12 在りし日の彼女の例
今回は美容回です。
視点が海里に切り替わります。
小学六年までの私は、何をするにしても失敗ばかりしていた。そのため、父から無能と蔑まれ、殴られ蹴られ罵られる、そんな日々の中に生きてきた。
今日だってそうだ。接客でお客様から思いもよらぬ質問が来て、つい口籠ってしまった。不運にも、その様子を見ていた父は客足が減った時を見計らって私に殴りかかってきた。
「これで店の評判が落ちたらどうするんだ!この愚図、無能がぁ!」
そう言って次は私の太ももを蹴り上げた。鈍器で殴られたかのような痛みが足中を駆け回る。父は、あまりの痛みに悶え苦しむの私ををまるで愉しむかのように見ていた。
「おいおい、涙なんか流してよぉ。店の床が濡れたらどうするんだぁ?ちゃんと掃除しとけよ?お前のきったねえ涙なんか誰も飲んでやくれねえぞ」
「………ごめんなさい」
「聞こえねぇよっ!」
今度はお腹に痛みが走った。吐きそうになった。吐くことはなかったけど。吐きそうな体勢で苦しむ。痣になるだろうな、これ。
「あぁあぁ、きたねえ、きたねえ……。次の客が来るまでに掃除しとけよ?」
私を痛めつけるのに飽きたのか唾でも飛ばしてきそうな顔をしながらどこかに行ってしまった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
誰もいなくなった歴史深い和菓子が並ぶ店の一角で嗚咽を漏らしていた。
私、戸木島海里は代々継がれる和菓子を制作・販売する店の一人っ子として生まれた。祖先の祖先のそのまた祖先から口伝し、受け継がれてきた技と業を今代は私の父に伝えられた。
あの父に、だ。私に見せるおそらく本性の部分の父はどうしようもないくらいにクズで救いようがないのだけど、他人に見せる姿はそれはもう完璧で理想の男を体現していた。職人としての才能と技術は名店の名に恥じないものだった。
接客の時も、あの父と同一人物とは到底思えないほどに素晴らしかった。巧みなコミュニケーションと洗練された接客術。男前なルックスをしている父は、あらゆる層から人気があって、特に若い女性とおばさまには相当なモテモテっぷりだった。
結婚していると知っているのに愛の告白をする女性もいて、大抵は爽やかに流すが、特に目についた女性にはしっかり声をかけている。そういった女性には秘められた本性を曝け出していた。そんな父は人間として最低だけど、男としては正しい在り方なのかもしれない。
男としての欲求とか欲望とか父にはそんなものに誰よりも忠実なのだ。だから、私は父の欲望とか欲求以外に溜まった鬱憤とか鬱積の捌け口になっているのだ。
そのことを私は当時小学六年ながら自覚していた。
「…………」
私は父の言いつけ通り雑巾がけをした。自分の唾液とか床に付いていないという確証がないから、取り敢えず拭いた。幸い、お客様は一切来なかったから父の顔を見ずにすんだ。父の顔を見られないのなら私は幾らでも雑巾がけをしていられる自信がある。
どれほど有名な和菓子屋であっても午後七時を過ぎると客足はすっかり途絶えてしまう。
私が寝転んでいた場所だけでなく、客が踏み込むであろう店内全域まで雑巾がけをして、終わった頃にはそんな時間になっていた。
雑巾を片付けて、店から数十メートル離れた二階建ての一軒家へと向かう。
ここが私の家で、実家だ。
「ただいま」
家の決まりで帰ってきたら玄関で挨拶するようになっている。天井が高いから声は家中に響く。
「あら、おかえり海里。遅かったわね」
リビングの方から母さんが現れて優しく迎えてくれた。
「うん、片付けしてたら気合い入っちゃって」
吐き慣れた嘘はもう息を吐くように言う。最近では表情を一切崩さず言えるようになった。これで母さんは完全に騙すことができるようになった。疑いの目など一切ない。
「そ、お疲れさま、ご飯できるから手を洗っていらっしゃい」
「わかった、今日はなんなの?」
「んー?それはナ・イ・ショ」
「あはは、母さんクラスの子みたい」
「あら、そう?若くなった気分だわ」
「母さんは今も若いよ」
「お上手ね」
と、母さんはニッコリと微笑んだ。もう三十後半になるというのに母さんは綺麗だ。瑞々しくキメ細やかな肌は同年代のお母さまの中でも頭一つと言わず、二つも三つも抜けていた。
母さんを知らない人から見れば二十代のように映るだろうし、もしかすると女優とも間違われるかもしれない。
それくらい、母さんは綺麗だった。
洗面所で手を洗う。うがいする。律儀に三十秒指の一本一本を丁寧に洗う。和菓子屋の娘として清潔には誰よりも気を遣わなくてはならない。潔癖症とまではいかないが、それくらいの心持ちでいないといけない。
リビングのドアを開ける。そこには母さんしかいなかった。
「あれ、父さんは?」
「部屋にこもっているんじゃないかしら」
「そうなんだ」
「一緒に食べたかった?」
「……うん、まあ、ね」
嘘だ。内心はこれ以上にないくらいに安堵していた。ここにあの人がいないだけで世界が輝いて見える。
そんなこと母さんの前では言えないし顔に出したくないからわざと俯いてあたかも寂しそうに見える態度をとった。
「ま、母さんと一緒に食べましょ。……はい、じゃーん!今日はクリームシチューです」
「え!やった!」
これは素直に嬉しかった。なんたってクリームシチューは大好物だ。まあ、カレーの次だけど。ちなみに一番好きなのはグラタンです。
母さんが椅子を引いて私に座れと頷いてくる。
「ありがと」と言い、座る前に冷蔵庫からほうじ茶を、食器棚からコップを取り出して、席に着いた。
コップにほうじ茶を注いでいると、私の前にシチューが置かれた。野菜とコーン多めが多めで米が少ない印象だ。
「いただきます」
「はい」
お茶を横にどけてシチューを手前に持ってくる。
スプーンを持って、ルーを米にかける。そして、米を底から掬い上げ口に運ぶ。家の味がした。もうずっと食べてきた私専属の料理人である母の味だった。
「これも食べといて」
「うん、わかった」
と、テーブルに置かれたのはサラダだ。母さんがある日「女の子足るもの、美得るためにはサラダから」なんて半ば格言染みたことを言って、それから毎日食事に出すようになった。
母さんは、私が野菜を得意ではないと分かっているのだろうか。
だから、ある程度食事が進んだ頃合いを見計らってテーブルに置くようにしているのか。好きなものを食べさせておいて、これも食べてくれるよね、なんて言われたらそれはもう食べるしかないだろう。
だから、未だに好きになれない野菜を食べる理由を与えるのは母として当然の責務なんじゃないだろうか。
日に日に量は変わらないが質は変わっていっている野菜を食べる。すっかり食べ慣れた母の味がした。
「ご馳走様」
「はい、じゃあ、次、お風呂入って来てね」
「分かったー」
完食した食器を母さんに渡して、私はお風呂場に向かう。家にいる中で自分の部屋でゴロゴロすることの次に好きなお風呂の時間だ。
あまり実感はないけど私の家は街の中では指折りの邸宅であるのだという。有名な和菓子屋であるということからある程度予想はできるだろうが、こうして広々とした脱衣所まである。
流石に温泉の脱衣所のような広さはないが、二十人は入るのではないだろうか。
そんな空間に私一人だけ、というのもどこか寂しい感じがする。
まあお風呂に入るのも身体を洗うのも私一人だし、一人でもできるようになったし。
それに、一人でお風呂に入ることができて少し大人になったかのような気分になる。
私服を脱ぐ。胸の辺りで少し引っかかる。そこまで気にする必要はないけど。これ、ちょっと邪魔だなぁ。
ここ最近になって急に胸が膨らんできた気がする。母さんは、私に近づいてきている、と嬉しそうに言っていたけど、同年代の子はまだ私ほどの悩みはないのだと言う。個人差があることは分かるが、服を脱ぐ時とかやっぱりおかしいと感じてしまう。
丈の長いスカートを脱ぐ。
チャックを下げる。重力に従って勝手に床に落ちる。
こうして私は白のブラとこっちも白のパンツ以外の肌を曝け出した。CよりのBだとかなんだとか母さんは言ってたけど、そもそもバストなんか年に二回くらい行われる学校の身体検査でしか測らないし、アンダーバストとかなんとか言われも正直知らないし、気にもしない。
ただ、友達より少し変わってきていることに恐怖心というか恐ろしさを覚えてしまっているのだ。
女子は平均を望む。出過ぎても引っ込み過ぎてもそれは平均ではなくなる。クラスで人気のある男子を好きになって告白することも女子の中では平均から大きくズレることになるのだ。
おかしな話だ。皆カッコイイ男子に見てもらいたくてお洒落な服を買って、ダイエットをして、規則正しい生活を送るというのに、これじゃあ努力を棒に振っているのと同じだ。
ブラのホックを外し腕から下ろしくていく。最後にパンツを脱いで洗濯機へ投げ入れる。ブラジャーだけは型崩れしないように別にボールの中に内包しておく。
こうして生まれたままの姿で浴槽へのドアを開けた。
女子はお風呂の時間が長い。まあ、これはたぶんだけど、男子よりもすることが多いからだ。
シャンプーからトリートメント。髪は長ければ長いほど手入れに時間と労力はかかるし、身体を大雑把ではなく、隅々漫勉なく洗わなければならない。
そして、ゆっくりお湯に浸かって、最後に待っているのは洗顔だ。洗顔料を適量手に取って、泡だて器で泡立てる。その時に、水はあまり使わないようにして、純正な泡を作る。そのような泡は、掌に乗せて、それを地面に向けても落ちはしない。
お次に、泡をTゾーンというおでこから鼻にかけての部分に優しく塗り込む。その後、頬っぺた全体、そして、顎周りと順番を決め、丁寧に泡を乗せていく。
この時、肌に手が触れた感覚がしないよう、泡を動かす。顔全体を洗ったら、ようやく終わりだ。最後に泡を洗い流す。温度は三十度前後くらいのぬるま湯で、だ。泡が残っていたら元も子もないので何十回と何度も顔にかける。
これで洗顔は終了だ。あくまで私の、だが。美意識が高い子は、この前後に角質摂りをしたり、ビタミンを取り入れる洗顔をしたりなど、私には考えもつかないことを考えもできない時間を掛けて行っている。
まあ、私は最低限しかやっていないから一時間はかからない。面倒に感じる時もあるけど、何よりお風呂が好きだから、その延長線だと思ってやればそこまではない。
ポカポカになった身体のまま浴槽を出た。脱衣所の中はひんやりしていた。お風呂上りの私には最高に気持ちよかった。
蓋によって閉じられた籠の中からバスタオルを取り出す。乱暴に髪を拭かず、ポンポンと軽く抑えるように水気を取っていく。これも面倒に感じてしまったらすぐにやらなくなってしまう。
そんな面倒くさいと思えることを習慣的に行うのが美しくなるための秘訣であると母さんは言っていた。私としてはどうでもいいけど、母さんが五月蠅いから毎日やるようになった。
私の場合、そこまで髪も長くないから苦労することはない。
身体も拭き残しがないように気を付けて注意しながら拭く。カビとかニキビの原因になったりするのだと。
考えればそんな美に関することは全て母さんの教えだ。母さんが若々しくて綺麗なのはそんな日々の積み重ねの成果なのだろう。
家の中専用の薄着を下着の上に纏って私は脱衣所を後にした。
「母さん、上がったよ。次いいよ」
私はまだリビングでせっせと家事に勤しんでいた母さんにお風呂から上がったことを伝えた。
結構な働き者である母さんは、しっかり伝えないとお風呂のことも忘れてずっと家事をし続けるかもしれない。そんなことはないかもしれないけど、こんな綺麗な母さんが化粧をしないと綺麗になれなくなってしまったらショックだ。私は自分よりも母さんの美しさを考えている。
「あら、分かったわ、じゃあ、入ってくるわね」
「うん」
母さんは洗い物を一旦中断して、リビングを出て行った。一人残された私は、流しに置きっ放しになっている食器を洗い乾燥機の中へ入れた。なんとなくしたかった。
洗い物を終わらせた私は家に何ヶ所かある洗面所へ行った。今回はトイレのすぐ横にある小部屋に私は入った。
手に持っているのは化粧水やクリームなど保湿アイテムだ。せっかく洗顔で落とした汚れも保湿をしなければただの即効薬だ。
まずは何をするにしても化粧水からだ。顔パックを使うのがいいのだろうが、私の場合コットンを使う。いや、コットンの方が一般的か。
コットンに化粧水をべったりと浸ける。肌の奥にまで浸透するようにパックする。
ただ貼り付けたまま放置するのではなく、少し押さえつけることが大事だ。肌がもっちりとした感触を得たら完了だ。
次はクリームだ。これは肌質によって変化する。大きく分けて五つある肌質は、例えば、脂性肌の人は量を少なめにし、逆に乾燥肌の人は多くするのように自身がどれに分類されるのかをしっかり理解した上で使用することでより効果を得られる。
今は出来物が私にはないためこれだけで済んでいるけど、思春期の真っただ中にいる私達学生は特にニキビが天敵だ。私のクラスの男子も数人そういった症状が出てきている。
肌にはあまり気を遣っていない私でもニキビだけはできないようにしたい。自覚はないけど、そのためにこうして洗顔と保湿を毎日しているのかもしれない。
以上で全ての工程が終了した。あとは歯を磨いて寝るだけだ。あ、あとドライヤーで髪を乾かすのも忘れずに。
こうして私の夜は終わる。家の中で父の顔を見なかった最高な夜が終わる。
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