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僕と、三人と、夏と、  作者: 齋藤夢斗
「前篇」高校二年 夏
10/39

9 ファーストキス

ちょいと長いです。


 少しずつ、ほんの少しずつだけど雲は増えていっていた。雨でも降るのかってくらいに。巻層雲って薄雲とも呼ばれている。名前通り、厚さ自体はそんなにない。

 


 でも、何故だか僕は今日の夜か明日にでも雨が降りそうなんて思ってしまった。

 終礼が終わって、さっさと教室を出て、昇降口まで下りて、靴箱でローファーと取り替えて、玄関を出て。

 


 「…………ぁ」

 


 どうにか声を抑えることができた。息が漏れたようにしか思われないだろう。

 


 「…………」

 


 玄関を出てすぐ。雨でも降っているわけではないのに、傘を持って、柱に凭れかかっている女子を見つけた。

 黒い傘を持っていた。女子一人が使うにはそこそこキャパシティに余裕があるくらいの。

 


 「夏樹」

 


 そんな様子の夏樹を見て、僕は名前を呼んだ。見ればわかるだろうに、何となく読んでみたくなった。

 


 まだ、二日間しか経っていないというのに、ひどく懐かしく思える響きだった。一人で呟いていたことは何度かあったけど、こうして面と向って言うのは新鮮だった。

 


 「……‥‥‥」

 


 けど、そんな僕の呼びかけに答えようともせず、夏樹は今日も僕の目を見てきた。

 そして。

 


 「雨則君、何かあった?」

 

 「え、何で?」

 


 なんと、夏樹は僕に話しかけてきた。でも、夏樹の顔は微笑、ではなく、困惑だった。

 何かあった?とそんなことを言われて。いろいろあったけどと返そうとして、咄嗟に呑み込んだ。

 心当たりがあったから。

 


 「君の目、今凄く迷ってるよ。というか、恐れている、のかな」

 

 「………何を言って」

 


 わかっている癖に。何とぼけてんだ。かまととぶるなよ、自分。

 


 「君は私のこと大分分かるようになった。でも、それ以上に私は君の事を知っているだよ。見てきているんだよ」

 


 靴箱にも、昇降口にも僕と夏樹以外誰もいない。誰かが来る気配もない。

 だから少しぐらい大きくなった夏樹の声も誰かに聞かれることはないだろう。

 


 「何かあったの?」

 


 もう一度、問われた。

 問い詰めるように、心配するように、脅迫するように、気遣うように。善悪どちらとも取れる声音。優しいのか、怖いのか。

 


 「…………」

 

 「黙ってても分からないよ」

 


 知ってる。黙ってても何も始まらない。それは僕と夏樹の関係と同じだった。

 夏樹は、前へと進むことを望んだ。僕は、停滞を望んでいる。望んでいるけど、夏樹にはまだそれを伝えていないし、伝える勇気が湧かない。まだ、迷いだってある。夏樹と共にどれだけ苦しくても前に進むことを望んでいる自分もいる。

 


 パラレルワールドの自分はどちらを選んでいるのだろう。正解しているのだろうか、不正解だろうか。できることなら正解の世界線の僕と交代してもらいたい。ま、そんな能力この世にあるわけもなく、一度しかない人生の一度しかない今に、一秒先の未来を目指して選択していくしかないのだ。

 


 失敗は許されない。やり直しできない。人生ってのはとんでもないくらいにハードモードだ。

 一秒一秒生きていくことさえも難しい。

 


 「ねえ」

 


 だから、予知能力すらもない僕は

 


 「何も、なかったよ」

 


 何が正解なのかもわからないまま、選択をするのだ。 

 


 「………そう」

 


 夏樹は僕の答えにそうとだけ漏らした。正しいとも違うとも言わず、そうとだけ。

 ごめんな、夏樹。僕は自分すらも信じられないんだ。きっと君はそんな僕を受け入れてはくれないだろう。普通に接してはくれるけど、これまで以上には進ませてくれないだろう。

 


 「…………」

 


 僕は夏樹から目を逸らし、一人歩き出した。「待って」とも「じゃあね」とも背中からは聞こえては来なかった。

 


 でも僕は、心の中だけど「ごめん」と「待ってて」とは言えた。

 校門をでた頃に気になって一度振り返ってみた。まだ、夏樹らしき影はそこにあった。立ちつくしているように見える。それとも柱に凭れ掛かったままなのか。

 生徒が校舎から出てきた。皆鞄を持って各々散らばっていく。

 


 「…………」

 


 また明日な。僕は踵を返し、学校を後にした。まだ、あそこにいるのか、夏樹。

 


 部屋に戻った。誰もいない。僕しかいない。部屋はむさ苦しいほどに暑かった。陽が際限なく窓から部屋に入ってきている。すぐに冷房の電源を入れた。

 


 ピッと静寂に落ちた部屋に音が鳴り響く。やけに大きく響いた。

 すぐに冷気が部屋に降り注ぐ。

 


 僕は汗で引っ付いたYシャツと下着を脱ぎ、すぐに洗濯機にぶち込んだ。もちろん、ズボンは消臭スプレーをかけハンガーに、パンツは下着と同じく洗濯機に。

 


 このままタオルで拭いて汗をとっても構わないかもしれないけど、シャワーの蛇口を捻った。冷水が頭にかかる。息が止まるかと思ったほどの冷たさ。恐ろしい速さで僕から体温を奪っていく。

 


 すかさず温度を上げた。少しずつシャワーは熱を発し始める。今度は熱い。身体中火傷するかと思った。

 僕はまた温度を下げた。今度は、普段と同じくらいにする。

 


 「……………」 

 


 身体は麻酔を打たれたみたいに何も感じなかった。これは熱いのか冷たいのか。僕の体温と皮膚がおかしくなったのか。

 そんな、曖昧な境界で僕はただただシャワーに当たり続けた。

 


 「………はぁ」

 


 バスタオルで頭を拭く。がしがしと強引に水分を取っていく。拭き取り終えてバスタオルを髪から離したら僕の髪は爆発していた。それはもう大爆発していた。

 


 「ははは………」

 


 乾いた笑みが漏れる。けど、すぐに下らないと思い無表情に戻る。

 すぐには外出しないからまだドライヤー使わなくてもいいだろう。僕は上半身を拭き終わり次第、下着を着た。同じように下半身も拭いて、パンツを履く。

 


 リビングに出てきた僕に待っていたのは疑似天国だった。そう、まるで天国のような空間だった。このままベッドに飛び込んでしまいたい。そんな欲求に駆られてしまう。でも、このまま眠るわけにはいかない。だって僕にはまだやらなければならないことがあるのだから。まだ考えなければならないことがあるから。

 


 どうにか欲求に抗い、僕はソファーに座った。そのまま思考の渦へと呑み込まれていく。

 結局一時間悩み続けた結果、答えは出なかった。迷いは晴れなかった。 

 


 「はぁ………」

 


 一時間という時間の中で得たものと言えば疲労感だけだった。

 ソファーから立ち上がる。向かったのはベッド。

 


 「疲れた……」

 


 飛び込んで、寝た。

 


 目が覚めたのはとっくに日も沈み、太陽の光ではなく、電気によって生まれた光が建物を照らしている時間。眠気眼を擦って時間を確認してみれば、もう20時を回っていた。

 設定温度を下げずに寝てしまったからか頭が痛かった。幸いにも、掛布団でお腹は隠せていたから、もっとひどいことにならなくて済んだ。

 


 「ご飯、食べにいこ」

 


 床は思った以上に冷たかった。外からの光を頼りにクローゼットを開ける。適当に見繕って、それを着る。ソファーに座って靴下を履く。ソファーまですっかり冷たくなっていた。

 


 冷房の温度を下げ、カバンの中にいつも入れている財布を取り出す。中身は確認しなかったけど、まあ、足りるだろう。

 ローファーではなく、スニーカーを履き、僕は外へと繰り出した。

 


 相も変わらず外は虫の鳴き声だったり、蒸し暑さだったりでまさに夏だった。再来週から始まる夏休みに入ればもっと暑くなるだろう。これからが本番というわけだ。そう考えるととてもじゃないが生きていけるようには思えない。道端で溶けて死んでしまうんじゃないか、なんて年齢に見合わない想像をしてしまう。そういえば去年も同じことを考えていたっけか。

 


 流石に徒歩は辛い。通学は申請を出さなくてはバス以外の交通手段で登校することはできないが、こういったプライベートの場面にまで口を出されることはない。だから、わざわざ歩かなくても自転車や電車に乗ればいいじゃないか、なんて思うだろう。

 


 しかし、僕は、そんな交通手段について考える以前に徒歩でしかいけない理由があった。まずは、自転車だ。まあ、これは、そもそも所持していない。よって論外。次に、電車。これは金の問題だ。僕の生活はおばさんとおじさんの仕送りに頼っている。百パーセントだ。

 


 月々の学校の授業料と、アパートの家賃、そして毎日食べられるだけの食費を用途として送られてくる。その金額はそれ以外のことに使えるほどそこまで余裕はない。精々月1か2くらいでカラオケに一日入り浸れるくらいだ。一人暮らしを始めた当初は金銭面に気を配っていた為、それなりに娯楽に回すことが出来た。

 


 しかし、今ではすっかり金銭的感覚など狂い、毎日コンビニの弁当や外食をしてしまっている。ならば自炊しろ、なんて意見が当然出るであろうが、三日坊主である自負がある僕だ。数日もすればまたこのような生活に逆戻りしているであろう。



 だったら、もう今のままでいいやと、堕落していく。何度もやろうとはしたさ。料理の参考書なんかも買って、包丁に握り方とか猫の手とか。そんな初歩的な部分はできるようになったはいいけど、やっぱり辞めてしまった。んで、諦めたらまたこの生活に戻る。繰り返しだ。ループだ。

 


 だから絶対的に自分の自業自得であるけど、こうして愚痴を零してしまう訳で。本当、救いようがねえな僕って。

 


 付近では一番の通りに出る。この辺りは今でも人通りが多い。深夜でもそれなりの人口密度になるのだから、近所の人は繁華街なんて呼ぶ。

 


 どこも眩しいくらいの明かりを灯して、夜なのに五月蠅いくらいの声量で接客している。通りを歩く人も同様に声を上げている。まるで何かの祭りみたいに錯覚するが、それは僕が地方出身であるからで。去年上京してきた僕には未だこんな喧騒は馴れない。 

 


 そんな通りを少し行った先にある行きつけのファミレスに入る。地方にも分店があったからもう数年来の付き合いだ。

 


 「いらっしゃいませー」と女性の店員さんが来店した僕を迎い入れる。人目僕を見て、すぐに目を逸らし、注文を取りに向こうに行った。客の人数を数えたのだろう。僕一人なんだけどね。

 カウンターに立っている別の店員さんが「一名様ですね、こちらにどうぞ」と促してくれた。

 


 ついて行った先はしっかり禁煙席。しかし、僕一人が座るにはやや広すぎるソファー席だった。複数人用だと思うけど。

 席に着くとすぐにお冷やが置かれた。お絞りも付属して。

 


 「すいません、注文いいですか?」

 

 「あ、はい。伺います」

 


 立ち去ろうとした店員さんが僕の声に振り返った。注文機を持ち準備している。

 


 「えっとーじゃあ、『ふわとろ卵アンドチーズ入りハンバーグ』のご飯セットで」

 


 最早メニューなんて見なくたって言えるいつもの料理を注文した。

 


 「かしこまりました……『ふわとろ卵アンドチーズ入りハンバーグ』のご飯セット、ですね」

 


 手際良い手捌きで入力していく。そして、入力が終了したところで「他にありませんか?」と確認してくる。

 一瞬ドリンクバーと考えてしまったが、「いえ、結構です……」と押しとどめる。これ以上無駄な出費は生活に関わる。

 


 「かしこまりました、では暫くお待ちください」

 


 店員さんは一礼して厨房の中へと消えて行った。と、思ったらどこかの席からの呼び鈴が鳴った。今空いている店員さんはいない。従って、対応に当たったのは今しがたのあの店員さんだった。本当に忙しないな。

 


 行きつく暇もなくあちこち駆け回る店員の労を心の中で労いながら僕はソファーに凭れかかった。そこまで柔らかくないため思ったより沈まない。

 それでも十分心地よい。冷房はガンガンだし、飲み物だってあるし、何もしなくても料理は運ばれてくるし。

 


 「…………」

 


 また、二人のことを考える。

 放課後、誰もいない玄関先での夏樹との一件。昼休み、屋上での海里さんとの一件。そして、二日前の写真の一件。

 


 同時にあまりに難解な出来事が多発している。もう僕の手と脳には補いきれないくらいに。

 しかし、多発しているからといって考えることはたったの一つだ。

 


 あの選択。進むか退くか。何度も何度も考え続けている選択。この選択を行うだけで全てが解決する。逆に、全てが崩れ落ちることだってある。

 


 だからこそ考える。だからこそ深く考えなければならない。それが夏樹の為であり、僕の為である。 

 


 「……そうだ、海里さんとか夏樹とかじゃない。この選択さえ間違えなければいいんだ」

 


 店内の騒がしさの所為で消されてしまった僕の呟き。

 そう、単純なことだ。

 


 「……お客様、お待たせしました。『ふわとろ卵アンドチーズ入りハンバーグ』ご飯セットでございます。お支払いはこちらの控えをレジまでお持ちになってください」

 

 「……あ、はい」

 


 気付けば目の前には料理が運ばれてきていた。横にはさっきの店員さんがいた。

 もう出来上がったのか。いつもより早いな。感心、感心。

 


 一旦思考を切り上げて、食事に専念することにする。ポケットからスマホを取り出す。そんなにゆっくりはできないけど、まあ、いいだろ?

 


 スリープモードのスマホの電源を入れる。側面にあるスイッチを押す。一瞬で黒画面から眩い光が立ち込めた。ロック画面ってやつだ。たぶん。

 まず目に入るのは時計だった。いつも確認する時はこのロック画面に表示される時計を見る。

 


 「……って、この店に来てからもう十五分も経ってるんだ」

 


 席に通されてすぐに注文したのに。

 疑問を抱いたが、すぐに確信に至った。

 その途端、溢れてきた笑み。苦笑だった。

 


 「軽く頭で考えていただけなのにな」 

 


 どれだけ集中力があるんだ僕は。どれだけ、精いっぱい悩んでんだ僕は。

 付属しているナイフをフォークを持ち、ハンバーグを切り分けていく。とろりと卵とチーズが液状になって中から皿に流れてきた。まるで宝箱の中のように、財宝のように。

 


 これが楽しみだ。そして、口に運ぶ瞬間が。

 けれど。

 


 「……‥‥…何で」

 


 何で、何も感じないんだ。こんなに楽しみにしているのに。美味しいはずなのに。

 何で、味がしないんだ。

 笑いが漏れる。ははは、と。

 その全ては店の喧騒によって消されていく。

 


 「………なんで、僕なんだ」

 


 空腹がなくなった。金もなくなった。

 店を出た僕を待っていたのはあの暑さだった。

 


 「…………」

 


 早く部屋に戻ろう。今日は疲れているんだ。帰って寝て、また明日、学校で考えよう。

 もう、今日は、何も考えず、シャワーを浴びて、ドライヤーで髪を乾かして、歯を磨いて、そして寝よう。

 


 そうだ、それがいい。

 五月蠅い通りを抜け、ここから十分くらいでアパートに着く。

 不意に空を見上げた。また雲の割合が大きくなった。星は見えなかった。月はもう満月ではなくなっていた。

 


 まだ、雨は降らない。明日までに降らなければ僕の読みは外れてしまったことになる。

 雨は嫌だけど。予想は違って欲しくなかった。

 


 矛盾しているけど、何となく降って欲しかった。またあの傘で歩きたい。二人で歩きたい。

誰となんて決まっている。そんなの決まっている。



 「夏樹―――――――――――」

 

 「――――――――雨則、君?」

 


 …………。

 


 「………え?」

 


 今日はどこまで僕を迷わせればいいんだ。どこまで堕とせばいいんだ。

 君はなんで、そんなタイミングで、よりによって今、現れるんだ。

 


 「…………海里さん」

 


 たぶん、世界で一番会ってはいけない人がそこにいた。

 


 「偶然、だね、雨則君」

 

 「………そうだね」

 


 本当に偶然だね。というかこれはもう運命だよね。

 


 「………それじゃあ、またね、海里……」

 

 「あ、あの」

 


 どうにか切り抜けようとする僕を呼び止める。やっぱり逃がしてはくれないか、運命様。

 


 「………もう夜も遅いし、さ。お家の人も心配してるよ」

 


 だから、さ。帰ろう。今日はもう。今日だけは、もう。

 


 「でも、まだ、返事、返して貰ってません」

 

 「………あれ、冗談、なんだよね?」

 


 海里さんは目を見開いた。口を開けて、衝撃を受けているようだ。

 


 「………なわけないじゃないですか」

 

 「……え?」

 


 上手く聞き取れなかった。けど、聞き取れなかった部分に当てはまる言葉がなんなのか、僕は分かってしまった。

 


 「冗談なわけ、ないじゃないですか!」

 


 そうだよな。冗談で告白する女がどこいるってんだ。

 


 「……海里さん、僕のこと分かっているなら、知っているよね。僕、今、付き合ってる彼女がいるんだよ」

 

 「もちろん、知っていますよ」

 

 「だったら……。自分が何言ってるか、わかってる?」

 

 「はい、わかってます」 

 

 「分かってないだろ」

 


 分かっているなら、なんでこんなことするんだ。普通しないだろ。

 


 「分かってます!」

 

 「分かってない!」

 


 近所迷惑とか考えもせず、閑静とした道端で僕と海里さんは大声を張り上げた。

 海里さんは昼休みの時とは違っていた。おどおどして内気な彼女じゃなかった。意志を持ち、想いを持ち、僕だけを見つめていた。

 それが分かってしまったから。海里さんは本気だって分かってしまったから。

 


 「悪いけど……君の気持ちには答えられない」

 


 海里さんの想いを打ち砕くように、目を合わせて一言、彼女に告げた。

 僕の思いを。夏樹への想いも込めて。

 


 「…………っ」 

 


 海里さんの瞳が揺れた。唇を噛みしめた。手を力一杯握りこぶしにして。

 


 「ごめん」

 


 僕は生まれて初めて告白を断った。人からの好意を切り捨てた。

 瞬間、心がこれまでにないくらいに締め付けられた。辛くて、苦しくて、仕方がないほどに。

 


 気を失ってしまいそうになるくらいに、心が痛かった。心にハートの心にヒビが入ったかのように思った。

 


 息が苦しくなった。水中で息を止めているみたいに。ずっとこのままでいれば窒息してしまいそうになるほど。

 


 「………ごめん」

 


 息をするように出てくるのは同じ言葉。謝罪。できることならば、彼女の苦しみを和らげるためならば幾らでも贖罪しようとまで思った。

 


 「……………」

 


 海里は口を閉じていた。何も発さなかった。

 何か言ってくれよ。じゃないと、この痛みをどう消せばいいんだ。

 


 と、この期に及んで、自分のことばかり気遣っている。本当に痛いのは目の前にいる僕よりも一回りも小さい彼女なのに。

 僕の大きい身体でもキャパオーバーなのに。

 


 「………分かりました。今は諦めます」

 

 「………そうか」

 


 海里はようやく口を開いた。どれだけの思いでこの一言を口にしたのだろう。いつから僕のことを、とか、なんで、とかそういうのは知らないけど。

 


 「……すいませんでした。こんな、時間に突然。丁度、見かけたもので……すから」

 

 「……いや、いいんだ。こっちこそ、ごめん」



 少しだけ昼休みの時の海里が戻った。けど、今までとは何か違っているようだった。吹っ切れたような。何か決意したような。

 


 「それじゃあ、またな。海里さん」

 


 ともあれ一つだけ悩みの種が消えた。三つの内の一つだけど。それも小さいほうの悩み。

 まだまだ不安と恐れで一杯だけど、ほんの少しだけ荷の肩が下りた、気がした。

 その代わり、罪悪感と心の痛みを伴った。

 


 「……あ、雨則、君」

 

 「ん?」

 

 「髪、ゴミ付いてますよ」

 

 「え?」

 


 頭の天辺付近を擦った。

 


 「違いますよ。そこじゃなくて」

 

 「え?どこ?」

 

 「……もう、しゃがんでください」

 

 「あ、おう、頼むな」

 


 僕は膝を地面に着けた。

 


 「えっと……ここです」

 


 海里さんは僕の頭の方へ手を伸ばして。

 


 「――――――――――ぁ」

 


 何故か唇に暖かくて柔らかい感触が触れた。

 頭じゃなくて、唇だった。

 ついでに手も頭ではなく、僕の頬にあった。

 


 一秒。

 二秒。

 


 それくらいか。もっと長かったか。

 僕は僕の唇に触れているナニカが海里さんの唇であると理解するのにそれくらいの時間を要した。

 熱くて、甘くて、柔らかくて。

 気持ちよくて。男として嬉しくて。

 辛くて、痛くて、切なくて。

 そんな感情が、感覚が混ざり混ざって、僕の唇に集約される。

 


 三秒。

 四秒。

 


 頭では分かっていた。身体でもわかっていた。

 離そうと思えば離せた。

 


 だけど、離せなかった。

 なんでだ、なんて、もう言えない。僕は、本当は骨の髄まで理解していた。全部分かっていた。ほら、自分のことは自分が一番分かってるって言うじゃん。それだよ、それ。

 


 五秒。

 六秒。

 


 未だに離れない唇に何を勘違いしたのか、海里さんは舌を入れてきた。

 脳天に電撃が走る。そして、雷によって撃たれた脳はどんどん機能を停止させていく。何も考えられなくなっていく。残ったのは受け入れきれないだけの罪悪感とそれを覆うだけの快感であった。

 


 ははは、何やってんだろ、僕。

 堕ちていく。堕ちていく。空が遠くなっていく。星が高くなっていく。月の輝きが小さくなっていく。

 


 ただされるがままに口内を犯される僕。歯の一本一本を、唾液に塗れた舌を、喉彦を。貪られるように、愛されるように。

 


 海里さんの口から吐息が漏れる。頬を紅潮させて、愉しそうに幸せそうに。ここにはいない誰かに向けて勝利を宣言しているかのように、ふふふと笑った。

 


 十二秒。

 十三秒。

 


 何秒か意識が飛んでいたかのような。今抱えている悩みとか不安とか全てを「どうでもいい」に変えていく。霞んでいく。思い出が。温もりが。触れ合いが。……夏樹が。

 


 好きという気持ちは変わらない。それは天地がひっくり返ろうが変わらない。

 けど。霞んでいく。あの微笑が。あの歌声が。あの握り合った手の感触が。あの日見た星空が。

 


 十四秒。

 十五秒。

 


 そして。海里さんの舌が僕の中から抜かれていく。離れる。二人の結晶が糸になって結ばれ、垂れ落ちていく。

 呆気に取られる僕。舌なめずりをする海里さん。

 


 「………な、に、して」

 

 「今までの恋は諦めました。けど、これからの恋は諦めませんよ」

 

 「………え……ぇ?」

 

 「それじゃあまた明日ですね。雨則君」

 

 「……………ぁ、ちょ、と……まって」

 


 上手く舌が回らない。海里さんの味がする。

 海里さんは木偶の棒と成り果てた僕を残して歩いて行く。腕を後ろに組んでステップでも踏みそうなくらいに軽快な足取りで。

 


 僕はそんな海里さんの背中を見送りながら口元に手を当てた。何気にファーストキスだった。最も愛している夏樹ではなく、今日、初めて会話をして。今日告白された見ず知らずの美少女が相手だった。

 


 あまりにも至福であった十数秒を越えて、僕に圧し掛かったものに、もう耐え切れそうになかった。

 


 「ははははははは」

 


 もう笑うことしかできない。

 選択なんて、そんな場合じゃない。僕にとって最優先は海里さんになってしまった。

 


 こんな僕に答えなんて出るのか。決心なんて。覚悟なんてできるのか。夏樹に受けたものを返す事ができるのか。

 


 いや、もう無理だろう。もう、夏樹に面向かって選択を告げることはできないだろう。

 それほどまでに、僕は、海里に、いや海里とのキスに心酔してしまったようだ。たった一回しかしてないのに、もう虜だった。メロメロだった。あんなに記憶にこびり付いた思い出が霞んでしまう程に。たった十五秒で僕の約一ヶ月が覆されたのだ。

 


 「……ごめん、な。夏樹」

 


 僕、もうダメっぽい。君の瞳に僕が映ることさえも怖いよ。

 それから数十分間、その場から動けなかった。部屋に帰り着いた頃には月は雲によって隠れてしまっていた。

 


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