第5話 【刃那子社長の憂鬱】 ※挿絵『謎の少女』
「お嬢ちゃん、降りないの?」
地下三階へ降りた刃那子が、エレベーターに残る少女へ声をかけた。
「…………」
やはり、無言であった。
無理に降ろす理由も、義理もないので、それ以上なにも言わなかった。
背を向け歩き出し、背後のエレベーターの扉が、閉まる音……その時。
〈あの子を探すのは、止めなさい〉
透き通るような声が、聞こえた。
「えっ!? ちょっ……!」
刃那子が振り返ると、エレベーターの扉は閉じていた。
慌てて、カードキーを取り出しスキャンさせた。
間一髪間に合い、扉が開く。
「お嬢ちゃん、今の言葉って……え?」
四角い空間の中には……誰もいなかった。
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「別宮さま、どうかされましたか?」
「エレベーター内の映像を、出してちょうだい!」
一階の警備室へ入るなり、刃那子はそう言った。
三〇代の男性警備員は、いぶかしみながらも、言われるまま録画データを再生した。
「そんな……そんははずないわ!」
3つの角度で録画した映像には、刃那子しか映っていなかった。
★
地下三階の駐車場に、再び降り、三台ある車から国産のセダンを選んだ。
車に乗り込み、なんとなく、後ろを確認した。
(なんだったの……? 幽……霊? そんなバカな)
刃那子は、超常的なものを信じなかった。
これだけメディアが発展しているにも関わらず、目撃証言、証拠が圧倒的に少なすぎるからだ。
なにより、刃那子自身が体験したことのない――というのが、大きかった。
しかし、先ほどの現象は……。
刃那子はもう一度、後部座席を確認してから、車を発進させた。
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――都内、△※区
会社の地下駐車場に車を停め、いつものように、車内で二分ほど待機する。
今頃守衛から連絡が入って、社内が大わらわになっているだろう。
その時間を使って、刃那子は集中した。
(ここでサッちゃんのことを考えても仕方ないわ。連絡があるまで、やるべきことをやるのよ! ……よし!)
刃那子は、仕事モードへ気持ちを切り替え、エレベーターへ向かった。
いつも通り、一番手前のエレベーターが、この階で待機している。
刃那子は、最上階――32階のボタンを押した。
R2……R1……1F…………5F……。
エレベーターは、止まることなく上昇していく。
『社長がいらっしゃる! エレベーターのボタンを押すんじゃない!』と全フロアで、戒厳令が敷かれているのだ。
(はぁ……別に、いっしょに乗ってもいいのに……)
刃那子も最初は、このやり方に異議を唱えた。
しかし、日本ではこれが普通――だれも社長――つまり刃那子と、狭い空間で気まずい時間を過ごしたくないのだ。
今では、なるべく混み合わない時間に出社することで、少しでも社員の迷惑にならないようにしている。
(どうして、社長がこんなに気を遣わなきゃいけないのよ。おかしな国ね)
海外だと、むしろ、社長とエレベーターに乗るのを喜ぶ社員が、大勢いる。
通称”エレベーターピッチ”と呼ばれる時間で、自分を売り込むのだ。
(そんなハングリー精神を持った社員は、いないのかしら?)
この状況で、エレベーターのボタンを押し、乗り込んでくる者がいたら、刃那子は感心し、好意的に評価するだろう。
(でも、いないんだよね……ん?)
ポーン。エレベーターが止まった。
表示を見ると……30F。
刃那子は、半ば、この勇者の正体を予想しながら、その予想が外れることを期待した。
「はぁはぁ……間に合ったぁ!」
期待は外れ、乗り込んできたのは、予想通りの人物――二〇代後半の女性だった。
女性の後ろでは、大勢の社員が、お辞儀をしたまま微動だにしない。
「おはよう、明里ちゃん。寝癖がついてるわよ?」
「え!? さっき直したと思ったのに! ……そんなことより、はなさん! わたしより先に挨拶しないでください! わたしが怒られちゃうんですからね!」
「あら、ごめんなさいね。さぁ、お乗りなさい」
「おじゃましまーす! あ、社長、おはようございます!」
「フフ、今日は、30階まで走ったのね」
「本当は、28階の総務まで行きたかったんですよ! あそこのハゲ課長の慌てる顔が、見たかったなぁ」
――社長秘書、門内明里だ。
彼女は、わたしが出社したと情報が入ると、たまにこのいたずらをする。
エレベーターを止めた階の社員が、慌ててかしこまるのを見るのが楽しいらしい。
彼女は、エレベーターが閉まるまで、顎を突き出しつつ、社員達の頭頂部を見下ろした。
「あぁ気持ちよかった! 今日も社長気分が味わえました!」
「明里ちゃんは、社長になりたいの?」
「え? イヤですよ! 面倒くさいじゃないですか!」
他の社員が聞いたら即卒倒するようなセリフが、次から次へと飛び出す。
刃那子は、ゆるんだ顔でそれを聞いていた。
この娘は、刃那子が拾い上げた社員だ。
(拾い上げた……フフ、まさに、それね)
門内明里との出会いは、フランスのパリだった。
(あのときは、驚いたわね)
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その日、商談がうまくいった刃那子は、ご機嫌で、黄昏時のパリを散策していた。
(あら、なにかしら?)
美しいパリの町並みを、大きなぼろ布が台無しにしていた。
よく見ると、その布はもぞもぞと動いている。
(浮浪者……かしら?)
さらによく見ると、なにやら英語で書かれた紙と空き缶が置いてある。
”ユーラシア大陸横断中――カンパお願いします”
どうやら、ゴール直前で資金が尽きたらしい。
機嫌のよかった刃那子は、近づいて、持っている小銭をすべて空き缶へ入れた。
ガバッ! ぼろ布が跳ね上がった!
刃那子は驚いて、反射的に殴りそうになった。
『わわわ! こんなに、いっぱい!?』
小銭の入った缶を手に取り、ぼろ布がしゃべった。
なんと、ぼろ布から出たその声は、女性――しかも、その言葉は日本語だった!
『あなた、日本人なのね?』
『に、日本人です! わたし、日本人です! お姉さんも日本人ですか!?』
薄汚れているが、愛嬌のある、可愛らしい顔をした女性だった。
異国の地で、同じ日本人に会えたのが、よほどうれしかったのだろう、刃那子のことを、潤んだ瞳で見つめ続けている。
『えぇ、そうよ。まさか、こんな若い娘さんがバックパッカーだなんてね』
『若いって、同じくらいじゃないですか! あぁ、日本語だぁ! わたし、日本語で会話してるよ!』
『あら、うれしいこと言ってくれるわね。お嬢さん、フランスじゃ、英語で話してもダメなのよ。通じても、わざとわからない振りをされちゃうわよ?』
『え? なんで、そんな意地悪するんですか!?』
『意地悪っていうか、国民性や、プライドの問題じゃないかしら。そんなわけで、あなたのこの文章は、残念ながら、パリっ子の心に届かないわね。貸してごらんなさい』
刃那子は、紙とペンを受け取り、フランス語でサラサラと文字を書いた。
”ユーラシア大陸横断中! 憧れのパリに到着したのに、おいしい料理を食べる資金がありません! パリっ子の心意気と、パリのおいしい料理の味を、祖国へ伝えるために、どうか、愛のカンパ、お願いします、”
『はい。これで大丈夫よ』
『え? え? こ、これ、なんて書いてあるんですかぁ!?』
『フフ、内緒よ。さぁ、実験しましょ。どれだけお金が集まるかしら』
『お、お姉さん!』
刃那子は、向かいにあるカフェへと入った。
ぼろ布娘は、不安な顔をしつつも、座って待った。
すると……今まで素通りしていたパリ市民達が、次から次に、空き缶へお金を入れ始めた!
粋なものには、粋な計らいを与える……それが、パリという街だ。
刃那子は、ニコニコとコーヒーを飲みながら、メルシーメルシーと、歓喜の声で叫ぶ日本娘を眺めた。
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(今思えば、放っておけなかったのは、明里が、サッちゃんに似ていたから……かしら)
目の前の秘書と同じ、人なつっこい笑顔の友人を思い浮かべながら、刃那子は思った。
(でも、サッちゃんは……)
引っ込み思案で、恥ずかしがり屋の友人が、明里のようにできるだろうか?
(知らない誰かを頼るなんて、できないでしょうね……)




