5 あの微笑は
雨則と夏樹の回。あとおまけで雄吾と三樹弥も
予想外すぎる展開だ。あってはならない状況だ。
僕は雄吾と三樹弥に次いで有田宅の玄関へと足を踏み入れる。
入った途端、頭がショートするように真っ黒になった。真っ白ではなく、真っ黒に。焼き切れたケーブルみたいに僕は僕自身の運動的、思考的機能が減衰していくのを感じた。
そんな使い物にならない僕の脳を埋め尽くすのは夏の情景。夏樹の家から漂う何となく懐かしい夏樹の匂いにあてられたのか、思い出すのは夏樹といた期間ばかりだ。
「雨則君、上がって?」
靴も脱がず、玄関で本当の意味で立往生する僕に夏樹の声がかかった。あの時と変わらない優しさで。
僕は意識の深層に穿たれた夏樹の声音に頷いてようやく靴を脱ぐ。
「あら?」
階段に足を掛けたその時。女性の声で、そんな言葉を鼓膜が認識した。
そして。
「貴方が北上雨則君かしら?」
と、あろうことか僕の名前、しかもフルネームを呼んできた。驚いた。僕ってこんなにも有名人だったっけ。
僕は視線を階段から女性の方へと向ける。
綺麗な女の大人の人だった。その瞬間に彼女が誰であるのかの察しがつく。
「夏樹の、お母さんですか」
語尾にクエスチョンを付けずに訊いた。問いかけなんかじゃなくてもう知っている人のような聞きかたになった。
「そうよ、よく来たわね、私初めて見たわ貴方のこと」
興味深げに僕のことを見つめてきた。それはもうまじまじと。僕はというと、情けないことに恥ずかしくなって、もじもじしてしまう。海里とある程度の経験はしてきたのだけれど、今回の場合は相手が悪すぎた。
こんなにも大人な、美しい女性に視界に収められて。
夏樹も大人になったらこんな綺麗な人になるのかな。
少しだけ興味が湧いた。
「皆、上に行ってるわ。後でホットティー持ってきてあげるから」
「ありがとうございます」
事務的に礼を述べる。生まれてから何かとあればお礼をし、謝罪をしてきたからもう癖というか無意識というか。どちらにしろと一生抜けることはないだろうな。
夏樹のお母さんがおそらくキッチンへと去っていくのを見届けてから階段を上がった。
パキ、パキと木造建築らしい音。僕の足が乗せられていくのと同時にパキ、パキ、と。
全11段を上がり終えた僕は真正面に一つだけある部屋のドアの前で立ち止まった。躊躇った。変な気持ちになる。
ここを開けて良いものか。
ここを開けることによってまた何か始まるのではないか。今度こそ手を打つことができないような、何かが。
今ならば帰ることができる。ほら、足を下げれば。回れ右をすれば。そして、玄関まで猛ダッシュすれば。
僕には海里がいる。どれだけ不甲斐ない奴と思われようとも海里なら優しく包み込んでくれる。
強烈に猛烈に激烈に……海里に会いたい。隣にいて欲しい。
「――――――――ぅ、ぅ」
泣き出しそうだ。弱虫な僕は嗚咽にも似た唸り声を上げてしまう。本当に弱いな僕って。
そんな、デカい苦手な蜘蛛が部屋の隅に出たみたいに固まっていると。
「あら、雨則君、そんなところで何突っ立ってるの?」
お盆の上に乗ったコースターの上に乗ったホットティーを危なっかしく持って僕を怪訝そうに見てくる夏樹のお母さんがいた。
「中、入らないの?」
「………あ、いえ、入ります」
半ば強制的にドアを開けざる負えなくなってしまった。緊張する心とそれに同期するように震える手に力を籠める。僕の心情をあの人に気取られないように努める。それは、つまるところ。
――――ガチャリ、と。
再び始まることの全ての禍根に成り得るであろう音と共に。僕は、ドアを開けた。
まず、感じたのは僕という個体を貫くほどの視線だった。それだけ射竦められそうになるけれど、やはり背中にいるあの人に悟らせまいと無理矢理足を前へ突き出す。
真っ黒になった頭は今度は真っ白になっている。コロコロと色を変える僕の脳は今どうなっているのだろう。
「や、やあ」
引き攣ったような笑みが出た。けれど、これが僕にできる精一杯の挨拶で。ここは目の前にいる3人にも譲歩してほしいものだ。夏樹と、たぶんすべてを理解しているであろう雄吾と三樹弥に心でお願いした。
僕は挙動不審のまま床に腰を落とす。次いで置かれたのはコースター。
僕は顔を上げてあの人―――夏樹のお母さんに「ありがとうございます」と告げた。階段を上る前と同じ音階で、そして会釈した。
それに対して夏樹のお母さんはニコリと微笑んできた。その笑みが夏樹に似ていて、僕は何とも言えない気持ちになった。この親あってこの子ありだな。
そう思わずにはいられなかった。
その後、この部屋に存在する、あの人以外全員分にコースターが置かれ、「ゆっくりしていってね」と言って部屋を出て行った。
階段を下りる音がどんどん下へ下へと流れていくのを聴いた。
「ママの淹れたホットティー美味しいよ。温かいうちに飲んでね」
開口一番に声を発したのは海里だった。そして、視線は僕だけにあった。雄吾と三樹弥は気づいているだろうが、無視して、「そうなのか、いただきます」と早速口を付ける。ティーカップの側面に触れたら結構な熱があったから少々心配になったけど。
「………うん、美味しい」
「よかった。ママに後で言っておくね。評判良かったよって」
「じゃあ僕もいただくよ」
次は三樹弥が飲む。動作が何とも可愛らしかったがここでは何も言わないでおくことにした。決して猫舌ではないけど、何度かペロッと水面を舐めて、意を決したようにちょびちょびと飲み始めた。
可愛い。ただそれだけが感想だった。
「三樹弥君も美味しかった?」
「うん、とても」
「そう」
三樹弥にも同じことを聴いて、同じような回答を貰っている。
………と、なると、お次は。
「雨則君、飲まないの?」
そうくるよなぁ。当たり障りのない質問なのだけど、僕にとってすれば生きるか死ぬかの選択を迫られているような、それくらいの圧力のかかる詰問を受けているように思えてくる。
勿論、夏樹自身そんな気は塵もないのだろうけど、僕の夏樹に対しての印象は、夏から現在にかけての時間の中で大きく変化してしまっているのだろう。
「………うん、いただくよ」
何とか絞り出した一声。カップを手に取って口元に付ける時に、ちらりと夏樹、ではない、雄吾と三樹弥を見やった。
「………」
二人とも僕を気遣わしげに見ている。
今の僕には海里という彼女がいる。それは周知の事実だ。それでも、それを知っていてもなお僕と夏樹の仲を取り次ごうとしてくれるのは、きっと。
僕が夏樹に罪の意識を感じているのと同じように、雄吾と三樹弥もまた、あの時、僕と夏樹の逢瀬から生じた擦れ違いと二人の仲を引き裂いてしまったことに罪を感じているのだろう。
「美味しい」
だから、このお茶が美味しいという事実と夏樹と僕の問題に介入してきた二人を少しでも安心させるために静かにそう呟いた。
「………ありがとう」
夏樹は目を見開いて感謝を述べた。何故、そこまで驚いたのかはわからない。けどたった一語の短すぎる一言だったけど、夏樹はすごく嬉しそうだった。
「ねえ、雨則君、海里ちゃんとは上手く行ってるの?」
けど、次の問いかけで僕の心は震えた。夏樹は微笑を崩さぬまま僕の顔を、詳しくは目を見ている。
「うん」
別に海里との関係にやましいものはないから考えもせず肯定した。
「それもそうだね、見ててわかるもん。とっても仲良さそう」
「…………」
「ねえ、知ってた?あの夜、写真を撮ってくれたのって海里ちゃんだったんだよ」
「………うん、海里自身は言ってないけど、気づいてるよ」
「へえ、……そうなんだ」
何が言いたいんだろう、夏樹は。
「ねえ、雨則君、海里ちゃんの何がよくて付き合い始めたの?……正直、ルックスなら負けてないと思うんだけどぉ……って、もしかして、胸?」
「は?」
耳を疑った。あまりに爆弾発言だった。雄吾も三樹弥も目を丸くしている。
「だって、雨則君知ってるんだよね、海里ちゃんが私との写真を撮ってばらまいた本人だってことを」
「……いやいや、やらせたのは夏樹だろ?」
「まあ、確かにそれはそうなんだけど。でも、海里ちゃんはそれを狙ってたってことだよ。わざと私と雨則君の仲を引き裂いて」
「狙ってたって人聞きの悪い……って言われたらそうかもだけど」
「でしょ?だから分からなかったのよ、ずっと。どうして貴方と海里ちゃんがこんなにも発展してしまったのか」
「そりゃ……それは……」
夏樹が知らないのも無理ない。なんたって、海里との縁をずっと昔から繋がっていたんだから。
「ねえ、話してよ」
僕を覗き込むように、動揺する僕を鋭く洞察してくる。僕の目を見つめてくる夏樹の目は僕の深淵を覗いているかのような錯覚を感じる。
迷う。本当に話していいものか。この話は、海里にとってはすごくデリケートで、そう易々と吹聴していいような出来事ではない。
「悪いけど、僕の一存では何も言えないよ」
「どうして?」
「海里が悲しむから」
僕の答えは単純だった。そして、そんな単純で同時に海里を擁護する意味を含んだ言葉が僕の口から零れ出たことに自分自身が驚愕していた。罪の意識に苛まれ続けている僕が言ってはならない言葉でもあったが。多面的で良し悪しのどちらにも取れる理由で。
「………そ」
と、だけ。夏樹はそれだけしか漏らさなかかった。きっとまだ何か言いたかったのだろうけど、夏樹の何かがそれを押しとどめたのだろう。
「分かった、この話はもういいわ。ごめんね、雨則君、変なこと訊いたりして」
先ほどまでの鋭い眼光は鳴りを潜め、相貌は和らぎに変わった。
夏樹は理解したのだ。雨則は何も言わないし、言えない。そして、私自身も何も訊くことができない、と不文律じみた了解がこの間に行われたのだ。
「ううん、こちらこそ、ごめん」
僕と夏樹の妙な理解の良さに雄吾が眉をひそめた。三樹弥も同様に「え、終わり?」というような反応をしている。
分かるはずもない。なんたって、これは、この心の読みようは夏の当事者でない限り絶対に理解できるものではないから。
「ホットティー、もう一杯飲む?」
ふいに夏樹の声がした。その声は今雄吾に向けられている。
「あ、あぁ、ありがとな」
夏樹のお母さんが置いて行ったお盆の上にはカップと同じ柄のポットがあった。雄吾は2杯目を飲もうとしている。
「三樹弥君は?」
「ううん、僕は結構です」
「そう」
そして。最後は。
「雨則君はどう?」
と。素直に美味しかったお茶。カップを見れば、もう底が丸見えになっている。もう少しいただこうかなとも思ったが。
「いや、僕も、いいよ」
そう返した。
「……そう」
僅かな沈黙を挟み、夏樹はそっとポットを横に置いた。そのタイミングが頃合いであると判断して、決心した。
「ごめん、僕はそろそろ帰るよ」
ゆっくりと立ち上がる。服を整える仕草をして。
「じゃあ、今日はありがとう」
「え、もう帰るの?」
そこで、ようやく夏樹は焦るような口調で僕を見上げてきた。ちょっぴり残念そうだ。
「ああ、ごめんな、じゃあ、また」
「あ、おい、雨則」
雄吾の制止にも耳を傾けずドアを開ける。開け放たれたドアは外からの空気を感じさせていて、死地からの脱出成功を思わせた。
最後に聞こえたのは僕に待ったをかけた雄吾を「いいよ」と止めた夏樹の声だった。
階段を下りる。急くように、でも人様の家であるという事実を忘れずに一段一段に確かな重力をかける。付随するように軋む木材の音。夏樹たちにも聴こえているだろう。
11段。下りきった僕を待っていたのは、丁度どこかの部屋から出てきた夏樹のお母さんだった。なんてタイミングの悪い。
「あら、どうしたの?お手洗い?」
「……いえ、今日はもう帰ろうかと」
「え!もう帰るの?まだ来たばかりじゃないの?」
「はい、もう要件はすみましたから」
「そう」
見れば両手には幾つかのお菓子が入った籠があった。今からこれを2階に持っていこうとしていたのだろうか。
相手が相手である以上邪険にはできないが。でも、今の僕にはこの人の親切心を同じ親切心で返せるほどの余裕がなかった。
「お邪魔しました」
ペコリと頭を下げた。泉のように湧いた罪悪感に蓋をする。こうすることで頭を下げても水が零れ落ちたりはしない。人には見えない自分の泉から水が減ることはない。
「うん、また来てね。………夏樹をよろしくね」
「………はい」
よろしくね、とは何を指しているのか。友達としてか、恋人としてか。この人はどこまで知っているのだろう。どこまで察しているのだろう。
彼女の微笑は夏樹にそっくりで、そんな表情を貼り付けたまま僕が玄関の扉を開けるのを見送り続けていた。
ありがとうございました。
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