。それが愛故に濡れていたのだとしても。
僕は1人、まだ生徒の少ない校舎を歩く。生徒の代わりに教師と擦れ違うことが多い。自然と挨拶と会釈をする回数も多くなる。
冬休みも迫ってきている12月半ば。ふと考えてみれば、もうすぐ今年が終わろうとしている。新しい年と書いて、新年が始まろうとしている。そして、僕も、海里も夏樹も知音も雄吾も三樹弥も丈瑠も秋葉さんも、高校3年生になる。
最上学年、高校生最後の1年が始まる。そして、その1年も終われば、卒業し、大学に進学する。
そんな将来が見えてきていた。まだ、あまり実感はないけれど、確かに訪れるのだ。新年が、卒業が、進学が。
今が過去になっていく。遥か先の未来が今となって、いずれ過去になっていく。変わる季節。変わる情景。変わる関係。変わる暮らし。変わる生活。
ならば、僕と海里、夏樹、知音の関係というのは変わるのか。未来の僕は変えているのだろうか。卒業するという確定した未来よりも、ずっと現実味がない。どうなるかなんて、どうなっているかななんて、今の僕には到底分からなかった。
こうなって欲しいという理想ならば思い浮かぶ。それはもう僕の考え得る最高の理想なら。皆が笑っていて、僕も笑っていられるような、そんな夢物語を。幻想、妄想、そんな類の下らない、それでいて愛おしくて、ずっと浸かっていた想像。
でも、ふと我に返れば、そんなハッピーエンドなど僕には届くはずもない。他の誰でもなくて、僕自身が心から無理だ、と叫んでいる。
僕の目から見えるこの世界の主人公は僕ではない。
教室のドアを開ける。
「おはよう、雨則君」
早速声が飛んでくる。見れば教室の中にいる生徒は秋葉さんだけだった。流石に早く来すぎたようだ。
「おはよう、秋葉さん、早いね」
「いつもこんなものよ。というか、私の記憶が正しければちょっと前も似たようなことなかったっけ。立場は逆だったと思うけど」
「あー、梅雨の時かな」
雨の降っていた時。確か小テストを2人で全員分置いて行ったんだっけ。それと、確か教室の外から見ていた女子、海里を見たのもその時だ。
その時の僕は、まさかあそこにいた少女が今の彼女だなんて思いもしなかった。過去に会った少女と同一人物だなんて思ってもいなかった。
突発的な雨ではなかったから運命も何もないかもだけど、昔、あの日も雨が降っていた。今、振り返ってみると何となしに感慨深いものだ。
「そうそうその時だった、はず。……て考えると時間の流れは早いものだね」
と、年より臭い台詞を吐く秋葉さん。えへへ、と可愛らしい笑みが教室に漏れる。
「今日は何か手伝うことある?」
「ううん、特にないよ。そういえばあの日は小テストを机に置いて行ったよね」
「うん、そうだったね」
「………あ、ねえねえ、ちょっと前の科学の授業を教えるやつ、今日だったよね」
因果律であったり、相対性理論であったりとかあまりに退屈過ぎて眠ってしまった授業のことか。
「あ、うん、そうだよ。明後日、テストがあるから」
「放課後にする予定だけど、大丈夫?」
「うん、よろしく」
僕は鷹揚に頷く。結構互いに都合の合う日が多かったのだが、テスト勉強ということを含めると2日前くらいがいいんじゃないかということで雄吾経由でお願いしていた。
「わかったわ。こちらこそよろしくね」
秋葉さんは自分の机の引き出しに入れてあるノートを取り出して開いて見せる。パラパラパラ、とどのページもほとんどを黒で塗りつぶされている中、とあるページで止まった。
「ほらちゃんとノートにもまとめてきたから。グダグダはしないと思うよ」
このページも他と差異なく黒一色でまとめられているが、重要な部分はわざと濃ゆく書いてあるなど工夫を凝らしているようだった。
「これ、いつ作ったの?」
「あぁ、これ?昨日、一昨日だけど」
「え、僕達に教えるためだけに?」
「うん、人に教えるからね。自分の復習の意味合いも兼ねて作ったの。誰かに教えるためにはその誰かより3倍理解してなくちゃならないからね」
「ほえぇ、凄い」
何故、3倍なのかは聞かないことにする。
「更に楽しみになったよ。これでテストもばっちりだと思う」
「まだ教えてもないんだから気が早いと思うけど、少しでも役に立てたら嬉しいな」
そう言って華やかに笑った。
それから少しの間、談笑などをして、他のクラスメイトが入って来てからは自然と自分の席に戻った。
ここから一日が始まるのだ。
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