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ハナコさん、暴れすぎッ!  作者: 鷲空 燈
第3章 『狂乱の宴』【????】
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第32話 【高価な時計】


「ふぅ……」


 光恵は、額の汗をタオルで拭い、厨房の椅子に腰掛けた。

 戦争のようなお昼時が、ようやく落ち着いたのだ。


「光恵さん、おつかれさま!」


 サッちゃんが、グラスに入れた冷たいお茶を差し出した。


「ありがとう。あぁ、今日も忙しかったわね」


 光恵がグラスを口に傾けた。


「そりゃそうだよ! なんたって、こんな美人二人が経営してるんだから! エッヘン!」


 得意顔で胸を反らせるエプロン姿のサッちゃんを、光恵はあきれた顔で見つめた。

 とは言え、たしかにサッちゃんは、目を見張るような美人である。

 もう、何人ものお客さんから、デートの誘いを受けている。

 光恵が知っているだけでも、10人は下るまい。


「サッちゃん、だれかいい人いないの?」


「光恵さん……あのね……。お客様は、お客様なの。そんな目で見られないよ。銀行員がお金をみて、ウキウキしないのと一緒よ。うん、我ながらいい例えだわ。それより、光恵さんはどうなのよ?」


「うっ……」


 そうなのだ。実は光恵も、何人ものお客さんから誘いを受けていた。


「わたしも、そういう目で見られないわね。なんと言うか……お客様の存在が、ありがたすぎてね」


「わかる、光恵さん! お客様は神様だもんね」


「フフフ、そう言われたら……」


「店長ぉ~!」


 光恵の言葉が、女性従業員の間延びした声で途切れた。


「どうしたの、桃恵ちゃん?」


「あの~、お客様が~、店長を~、呼んでこいって~」


「桃恵ちゃん、またまた、なにかやらかしたの?」


 光恵が桃恵という従業員を、ジトッと見つめた。


「今回は~、ちがいますよぉ~。わたしは~、コーヒーを~、持って行っただけですぅ~」


「本当に?」


 サッちゃんが、ジトッと見つめた。


「ほ、本当ですよぉ~! それに~、お客様は~、怒ってる感じじゃないんですぅ~」


「なにかしら? ――じゃあサッちゃん、少し厨房をお願いね」


「光恵さん、わたしも行こうか?」


「ありがとう。でも大丈夫よ」


 その言葉のとおり、大丈夫なのだ。

 光恵は落ち着いていた。

 あの公園での修羅場をくぐり抜けたのだ。

 いまさらなにを恐れることがあろう。



 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★



 光恵は、不安顔のサッちゃんを厨房に残し、フロアに出た。

 桃恵の言った人物は、すぐにわかった。

 

 ――『窓際の~、きつい感じの~、美人さんですぅ~』


 桃恵の言葉通りの人物が、窓際の二人がけテーブルに腰掛け、手に持ったコーヒーを見つめていた。


「店長の大川です。あの……うちの従業員が、なにか()(そう)を……」


 桃恵の言うことを信じなかった光恵が声をかけると、その人物が顔を上げ、光恵をジッと見つめた。

 ドキッとした。

 大きな赤みがかった瞳からは、意志の強さと高い知性がうかがえた。

 でも、そこにある感情は……。


(なんだろ? 威圧感……? でも、イヤな感じはしないわ……)


 まるで、上から下まで値踏みされているような気分になった。

 光恵は、普段なら絶対にしないのだが、その女性の目をジッと見つめた。


(なんて力強い、綺麗なやさしい目……)

 

 赤い瞳は、まるで吸い込まれるような美しさだった。


「お呼びだてしちゃって、ごめんなさい。少し、尋ねたいことがあったの。どうしても、気になって……」


(ハッ……!)


 光恵は、女性の言葉で我にかえった。


「は、はい! なんなりと、お尋ね下さい!」


 光恵は、明らかに年下の女性に、気圧されていた。

 とはいえ、今の光恵は、目の前の女性と同じ年代なのだ。

 肉体年齢はいわずもがな、なんと、戸籍や免許証まで20代なのである。

 すべて、交渉代理人の田中という人物が用意したものだ。


「フフ、そんなに緊張しないでください。尋ねたかったのは、店の名前についてです。とても、いい店名だけど、あなたの名前が由来なのかしら?」


 光恵は、そのよくある質問に、心底ホッとした。

 今まで、何人かのお客様から、同じ質問を受けてきた。

 その答えは決まっているのだ。


「いえ、確かに、この店の共同経営者の名前でもあるんですが……」


「……その他にも意味が?」


 そう言った女性の目の光が、一層強くなった。

 なにか期待しているような目だった。


「はい、大事な……とても大事な女の子の名前なんです」


「大事な……女の子? お店の名前にするほど、大事なんですか?」


「えぇ、とても。初めてのお給料で、この時計をプレゼントしてくれたやさしい子……その子の名前なんです」


「その時計を……初めての……給料で……」


 その時、女性の目の色が変わった。

 大抵この話をすると、人は微笑ましい表情をする。しかし……。


(この目は……)


 光恵がその目から感じたのは、なぜか、”嫉妬心”であった。


「教えていただき、ありがとうございます。ついでに、もう一つお願いができました」


 そう言う女性の目からは、やはり光恵に対する嫉妬が感じられた。


「はい、なんでしょうか?」


 まさか『どうして嫉妬してるんですか?』と聞くわけにも行かず、光恵は”もう一つのお願い”を予想したが、まるで想像できなかった。


「この時計は、2000万円で購入したものです」


 女性が、自分の左手の時計を外しテーブルに置いて、言った。


「へっ!? に、にせんまんえん!?」


 光恵は素直に驚いたが、疑問にも思った。

 女性は自慢するようなタイプではない。

 交わした言葉は少ないが、まず間違いない。

 むしろ自慢することを恥と感じるタイプだ。

 なら、どうして……?

 


「えぇ、今はプレミアが付いて、さらに価値が上がっているはずよ。売れば、3000万円は下らないんじゃないかしら?」


「ふぇぇっ! そんな時計、初めて見ました!」


 光恵が目を丸くした。

 サッちゃんの手術費用、150万すら作れなかった光恵には、想像もつかない大金である。

 たしかにすごいが、この時計と女性の”お願い”がどうつながるのだろう?


「これを、あなたの時計と……交換して下さらない?」


 女性がテーブルに置いた時計を、光恵の方へずらした。


「へっ?」


 こうかん? こうかんって、交換のことだろうか?

 まさか、そんな……。

 予想外すぎる”お願い”であった。

 サッちゃんの時計はいいところ、1万円ほどだろう。

 誰が見ても高級時計とは思わないはずだ。

 いろいろ悩んだあげく、一つの結論に行き着いた。

 

(あぁ、そうか。からかってらっしゃるんだわ)

 

 そう思って、光恵は再び、女性の目を見た。


(……っ!?)


 ……そこに偽りや、ごまかし、冗談の光はなかった。

 その時計が、3000万円の価値があること。

 そして、それを本気で交換しようとしていること。

 光恵は、女性が、嘘偽り無くそう思っていることを確信した。

 しかし……その目の奥の、さらに奥にあるもの……。

 それも、光恵は感じ取っていた。

 それは……”期待感”であった。

 嫉妬心と、期待感、それに少しの不安。

 そんな感情が女性の目の中で、クルクルと入れ替わっている。


(なにを期待してらっしゃるのかしら? まぁ、それがなんであれ……)


「どうかしら? なんなら、現金で3000万円用意しても……」


「お客様」


 光恵は、世間一般で高価とされる時計を、女性へと押しやった。


「お断りします」


 光恵は笑顔でそう答えた。

 考えるまでもない。迷うまでもないことだ。


「……そう、残念だわ」


 少しも残念そうではない女性は、時計を左手に装着した。

 そして、残りのコーヒーを、とてもおいしそうに飲み干した。

 その様子が、なぜだか、すこし急いでいるように思えた。


「ごちそうさま、お会計お願いします」


 そう言って、女性は席を立ち、レジへと向かった。


(やっぱり、急いでらっしゃる。わたしが断ったからかしら……)


 光恵は、少し申し訳ない気持ちになったが、サッちゃんの――樹神幸子(こだまさちこ)の贈り物が高く評価してもらえたことを、うれしくも思った。


 

「あの、お客様……」


 レシートとおつりを渡したあと、光恵は口を開いた。


「なにかしら?」


「コーヒーの味……いかがでした?」


 光恵には、女性がコーヒーを飲む姿が、なぜだか印象的だった。

 そこに込められた意思を、気持ちを、どうしても知りたくなったのだ。

 

「わたしが今まで飲んだコーヒーの中で、一番心が温かくなる……一番やさしい味だったわ」


「本当ですか!?」


「えぇ、わたしは、()()()()嘘を言わないのよ?」


 そう言って、パチッとウィンクをして、くるりと背を向けた。


「早苗さんにも、よろしくお伝え下さい。それと……○△▲※◇」


 ドアを開けた女性が、背を向けたまま、そう言った。


(え? 今、サッちゃんの名前を!? それに、最後……)


「お、お客さん!」


 そのとき、入れ違いで二名の人物が入店した。


「ヤッホー、光恵さん、また来ちゃったぁ!」

「こんにちわ、あら、光恵さんがフロアにでるなんて、めずらしいですね」


 洋服店の店長、熊田加世子と、高級ホテルのコンシェルジュ、宮田里沙の二名だ。

 二人は、この店でなんども顔を合わせる内に意気投合し、今では、お互いの家に泊まりに行くほどの仲である。

 女性のことは気になったが、この二人を放っておくわけにはいかない。

 光恵とサッちゃんにとって、大事な常連客で……そして大切な、お互いの家に泊まりに行くほどの友人達なのだ。


「いらっしゃい。どうぞお好きな席へかけちゃって。二人とも、いつものでいいわね?」


「うん、お願い。――ねぇ、光恵さん、さっきの人となにかあったの?」


「さっきの……人? どうして?」


 熊田加世子の言葉に、ドキンとした。


「えぇ、とても美しい方でしたけど、その……泣いてらしたから……」


 宮田里沙の言葉で、心音はさらに跳ね上がった。


「でも、笑ってたよね?」


「えぇ、泣きながら、笑ってました。え? 光恵さん、どうしたんですか?」


「二人とも、ちょっとごめん!」


 光恵は店を飛び出した!


(どこ! どっちに行ったの!?)


 急いで辺りを見渡すも、雑踏にまぎれて、女性は見つからない。


 ――『樹神幸子(こだまさちこ)さんを、とても大事に思っている人物』

 

 交渉代理人の田中は、依頼主のことをたしかにそう言った。

 その資金力から、てっきり年配の男性だと思い込んでいた。


(もしかして、あの女性が……)


 光恵は走った。



 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★



 光恵はトボトボと歩き、店の前で立ち止まった。

 方々走り回ったが、結局、女性を見つからなかったのだ。

 ハァ……。ため息をつき、顔を上げ、店名が大きく書かれた看板を見上げ、あの日の会話――ホテルのカフェテリアでのやりとりを思い浮かべた。

 


 ――『依頼主の”お願い”――それは、あなた方二人が”樹神幸子(こだまさちこ)さんの帰る場所”を作ることです』


 交渉代理人の田中が口にした言葉だ。


 ――『サッちゃんの……帰る場所?』


 ――『えぇ、現在樹神幸子(こだまさちこ)さんは消息不明です。マリアなる人物の言葉を信じるなら、元気に生きているのでしょう。なら、我が依頼主は、必ず見つけ出します。そのとき、幸子さんが帰る場所――。あなた方二人が、その帰る場所になってくれることを、依頼主は望んでいます』

 

 光恵はホームレスに身をやつす前、飲食店を経営していた。

 これは、それを調べた上での提案だった。

 光恵は、田中のその言葉が嘘ではないと確信した。

 だから、この話を受けたのだ。

 だから、この店を作ったのだ。

 あの子がいつ戻って来てもいいように。

 あの子がすぐに、ここを見つけられるように。


 光恵は左手の時計を見つめた。

 あの女性が、心から欲しがった、そして、心から光恵に手放して欲しくなかったであろう時計だ。

 交換を拒否した光恵の行動は、あの女性の心を、感情が抑えられなくなるほど揺さぶったのだ。


(だから、あんなに慌てて……)

 

 今、時計の針は、正確に時を刻んでいる。

 例の公園での惨劇のあと、いつの間にか動き出していた時計。

 まるで、光恵とサッちゃんの人生が再スタートしたのを祝福するかのように、再び動き始めた、大事な腕時計。



 ドアを開けると、いつの間にか多くのお客さんで、店内がごった返していた。


「光恵さん、遅いぃぃっ! 早く、厨房に戻ってぇぇぇっ!」


 厨房の奥から顔をだし、サッちゃんが叫んだ。

 フロアでは、なぜか給仕にいそしむ、熊田加世子と宮田里沙の姿があった。


 慌てて店内に入るとき、光恵は、あの女性がこの場所で最後に言った言葉を思い出した。


『早苗さんにも、よろしくお伝え下さい。それと……()()()()()



「光恵さん、助けてぇぇぇ!」


 サッちゃんの悲鳴が、店内に響き渡った。


「ワワワ、ごめんなさい! 今行くわ!」


 光恵は走った。



 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

 


 近隣で噂の、明るい美女二人。

 その二人が経営する、軽食喫茶店。

 

【サッちゃんの家】

 

 大勢の客で賑わう店内では、今日も二人の元気な声がこだましている。

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