第32話 【高価な時計】
「ふぅ……」
光恵は、額の汗をタオルで拭い、厨房の椅子に腰掛けた。
戦争のようなお昼時が、ようやく落ち着いたのだ。
「光恵さん、おつかれさま!」
サッちゃんが、グラスに入れた冷たいお茶を差し出した。
「ありがとう。あぁ、今日も忙しかったわね」
光恵がグラスを口に傾けた。
「そりゃそうだよ! なんたって、こんな美人二人が経営してるんだから! エッヘン!」
得意顔で胸を反らせるエプロン姿のサッちゃんを、光恵はあきれた顔で見つめた。
とは言え、たしかにサッちゃんは、目を見張るような美人である。
もう、何人ものお客さんから、デートの誘いを受けている。
光恵が知っているだけでも、10人は下るまい。
「サッちゃん、だれかいい人いないの?」
「光恵さん……あのね……。お客様は、お客様なの。そんな目で見られないよ。銀行員がお金をみて、ウキウキしないのと一緒よ。うん、我ながらいい例えだわ。それより、光恵さんはどうなのよ?」
「うっ……」
そうなのだ。実は光恵も、何人ものお客さんから誘いを受けていた。
「わたしも、そういう目で見られないわね。なんと言うか……お客様の存在が、ありがたすぎてね」
「わかる、光恵さん! お客様は神様だもんね」
「フフフ、そう言われたら……」
「店長ぉ~!」
光恵の言葉が、女性従業員の間延びした声で途切れた。
「どうしたの、桃恵ちゃん?」
「あの~、お客様が~、店長を~、呼んでこいって~」
「桃恵ちゃん、またまた、なにかやらかしたの?」
光恵が桃恵という従業員を、ジトッと見つめた。
「今回は~、ちがいますよぉ~。わたしは~、コーヒーを~、持って行っただけですぅ~」
「本当に?」
サッちゃんが、ジトッと見つめた。
「ほ、本当ですよぉ~! それに~、お客様は~、怒ってる感じじゃないんですぅ~」
「なにかしら? ――じゃあサッちゃん、少し厨房をお願いね」
「光恵さん、わたしも行こうか?」
「ありがとう。でも大丈夫よ」
その言葉のとおり、大丈夫なのだ。
光恵は落ち着いていた。
あの公園での修羅場をくぐり抜けたのだ。
いまさらなにを恐れることがあろう。
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光恵は、不安顔のサッちゃんを厨房に残し、フロアに出た。
桃恵の言った人物は、すぐにわかった。
――『窓際の~、きつい感じの~、美人さんですぅ~』
桃恵の言葉通りの人物が、窓際の二人がけテーブルに腰掛け、手に持ったコーヒーを見つめていた。
「店長の大川です。あの……うちの従業員が、なにか粗相を……」
桃恵の言うことを信じなかった光恵が声をかけると、その人物が顔を上げ、光恵をジッと見つめた。
ドキッとした。
大きな赤みがかった瞳からは、意志の強さと高い知性がうかがえた。
でも、そこにある感情は……。
(なんだろ? 威圧感……? でも、イヤな感じはしないわ……)
まるで、上から下まで値踏みされているような気分になった。
光恵は、普段なら絶対にしないのだが、その女性の目をジッと見つめた。
(なんて力強い、綺麗なやさしい目……)
赤い瞳は、まるで吸い込まれるような美しさだった。
「お呼びだてしちゃって、ごめんなさい。少し、尋ねたいことがあったの。どうしても、気になって……」
(ハッ……!)
光恵は、女性の言葉で我にかえった。
「は、はい! なんなりと、お尋ね下さい!」
光恵は、明らかに年下の女性に、気圧されていた。
とはいえ、今の光恵は、目の前の女性と同じ年代なのだ。
肉体年齢はいわずもがな、なんと、戸籍や免許証まで20代なのである。
すべて、交渉代理人の田中という人物が用意したものだ。
「フフ、そんなに緊張しないでください。尋ねたかったのは、店の名前についてです。とても、いい店名だけど、あなたの名前が由来なのかしら?」
光恵は、そのよくある質問に、心底ホッとした。
今まで、何人かのお客様から、同じ質問を受けてきた。
その答えは決まっているのだ。
「いえ、確かに、この店の共同経営者の名前でもあるんですが……」
「……その他にも意味が?」
そう言った女性の目の光が、一層強くなった。
なにか期待しているような目だった。
「はい、大事な……とても大事な女の子の名前なんです」
「大事な……女の子? お店の名前にするほど、大事なんですか?」
「えぇ、とても。初めてのお給料で、この時計をプレゼントしてくれたやさしい子……その子の名前なんです」
「その時計を……初めての……給料で……」
その時、女性の目の色が変わった。
大抵この話をすると、人は微笑ましい表情をする。しかし……。
(この目は……)
光恵がその目から感じたのは、なぜか、”嫉妬心”であった。
「教えていただき、ありがとうございます。ついでに、もう一つお願いができました」
そう言う女性の目からは、やはり光恵に対する嫉妬が感じられた。
「はい、なんでしょうか?」
まさか『どうして嫉妬してるんですか?』と聞くわけにも行かず、光恵は”もう一つのお願い”を予想したが、まるで想像できなかった。
「この時計は、2000万円で購入したものです」
女性が、自分の左手の時計を外しテーブルに置いて、言った。
「へっ!? に、にせんまんえん!?」
光恵は素直に驚いたが、疑問にも思った。
女性は自慢するようなタイプではない。
交わした言葉は少ないが、まず間違いない。
むしろ自慢することを恥と感じるタイプだ。
なら、どうして……?
「えぇ、今はプレミアが付いて、さらに価値が上がっているはずよ。売れば、3000万円は下らないんじゃないかしら?」
「ふぇぇっ! そんな時計、初めて見ました!」
光恵が目を丸くした。
サッちゃんの手術費用、150万すら作れなかった光恵には、想像もつかない大金である。
たしかにすごいが、この時計と女性の”お願い”がどうつながるのだろう?
「これを、あなたの時計と……交換して下さらない?」
女性がテーブルに置いた時計を、光恵の方へずらした。
「へっ?」
こうかん? こうかんって、交換のことだろうか?
まさか、そんな……。
予想外すぎる”お願い”であった。
サッちゃんの時計はいいところ、1万円ほどだろう。
誰が見ても高級時計とは思わないはずだ。
いろいろ悩んだあげく、一つの結論に行き着いた。
(あぁ、そうか。からかってらっしゃるんだわ)
そう思って、光恵は再び、女性の目を見た。
(……っ!?)
……そこに偽りや、ごまかし、冗談の光はなかった。
その時計が、3000万円の価値があること。
そして、それを本気で交換しようとしていること。
光恵は、女性が、嘘偽り無くそう思っていることを確信した。
しかし……その目の奥の、さらに奥にあるもの……。
それも、光恵は感じ取っていた。
それは……”期待感”であった。
嫉妬心と、期待感、それに少しの不安。
そんな感情が女性の目の中で、クルクルと入れ替わっている。
(なにを期待してらっしゃるのかしら? まぁ、それがなんであれ……)
「どうかしら? なんなら、現金で3000万円用意しても……」
「お客様」
光恵は、世間一般で高価とされる時計を、女性へと押しやった。
「お断りします」
光恵は笑顔でそう答えた。
考えるまでもない。迷うまでもないことだ。
「……そう、残念だわ」
少しも残念そうではない女性は、時計を左手に装着した。
そして、残りのコーヒーを、とてもおいしそうに飲み干した。
その様子が、なぜだか、すこし急いでいるように思えた。
「ごちそうさま、お会計お願いします」
そう言って、女性は席を立ち、レジへと向かった。
(やっぱり、急いでらっしゃる。わたしが断ったからかしら……)
光恵は、少し申し訳ない気持ちになったが、サッちゃんの――樹神幸子の贈り物が高く評価してもらえたことを、うれしくも思った。
「あの、お客様……」
レシートとおつりを渡したあと、光恵は口を開いた。
「なにかしら?」
「コーヒーの味……いかがでした?」
光恵には、女性がコーヒーを飲む姿が、なぜだか印象的だった。
そこに込められた意思を、気持ちを、どうしても知りたくなったのだ。
「わたしが今まで飲んだコーヒーの中で、一番心が温かくなる……一番やさしい味だったわ」
「本当ですか!?」
「えぇ、わたしは、そんなに嘘を言わないのよ?」
そう言って、パチッとウィンクをして、くるりと背を向けた。
「早苗さんにも、よろしくお伝え下さい。それと……○△▲※◇」
ドアを開けた女性が、背を向けたまま、そう言った。
(え? 今、サッちゃんの名前を!? それに、最後……)
「お、お客さん!」
そのとき、入れ違いで二名の人物が入店した。
「ヤッホー、光恵さん、また来ちゃったぁ!」
「こんにちわ、あら、光恵さんがフロアにでるなんて、めずらしいですね」
洋服店の店長、熊田加世子と、高級ホテルのコンシェルジュ、宮田里沙の二名だ。
二人は、この店でなんども顔を合わせる内に意気投合し、今では、お互いの家に泊まりに行くほどの仲である。
女性のことは気になったが、この二人を放っておくわけにはいかない。
光恵とサッちゃんにとって、大事な常連客で……そして大切な、お互いの家に泊まりに行くほどの友人達なのだ。
「いらっしゃい。どうぞお好きな席へかけちゃって。二人とも、いつものでいいわね?」
「うん、お願い。――ねぇ、光恵さん、さっきの人となにかあったの?」
「さっきの……人? どうして?」
熊田加世子の言葉に、ドキンとした。
「えぇ、とても美しい方でしたけど、その……泣いてらしたから……」
宮田里沙の言葉で、心音はさらに跳ね上がった。
「でも、笑ってたよね?」
「えぇ、泣きながら、笑ってました。え? 光恵さん、どうしたんですか?」
「二人とも、ちょっとごめん!」
光恵は店を飛び出した!
(どこ! どっちに行ったの!?)
急いで辺りを見渡すも、雑踏にまぎれて、女性は見つからない。
――『樹神幸子さんを、とても大事に思っている人物』
交渉代理人の田中は、依頼主のことをたしかにそう言った。
その資金力から、てっきり年配の男性だと思い込んでいた。
(もしかして、あの女性が……)
光恵は走った。
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光恵はトボトボと歩き、店の前で立ち止まった。
方々走り回ったが、結局、女性を見つからなかったのだ。
ハァ……。ため息をつき、顔を上げ、店名が大きく書かれた看板を見上げ、あの日の会話――ホテルのカフェテリアでのやりとりを思い浮かべた。
――『依頼主の”お願い”――それは、あなた方二人が”樹神幸子さんの帰る場所”を作ることです』
交渉代理人の田中が口にした言葉だ。
――『サッちゃんの……帰る場所?』
――『えぇ、現在樹神幸子さんは消息不明です。マリアなる人物の言葉を信じるなら、元気に生きているのでしょう。なら、我が依頼主は、必ず見つけ出します。そのとき、幸子さんが帰る場所――。あなた方二人が、その帰る場所になってくれることを、依頼主は望んでいます』
光恵はホームレスに身をやつす前、飲食店を経営していた。
これは、それを調べた上での提案だった。
光恵は、田中のその言葉が嘘ではないと確信した。
だから、この話を受けたのだ。
だから、この店を作ったのだ。
あの子がいつ戻って来てもいいように。
あの子がすぐに、ここを見つけられるように。
光恵は左手の時計を見つめた。
あの女性が、心から欲しがった、そして、心から光恵に手放して欲しくなかったであろう時計だ。
交換を拒否した光恵の行動は、あの女性の心を、感情が抑えられなくなるほど揺さぶったのだ。
(だから、あんなに慌てて……)
今、時計の針は、正確に時を刻んでいる。
例の公園での惨劇のあと、いつの間にか動き出していた時計。
まるで、光恵とサッちゃんの人生が再スタートしたのを祝福するかのように、再び動き始めた、大事な腕時計。
ドアを開けると、いつの間にか多くのお客さんで、店内がごった返していた。
「光恵さん、遅いぃぃっ! 早く、厨房に戻ってぇぇぇっ!」
厨房の奥から顔をだし、サッちゃんが叫んだ。
フロアでは、なぜか給仕にいそしむ、熊田加世子と宮田里沙の姿があった。
慌てて店内に入るとき、光恵は、あの女性がこの場所で最後に言った言葉を思い出した。
『早苗さんにも、よろしくお伝え下さい。それと……ありがとう』
「光恵さん、助けてぇぇぇ!」
サッちゃんの悲鳴が、店内に響き渡った。
「ワワワ、ごめんなさい! 今行くわ!」
光恵は走った。
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近隣で噂の、明るい美女二人。
その二人が経営する、軽食喫茶店。
【サッちゃんの家】
大勢の客で賑わう店内では、今日も二人の元気な声がこだましている。




