愛の喜びとは
この祈りが届くようにとの願いの影に、ほんの少しの妬みを込めて――
校庭から、ざわめいた声が聞こえてくる。
硝子一枚を隔てたせいか、厳しさが光る大きな声も、柔らかいようだった。ざわめいている声たちの主は陸上部か、サッカー部か。はたまた野球部の声なのだろう。が、混じり合ってしまっている今、誰のものであるのかなんて、ハッキリとはわからない。
俺は、そんな声を気にすることなく、右手で同じメロディラインをなぞる様に弾いていた。何度も何度も、繰り返される同じフレーズは、ときどき音が欠けている。けれど、それはそれで、俺は好きだった。
「おっここにいた? サボり魔はっけーん!」
俺だけしかいなかった音楽室に、聞き覚えのある声が響き渡った。
「さぼりって、俺部活入ってねぇよ。んで? なんだよ、こんなとこまで。」
誰が見ても完璧な、明るい笑顔で音楽室にやってきたのは、俺の大事な家族だった。
「今日さ、ちょっと遅くなりそうなんだ。お母さんにそう言っておいてくれない?」
「そんなの、自分で言えばいいだろ。何で俺がって……何だよ。」
面倒だという表情を浮かべながら俺が言う。すると姉が、きゅっと唇を結んだかと思うと、俺のことをじっと見つめてきた。
「自分のこと『俺』なんて言うようになったんだねぇ、知幸も。昨日までは『僕』だったのに。」
親戚のおばちゃんのようなことを言った姉は、うんうんと頷きながら腕を組んだ。
「成長期って早いなぁ。私も年取るはずだわね。」
自分のことを「僕」と呼んでいたのは、もう遠い昔のことだ。そんな今更なことを言い出した姉に、はぁっと大きなため息をくれてやった。
「どこのババァだよ、それに昨日だって『俺』は『俺』だったっつうの。」
「ちょっと? ババァってのは、聞き捨てならないんだけど……と、言いたいとこだけど。時間ないの。とにかく、お母さんに言っておいてね。知幸も私のこと、待ってなくていいからね。」
そう言われた俺は、かっと耳が熱くなった。ぼっぼっぼっと、熱が上がっていく自分の顔面に気が付きながらも、気が付かないフリをした。
「誰も待たねぇし。」
赤くなった顔を見られるわけにはいかないと思った俺は、俺は頭をガシガシと掻きながら窓の外に顔をやり、姉に背を向けた。照れを隠そうと頬を擦ったが、こんなことで顔の赤みがとれるわけはないと、そんなことはわかっている。けれど、そうせずにはいられなかった。
「……いっつもヘラヘラしやがって。」
それは何気なくたたいた憎まれ口。ただ恥ずかしさを隠したかっただけの、口から出た言葉だった。すると背後から、カタンっと小さな音が鳴り、時がピタリと止まったような気配がした。
その違和感に俺は後ろを振りむいた。
「私、他には何もできないから。笑顔以外に返せるもの、持ってないもの。」
そう言いながら見せた姉の表情は、俺が見たことのないものだった。
俺はそれが、ずっと忘れられないでいる。
◆
高校の教師をしている父親と、家でピアノの教室を開いている母親。そんな両親の元に育った俺だが、塾に習いごとにと、忙しい放課後を過ごすことは特になかった。宿題さえ忘れなければ、勉強しろとうるさく言われることもなかったのだ。
「予習、復習すれば、あとでラクだよ? 嫌なら別にいいけどね。」
と、大体三日に一度ぐらいの割合で母親に言われる程度だった。
ピアノにおいても、生徒さんのレッスンが入っていないときであれば、レッスン室のピアノを自由に触っていいと言われていた。そして俺の気が向いたときにピアノの前に座ると、簡単な楽譜が一つ置いてある。その楽譜には鉛筆でポツポツと書き込みがされていて、俺はその楽譜の書き込み通りにピアノを触っていた。
母親が言うには、生徒さんが置いていったというその楽譜。その楽譜の曲は短いものが多くて、毎回違った。子どもの頃は、本当に生徒さんが忘れていったのだと思っていたが、よくよく考えればおかしなことと気が付いたのは、つい最近のことだ。実は母が、あえて置いていたものだったのだと、成長するにつれてわかってきた。
堅そうで、真面目そうな職業からは想像もできない両親の緩い教育。それは功をなしているようで、宿題に予習、復習は毎日欠かさないようにとの癖がついた。そのおかげで成績も悪くない。ピアノにも、俺は毎日向かい合うようになった。夕飯を食べ終わってからの三、四時間。お風呂が沸いたとの声がかかるまで、ピアノを弾くのが日課になり、将来は音楽関係の道に進みたいとまで考えるようになっていた。
緩い両親の元で、すくすくと育ってきた俺。
ある日、そんな俺たちに新しい家族が一人増えたのだ。
それは俺が小学校五年の夏休みのこと。お盆を迎え、祖父母の家、親戚の家への挨拶に墓参りと、せわしなく過ごしていた俺の母親の携帯電話が、ピリリと鳴った。
「はい、もしもし。」
と、電話に出た母親の、詐欺とも言える声の高さ。その高さにじとりとした細い目を向けると、母親の電話を持たない左手が手持無沙汰を訴えて、ひらひらと動いていた。その様子を見ながら、俺はゴクゴクと麦茶で喉を潤したが、暑さと喉の渇きから麦茶は一瞬でなくなった。おかわりをしようと思った俺は、冷蔵庫に視線を移した。
「えっ……。」
ダイニングテーブルに手のひらをつき、ガタンと椅子を動かして立ち上がろうとしたその瞬間、母親が大きな声をあげた。母親の高く奇麗な詐欺声は、不協和音を含んだような歪んだ音程を滲ませた。俺はそれに驚いて、眉を顰めて母親を見た。するとそのとき母親が、目を見開いて、両の眼から涙をポロリと零したのだ。
そして、お盆があけて数日が経った頃、俺の母親に連れられて姉はこの家へとやってきた。
姉は、俺の母親の妹の娘だった。お盆休みの買い出しに出た両親が事故に遭い、その事故によって、姉は両親の二人ともを、一度に失ってしまったのだ。姉とも姉の両親とも、盆や正月に会っていたから、まったく他人というほど知らないわけでもなかった。
正確には『義姉』と言うものなのかもしれない。
けれど元から、姉ちゃんと呼んでいたこともあって、俺はそう言いたくなかった。
そんな近しい人が、葬儀の最中、棺に横たわっているという光景は、俺にとって、夢のようにほわほわとしていて、実感がなかった。一切現実味が感じられず、花に彩られている中で、真っ白くなった叔母と叔父は、作り物のようにも見えた。
俺の両親も――母親も、葬儀の最中は涙を流すことはなかったが、最後のお別れだと、姉の両親が火葬に入ったときは、うるりと目を潤ませていた。そのとき姉はただ一人だけ、口元を引きつらせながらも笑っていた。涙を見せることもなく、絶望や寂しさを溢れさせ、表情を失うこともなかった。ただじっと、口角をあげてニコリと笑っているだけだったのだ。
その笑顔を見たときに、俺は初めて実感できた。人が亡くなるということが、どれほど悲しいことであるか、と。
俺は、その日を境に、自分の呼び方を「僕」から「俺」へと変えたのだ。
◆
「おかえり。あれ? お姉ちゃんは?」
と、俺を見るなり母が俺に尋ねてきた。
「なんか遅くなるって。委員会じゃね? 文化祭前だし……知らんけど。」
姉は図書委員会に所属している。週に一度か二度、図書室に集まって何かをしているようだった。
図書室では文芸部も活動していて、図書委員と文芸部は仲が良いらしい。文化祭も合同で何かをするようで、最近の姉は委員会がない日でも図書室に入り浸っている。ほかの委員会のメンバーも文芸部に混じって部活動に参加することもあるらしい。俺は、それなら文芸部に入ってしまえばいいのにと姉に言ったが、姉曰くそれはそれ、とのことらしかった。
部活に入っていない俺は、倉庫と化している第三音楽室で暇を潰すのが好きだった。第三音楽室のドアは壊れていて、鍵も閉まらない。吹奏楽部も合唱部も、狭く、譜面台などの物で溢れている、第三音楽室で活動をすることはなかった。かろうじて置いてあるアップライトのピアノも、屋根の部分の塗装が剥がれてボロボロだ。
それに第一と、第二音楽室にあるのはグランドピアノ。俺のように、放課後、音楽室に忍び込む連中だって、触りたいのはグランドピアノなのだろう。俺は家にグランドピアノがあるから特にそうとは思わなかったが、以前、同じように第二音楽室に忍び込んでいた同じクラスの関口に聞いたら、そう言っていた。
なにより、そのピアノ。真ん中のドと、その一オクターブ上のドの白鍵の音が鳴らない。その白鍵をたたいても、モフンとした音が小さく鳴るだけだ。真ん中のドは重要だし、きっと皆が好きな音だ。その音が鳴らないなんて、ピアノを弾く者からすれば、かなり面白くないだろうが、俺は、そんなところも嫌いじゃなかった。
そして、第三音楽室の窓から見えるのが図書室だ。大体いつも、図書委員会が掲示物を作っているテーブルが見える。週に二度、姉が委員会の日。俺は第三音楽室のピアノの椅子に腰かけて、窓の外を眺めながら、音が足りないピアノを弾くのが好きだった。
「そんなに遅くならないといいけど。あんまりだったら、迎えに行ってあげてくれない? 最近、暗くなるの早くなったし。」
「めんどい。」
とは言ったものの、俺は、母のその言葉を待っていた。そして形としてだけ、ものすごく面倒くさそうに顔を歪めて見せる。けれどそこは母親だ。俺が本心では嫌がっていないということなど、お見通しなようだ。母親は、クスッと笑いを零しながら、こう言った。
「唐揚げ、ちょっと多めに作ってあげるから。ね?」
そして、お願いねとの母親の声に、口を小さく尖らせながら頷くまでが、お決まりだった。
「……わかった。」
「それでこそ、お母さんの息子! 優しい子に育ってくれてよかったわぁ。」
と、母は嬉しそうに、いや、おかしそうに手を口にあてて笑った。その笑顔を見ていられなくなった俺は、母に背を向けてキッチンを出た。
そのあと、夜八時を回っても、姉はまだ、学校から帰ってきていなかった。
「ちょっと遅いよね。迎え行ってきてちょうだい、お願い。」
と、家を追い出された俺は、渋々といった風に外に出た。スマホと財布をポケットに入れて、暗い道をとぼとぼと歩く。すると途中で同じクラスの佐藤と深山とすれ違った。
「よっ! なんだ? コンビニか?」
「迎えだよ、姉ちゃんの。」
俺がそう言うと、佐藤は特に何も言わなかった。けれど深山は、ぶふっ、と噴き出し笑い出した。
「ほんっと、おまえ、姉ちゃん好きな。」
からかわれるように言われるのも、いつものことだ。クラスの女子からは、シスコンなどと、陰で言われているのも知っている。
「母ちゃんに迎えに行ってこいって、言われただけだよ。」
「まーまー、いいって。仲良きことは美しき哉、って言うじゃん?」
「おい、佐藤。筋肉深山が無理やりな言葉、遣ってるぞ。」
俺は、呆れたような顔で佐藤を見て、言った。
「あぁ、気にすんな。漫画に出てきただけらしいから。それより早く行かないとすれ違うぞ。下校時間ヤバいし。」
馬鹿にすんな、と騒いで睨みつけている深山を無視し、佐藤はひらひらと俺に手を振った。
「あぁ、んじゃ、また明日な。」
と、佐藤と深山と別れ、俺はまた前を向いて歩き出した。確かに下校時刻は過ぎている。特別延長届をだしたとしても、俺の学校の最終下校時刻は八時四十五分のはずだ。そう思い出した俺は、ジーンズのポケットからスマホを取り出して、電源ボタンを軽く押した。ぽっと画面が明るく灯ると、時刻は二十時三十五分と表示された。
ここから学校までは一本道で、あと三分もかからない。けれど、すっと、胸の中に不安がよぎった。少し冷えてきた鼻先を、人差し指でポリポリと掻き、足の動きを早めた。
文化祭前の忙しい時期。同じ学校のジャージを着た生徒たちが、パラパラと俺とは反対の方向に向かって歩いていく。実行委員会や文化部のやつらは、準備や練習に励んでいたのだろうと思いながら、見覚えのない生徒たち、何人かともすれ違う。
学校に着くと、いくつか電気がついている教室がまだあった。昇降口も開いていた。
図書室まで迎えに行ってやろうと思った俺は、上履きに履き替えた。薄暗い中で並ぶ靴箱の隣の、隣の、隣の列を確認し『樋口』と書かれた靴箱を見て確認すると、上段の上履き置き場は空っぽで、下段のローファーが残っていた。姉がまだ校内にいることを確認した俺は、ほっと安堵する。そして図書室に向かおうとした俺は、足を止めた。
ちょっとだけ、音楽室から見てみるか。
俺はそのときなぜか、そう思った。
そして俺は、図書室と反対の方向に歩いきだした。先生に会ったら怒られるかもしれないと思いヒヤヒヤしたが、幸い誰ともすれ違わなかった。第一、第二音楽室の前の廊下の電気はついていたが、廊下の突き当り、一番端の第三音楽室前の廊下の電気は消えていた。部室として使われない第三音楽室なのだから、それも当たり前の話だった。
ガチャリと戸を開けて、第三音楽室の中に入る。窓から入ってくる月明かりを頼りに、見慣れたピアノに目をやった。月明かりを反射させているピアノは、ところどころが白く光っていて、明るい中で見るのとは違って、まるで別物のようだった。
誰にも見向きもされないボロボロのピアノ。それは、放課後、明るい中で見ても寂しそうに見えたが、暗い中で見れば、一層、悲しそうな表情をしていた。
ピアノに向き合って、鍵盤蓋を開ける。鍵盤の上にかけられている重厚感のある、しっとりとした赤い布――暗すぎて、今は何色かがわかりにくいが――それに、手をかける。布の右端の角を持って、その布を浮かせた。そのとき、ふわっと音楽室の暗さが増した。月明かりのみの灯となった瞬間、目の前のピアノに映し出されていた白い光が、米粒ぐらいに小さくなった。
そこで俺は、窓の外に目をやった。
窓から見える図書室の電気が消えていたことで、音楽室の暗さが増した原因を知る。そして自分がなぜ学校に来たのかを思い出した。姉が、もう学校を出てしまったかもしれないと焦った俺は、摘まむように持っていた布から手を離した。譜面台と、木でできた椅子に埋もれている音楽室の大きな窓。この音楽室で唯一の、その大きな窓に、障がい物をかきわけるようにして、近寄った。
そして俺は、図書室の中を、目を凝らすようにして覗き見た。
「……あぁ、なんだ。」
俺がそう呟いたとき、背後からガチャリと音がして、パッと室内が明るくなった。
「おっ、誰? って、二年の樋口の……弟か? もう下校時刻は過ぎてるぞ? なんだってこんなところにいるんだ?」
音楽室に入ってきたのは、見回りにきたであろう男の先生。その先生は、姉の担任だった。
「あ、すみません。姉の迎えと、その……ここに忘れ物しちゃって。」
この先生はあまり話をしたことがないが、怖いと言う話を聞いたことがない。この先生で助かったと、わずかに胸を撫でおろし、すみませんと軽く頭を下げた。
「それならしょうがないが、下校時刻過ぎたら、勝手に学校に入るなよ? 今日は俺だからいいけど。ほら、先生によっては面倒だから。」
「はい。ありがとうございます。」
俺が礼を言うと、悪戯っ子のように歯を見せながら先生は笑った。俺はピアノの前まで戻り、ピアノの鍵盤蓋を閉めた。そして先生に一度会釈をしてから、音楽室をあとにした。
昇降口に行き、姉の下駄箱を確認すると、そこには姉の上履きのみが残っていた。ということは、もう学校を出てしまったということだ。そのことを知った俺は学校を出て、家に帰る道を一人で歩いた。
学校にいた、ほんの数十分の間に深まった夜空の暗さに、ピリッと刺す冷たい空気が目に染みた。ジリジリと、染みた空気に痛みを感じた俺の目から流れたのは、涙だった。俺の痛みを流しだそうとした涙は、ポロポロと次々に零れ落ち、その涙が通ったあとの頬にまた、冷たい空気が突き刺さった。
◆
――私、他には何もできないから。笑顔以外に返せるもの持ってないもの――
ただの憎まれ口に返された姉のその言葉が、俺はずっと気になっていた。
別に俺は何かを返して欲しかったわけではない。俺の両親だって姉の友達だって、そんなこと、欠片も望んでいないはずだ。そんなにいつも笑って、ヘラヘラと明るく振る舞って、本当に、姉が泣きたいときはどうするのか。誰の前でなら、返せるものなどを気にせずに泣けるのかと心配だった。
心配?
いや、心配なんて立派な気持ちなんかじゃない。俺はただ、姉にとって泣ける相手になりたかったと、そう思っていただけだったのだ。
けれど結局、姉が選んだのは俺ではない。
音楽室であの日見た、図書室で泣いている姉の頭を、慰めるようにして撫でていたのは、文芸部の部長の先輩だった。
姉が、大人になって初めて彼氏をつれてきたとき、その男の隣に並ぶ姉は、見知らぬ人のようだった。返せるものとしての笑顔ではなく、ただ純粋に、幸せそうに笑う姉がそこにいた。
そしてとうとう、今日の日も――やはり姉が選んだのは、俺ではないのだ。
白いドレスでの誓いを終えた姉が、着替えてきたドレスは淡いブルーの色だった。そして今日、姉は 「家族」になってから、初めて目にするような表情を、くるくると次々に浮かべていた。
姉が幸せになるこの日を、俺はずっと、ずっと待っていた。
願わくは、その相手が俺であればと、その思いは昔からずっと変わってはいない。けれど、高砂席で嬉しそうに笑顔を浮かべ、たまに涙を浮かべてと、男と隣り合っている姉を見て、俺は心の底から良かったと思った。
そしてまた、姉と、今日から義理の兄となる新郎がお色直しに立ち上がる。式場の入り口の扉の前までゆっくりと歩いた二人が扉の前にたどり着く。そして、こちらをくるりと向いたあと、二人が深く頭を下げた。その二人を見守っていると、頭を上げた姉とパチリと目が合った。
そのとき向けられた姉の笑顔は、他の誰もが敵わないほど、幸せそうで、優しかった。そんな二人の姿を隠すように扉が閉じられ、わずかに落とされていた照明が、ぱっと明るさを取り戻した。
そのタイミングで、俺は姉の願いを果たすために、静かにそっと立ち上がった。
――再入場、知幸がピアノ弾いてくれない?
半年前、俺の家族と、結婚相手の家族との顔合わせの食事会の帰り道で、姉は言った。
「え、普通にプロに頼めば? ってか、母さんでいいじゃん。」
「いいじゃん、これが最初で最後。知幸の弾ける曲なら、何でもいいからさ。」
ね、お願い、と、真剣な表情で頼み込まれた俺は、頷いた。すると、何でもいいからと言ったはずの姉は、曲のリクエストまで出してきた。
「あ、あれがいい。音楽室で知幸がよく弾いてたやつ。」
その曲は弾くことはできるが、あまり結婚式には向かない曲だ。そう説明しようとした言葉を、俺はその日、伝えることはできなかった――。
あのときの姉の笑顔を思い出しながら、司会の席の隣にある白いグランドピアノの椅子に腰を下ろす。式場内に響いているざわめいた声は混じり合い、もう誰のものかなんてわからない。その声を聞きながら緊張に震える手を握りしめた。
何の曲を弾くのか、それは母にも父にも、式場の人にも言っていない。半年前、俺と姉との間だけで交わされた約束の曲。その約束を噛みしめるようにして、式場の女性の合図を待った。短くも、長くも感じるその時間を、ただ、俺は目を閉じて待っていた。
「お願いします。」
こそりと囁くように伝えられた言葉の合図で、俺は大きく息を吸い、吐いた。そして両手を鍵盤に置き、白鍵をたたく。
待ち望んでいた今日の日を祝うように。姉がこの先ずっと、幸せであるように。
この祈りが届くようにとの願いの影に、ほんの少しの妬みを込めて。
あぁ、愛の喜びとは――
返されることはなかったけれど、それでも俺は、深く愛する喜びを知った。
もし、この胸を劈くような悲しみが一生続くものだとしても、姉を愛したことに後悔など感じない。
人を愛する喜びは――何物にも代えがたいと、そう、俺は知ったのだ。
――俺はずっと、祈り続ける。