12 彼女と元カノの屋上光景
夏樹と海里の話です。
現在の僕は海里を裏切って知音と密会を重ねていると僕を知る面々は考えているだろう。僕個人としてはそんな最低な真似などしているつもりは毛頭ないのだけど、しかし、往々にして自分と他人の思考に違いが出るのものだ。
真実とは異なる事実を捏造されれば、大衆にとってはそれが唯一の真実に成り得る。何事も人は目に見えて発生したことをそのまま事実と決定付けしてしまう心理がある。それもそのはずで、有事において、その間にどのような因果があろうとなかろうと、結果が全てであるからだ。
いちいち当事者の人生観を詮索する必要もないわけだし、結局のところ、起こったことの発端から結末までの間に自分が何らかの被害を被ったわけでもなし、逆に人へ加害を与えたわけではないのだから、自分とその近辺とは何ら関わりのない他人のことなどどうでもいいのである。
まあ、僕の場合、自分から打ち明けていないのだから、皆が疑惑を抱えるのも仕方がない。
知音がただの元カノであれば至極簡単にことは済んだものの、長い時月が経過してもなお、あれだけの裏切りをしてもなお、彼女と僕は続いている、と冗談のない真剣そのものの面持ちで訴えてくるのだから、僕としてもそれ相応の態度を伴って考えなくてはならない。
「海里にはなんて話せばいいのか……。あと、知音にもどう海里との関係を、傷つけずに伝えればいいんだろう」
胸に積もる不安は2つ。どちらも嘘偽りなく言葉で伝えればそれで済む話だ。しかし、そう簡単には伝えられない。コミュニケーション能力が人よりも数段欠けているという理由ではなく、もっと深く複雑な、たぶん両方の実を拾い上げることは不可能なのだろう。
海里と知音。僕は両名ともそれなりの関係が築かれていて、でも、少しでも間違えればすぐに崩れてしまうような砂の城のような強度の弱く脆いものだ。
「はぁ」
何度目かの溜息が宙を舞う。白の世界と1つになるように消えていく。
きっと何れ訪れるであろう真実を伝え交わす時。その時、僕と僕と繋がっている糸はどうなってしまうのか、更にきつく結ばれるのか、あっさり解けてしまうのか。
前者への切望と、後者への莫大な不安で一杯だ。
もし、片方の実しか掴みとれない結末を迎えてしまうのだとしたら。僕は、また逃げてしまうのだろうか。安全な方へ、安心できる方へ、心が安堵できる方へ、と。
人の賑わいが聞こえてくる。機械の動く音が、鳥が飛び立つ音が聴こえてくる。空はより一層厚い雲に覆われている。その先にある青を隠すように僕を見下ろしている。
飛行機にでも乗ればこの雲の上を伺い知れるだろうか。それで、何かが変わることはないだろう。けれど、今、僕は空の青が見たかった。
「あの夏の空が見たい」
地球の片隅で手を上げる。僕の手はこんなにも、小さいのか。実を2つ拾い上げることもままならないのか。僕の手はたった1人と繋ぐことしかできないのか。
「…………」
夏の日、僕は変わったと思った。知音の時に逃げてしまった僕から変われたのかと思っていた。でも、そんなことはなかった。
僕は選択をした。でも、その選択は誰にでもあるようなことの1つで、そんな選択を何度も何度も繰り返していってようやく答えが出る、それが人生だ。
僕にはそれすらも、そんな選択すらも簡単にはできないのだ。生を受けてから、その瞬間からスタートする人生という名の道。無限に広がる生き方の中で僕はどこに向かうのだろうか。
「……神のみぞ、知る、か」
伸ばした手の先には1匹のカラスがどこかの空へとまたたいていった。
放課後。私は屋上から見下ろして、生徒たちの乱雑な動きに目を向けていた。部活に行く者、校門を出ていく者、それは多種多様にそれぞれの思考に応じて、在るべき場所へと向かっていく。
そんな生徒達を高みから品定めするように見る私は、ここで何をしているのだろう。予定はないし、当然、雨則はいない。でも、彼との名残を、彼と共に昼食を取り、雑談をして笑い合ったこの場所に来たかっただけだ。
こうして見渡すと寂しい箱庭だな、と。それでも彼が一緒にいるだけで輝いて見えていたのだから雨則は本当に凄い。
すぐ近くのスピーカーからチャイムが鳴り響く。劈く、とまではいかないが、騒がしい音だ。放送部は音量量節にもう少し配慮してもらいたい。
でも、このチャイムは私の為に鳴ったのかもしれない、と後で振り返ってみてそう思った。
だって―――。
キー、と音が鳴る。これはスピーカーから出た音ではない。
それは。鉄の、重苦しい扉が開かれた時の音であると知っているから。
つまり。
「………どうして、ここに来たの?」
私は扉の方向、そこにいる彼女へ向けて、それが誰であるのかも織り込み済みで、確信を持ってその名前を呼んだ。
「夏樹ちゃん」
私―――瀬口海里の目の前には。
「ここにいるって、何となくわかってたから。海里ちゃん」
有田夏樹がいた。
夏樹ちゃんは私から目を反らさずにこちらに歩んでくる。逃げ道を塞ぐように扉が勝手に閉まる。寒く、肌を突き刺すような風が2人に吹く。寒い、それは事実だ。でも、今の私と、今の夏樹ちゃんには全く全然関係のないこと。
「夏樹ちゃん、私もね、貴女がここに来るんじゃないかって思っていたんだよ」
「へえ、そうなんだ。運命感じちゃうね」
夏樹ちゃんはいつも他人に見せる微笑で私と相対している。その笑みから滲み出てくるのはほんのちょっとの私への怨嗟。いろいろな感情を抑止しているような、それを我慢した結果、このような表情になったかのような、そんな。
「こうして面と向かって話すのはあの依頼の時以来じゃない?」
「………」
黙ったのは別に夏樹ちゃんの言葉に含まれている洒落的要素に思わず笑ってしまいそうになったからではない。
ただ、あの夏の情景を思い描いていただけだ。懐かしさを噛みしめていただけだ。
そんな私の沈黙を夏樹ちゃんは意にも返さず続ける。
「あの時は、ね。まさか貴女がそんなことをするとは思っていなかった。私、結構人気者だったから、それなりに生徒の情報は耳に届くの。
……貴女に頼んだ理由、わかる?貴女が一番私にとって無害そうだったからよ。学校に馴染んでいないわけじゃない、かといって浮いている存在でもない。これと言った特別な交友関係もない、彼氏がいるわけでもない。成績も悪いわけでもない、言いわけでもない。運動が得意なわけもない、不器用なわけでもない。……つまり、貴女は普通で凡庸で、つまり、ただ学校の空気に溶け込んでいるだけの子かと思ったから、だから貴女を選んだの」
別に何も感じはしないが、ひどい言われようだ。私は自分が特別ではないってことぐらいわかっている。彼女の言う通り本当に平凡なのだ。有名な駄菓子屋の娘だった時もあったけど、今はどこにでもいる女学生の1人なのだ。
「……そんな貴女は、いや、あんたは、気づけば私の雨則君と並んで歩いていた。ねえ、これ、どういうこと?普通で凡庸な貴女が何で私の雨則君を取ってんの?」
私は内心驚いていた。顔に出さないように注意しながら。夏樹ちゃん、凄い私を恨んでいる、憎んでいる。あの子のこんな表情、初めて見た。それだけ雨則が好きなんだ。
……でも、私も負けてない。
「取る?何言ってるの?夏樹ちゃん、雨則を自分から手放すようなことをした癖に」
「………どういう意味?」
「夏樹ちゃん、分かってたんでしょ?あんなことしたら雨則は迷ってしまうって。知ってた?雨則、クラスメイトから一時期無視されてたって。知ってたよね。夏樹ちゃん自身も似たようなものだったもんね」
当時の2学年の雰囲気ったらなかった。勿論、全学年全クラスに貼ったのだから全校がそれなりにざわついていたが、詳細を何を知らない生徒達は夏樹ちゃんを庇護するような形を、そして、雨則を敵視するような雰囲気を取っていた。
彼は何も悪くないのに。私には許せなくて堪えられなくなって、つい彼の下へと向かってしまったが。
「あれも計画の内よ。あのまま、あのまま順調に行ってさえいれば、雨則と私は誰にも何も言われない、干渉されない……そうなっていたのに」
「……それ、全部仮説でしょ?1から10まで貴女の望むとおりになるわけないじゃない」
「でも、状況は変わっていたよ。彼と私が進むためには、あれくらいのことが必要だった。立場とか境遇を変えるのって本当に難しいのよ。ねぇ、何故か学校のアイドルになった女の子が運命の男の子と結ばれたいが為に、どれだけの関門を潜り抜けなきゃいけないかわかる?」
夏樹ちゃんは私を恨み、憎み、それ以上にこのような立場に就いてしまった自分自身と環境を憎み、恨んでいるのだ。人は学校のアイドル、と聞くと羨ましがるし、なれるものならなりたいと考えるはずだ。しかし、それと同時に興味がなかったり、なりたくないと思う者もいる。
そんな後者のような人が周りの評価や雰囲気で勝手に特別な存在へと祭り上げたのなら。
人が羨む特殊さを持ち合わせていたら。
夏樹ちゃんは、きっと学校のアイドルになりたくてなったわけじゃない。空気が、彼女を取り巻く人の評価が勝手にそうしたのだ。
そして、彼女はそうならざる負えなくなってしまった。
「………ねえ、わかる?海里ちゃん。知りもしない人に告白されて、好きでもない人に告白されて。顔がいいって、綺麗って、それで皆がこれは断れないだろうって雰囲気と空気を作って皆が認めるイケメンに告白されて。
私が好きなのはそんなイケメンじゃない。廊下を歩くとたまに擦れ違う、どこにでもいるような男の子なんだよ。……入学式の時に名前を呼んでもらって、笑いかけてくれたあの男の子なんだよ」
激しく捲し上げる夏樹ちゃんの瞳は私の知らない時の夏樹ちゃんがいて、きっとその時の恋をしたであろう男の子の姿が映っている。近いのに遠い存在になってしまった男の子の姿があった。
「学校のアイドルって肩書は私には辛すぎた。痛すぎた。やめることもしたけど……できなかった。評判って意外と大きく広まってしまうから。噂って本人の知らないところまで広まってしまうから」
「…………」
「だから……。堂々と雨則の隣にいられる、私を学校のアイドルからただの女学生に変わることのできる方法はそれしか考えられなかった。だから、私は雨則を追い詰めてでも行動に移したのよ。……本当に私が雨則の辛さを考えてなかったと思う?」
冬の寒さなんてもう感じなかった。むしろ暑かった。たぶん夏樹ちゃんも同じだ。胸の内から込み上げてくる熱が、言葉として出ているか出ていないか、私と夏樹ちゃんの差はそれくらいしかないだろう。
「あんたはなんなの?なんで私から雨則を取ったの?理由があるの?雨則はあんたに悪いからって教えてくれなかったけどさ、なんなの、あんたと雨則は。どういう関係なの?」
夏樹ちゃんは1歩2歩、3歩と私に歩み寄ってくる。ずんずん、と擬音しても差し支えない程に地響きでもしそうなくらいに確かな足取りがこちらに向かってきた。
「………」
言ってしまおうか。でも、それで。夏樹ちゃんの話を聞いた上で、私の過去話をしたところで何になるというのか。現状が変化するのか。微々たるは変化が生じるかもしれないが。
「何とか言ってよ。海里ちゃん」
夏樹ちゃんは痺れを切らしたように私の口が開くのを待っている。
「………」
別に自分が悲劇のヒロインであると勘違いしているわけでもないし、その言葉を利用して逃げようなどとは思っていない。
「どうしたの?海里ちゃん」
「………」
でも、話してと、夏樹ちゃんはそう言っている。
「お願いだから、貴女と雨則の理由を教えて」
希うように、縋る様に。
「………分かった」
私の声はようやく外に出る。そして、ようやく夏樹ちゃんの耳に入る。
「話すよ、私の昔のことを―――――――――」
そして、昔話に思い出しながら、切り出そうとしたところで。
キー、とまた扉が開く音。
そして。
「あっ!いたいた、夏樹ちゃん!数学の先生が補習するから早く来いって呼んでいたよ」
なんとタイミングの悪いことか。扉が顔を出した夏樹ちゃんの友人であろう女生徒が声を上げた。
これには夏樹ちゃんも。
「あ、うん!分かった!今行くね」
「オッケー、じゃあ伝えたよ」
最後に私に会釈して女生徒はまた帰っていった。
夏樹ちゃんはあんな不機嫌な顔と声音から瞬時にいつもの微笑と可愛らしい声音に切り替えた。素直に凄いと思った。
そして、女生徒がいなくなって。
「はぁ、もう……。悪いけど私呼ばれてしまったから。また次会えたら聞くよ。その時は、絶対言ってね」
「………分かった」
「……そ、じゃあね。海里ちゃん」
「またね、夏樹ちゃん」
挨拶を最後に夏樹ちゃんも扉の向こうへと消えていった。そして、残された私は、「はああぁ」と躊躇わずに息を吐きだした。
……怖かったぁ。心臓高鳴ってるし、緊張ほぐれてものすごい安堵が漏れた。
壁に凭れかかる。ポカポカと身体が温かい。運動した後のような、頬とか赤くなっているだろう。
「……夏樹ちゃんもいろいろあるんだ」
まあ少しはあるだろうとは最初から思っていたけど、改めて夏樹ちゃんへの見方が変わった。
「……」
空は今日も雲に覆われている。それにもう薄暗かった。
……帰ろう。
もう、ここにいる必要はない。
「帰ったら読書でもしようかな」
それと。
「……雨則」
私が真っ先に頭に浮かんだ彼。無性に雨則に会いたい。会いたくて会いたくて仕方がなかった。胸がこんなにも締め付けられる。
「会いたい……会いたいよぉ。雨則」
私の願いは冬の空へと昇っていく。彼に届くだろうか。届いて、くれるだろうか。
ありがとうございました。
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