第27話 【解雇】
「え!?」
光恵は飛び起きた。
となりでは、サッちゃん――永渕早苗が、背を向けたまま寝息を立てている。
血の気が、一気に引いていく。
さっきまで見ていた夢のことなど、どうでもよかった。
慌てて、卓上時計を確認した。
【午前7:18】
(うそ……。うそ! うそよ! そんな!)
光恵は、サッちゃんを起こさないように、そっと、しかし、急いでテントを出た。
身だしなみを整えるのも忘れ、走った。
「ハァハァ……」
目的の場所――公衆電話に到着すると、光恵はサイフを取り出した。
受話器を上げ、財布に入ったメモの番号に電話した。
『トゥルルルル、ピッ……はい、○△警備です』
「お、大川です! 大川光恵です! あの……」
『大川……? あぁ、ホームレ……昨日サボった人ね。あれ? なんか、声が違うな?』
「す、すみません! 本人です! 連絡もせずに……。あの、監督は……」
『あんたから電話があったら、伝えるように言われてるんだよ』
「あの……なにを……」
『二度と顔を見せるな! だってさ。あんたね、休むなら、連絡くらいしなよ。突然休まれると、現場が回んないんだよ』
「すみません! 本当に、ごめんなさい! あの……監督は、どの現場に……」
『それを、聞いてどうすんだよ? まさか、謝りに行く気? 止めてくれよ。監督の機嫌が悪くなって、こっちに、とばっちりが来るだろ。ハッキリ言って、迷惑なんだよ』
「そう……ですか。ご迷惑をおかけして、申し訳ありま……」
ガチャン。ツーツーツーツーツー……。
光恵の言葉をさえぎって、電話は切られた。
(そんな……なんてこと……)
光恵は、電話ボックスの中で、へたり込んだ。
光恵が、何週間も事務所に通って、ようやく手にした仕事だった。
携帯電話も、住所すらも持たない光恵を雇ってくれる所など、他にありはしない。
二ヶ月……たった、二ヶ月しか、働けなかった……。
とことん節約をして、たまったお金は、20万足らずだ。
(どうして、こんなことに……)
残り、130万を早く作らないと、サッちゃんの病気が……。
光恵の目から、涙が溢れ、それを拭おうと……。
「え……?」
光恵の手が、直接目に触れていた。
「あ……れ?」
電話ボックスのガラスに映った自分を、確認した。
そこには、めがねを掛けていない光恵が映っていた。
なのに、すべてが鮮明に見えている。
めがねがないと、足下すらおぼつかなかったのに……。
「どういう……あっ!」
そのとき、光恵は、昨夜見た夢を思い起こした。
いや……夢と言うには、リアルすぎる記憶だった。
少年達を虐殺した、恐ろしい少女の夢。
光恵の怪我を触れるだけで治した、不思議な美少女の、鮮明な記憶。
「まさか……あれは……」
光恵は、ボックスを飛び出し、走った。
昨日まで、ボロボロだった身体が、不思議なほど軽かった。
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「え……?」
光恵は、辺りを見渡した。
公園の東出口辺り――昨夜の記憶で、凄惨な現場になった場所だ。
「ここよ。間違いないわ。でも……」
そこには、死体どころか……血の跡すら残っていなかった。
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光恵は、テントのシートをめくり、中に入った。
途中、散歩の人や、ジョギングの人から、不思議そうな目で見られたが、そんなことよりも……。
(あれは……夢? じゃあ、わたしの目は、どうして……)
結局、あの現場では、記憶につながるものが、なにひとつ見つからなかったのだ。
わかっていることは一つ。
光恵は仕事を失った――それだけは、確実だ。
サッちゃんは、背中を向け、安らかな寝息を立てている。
いつもの、苦しそうなうめき声は、出ていない。
今日は、調子がいいのだろう。
それが、この最悪な状況で、唯一のなぐさめだった。
(いつまでも、落ち込んでいられないわ。すぐに、次の仕事を……あれ?)
そのとき、ハタと気付いた。
病気になり、少しずつ失われていった、サッちゃんの髪ツヤ。
それが、まるで、良家のお嬢様のように、艶やかになっている。
(どういう……こと?)
「うーん。ムニャムニャ、おにゃかすいたぁ……ムニャムニャ」
サッちゃんが、寝返りをうって、幸せそうな顔で寝言を言った。
その顔が……。
「ま、まさか……。サッちゃん! ねぇ、サッちゃん、起きて!」
「ムニャムニャ……あれ? 光恵さん、帰ってたの? ごめんなさい、すっかり、寝坊……」
そこまで言って、サッちゃんの目が、まん丸になった。
「み、み、み、光恵さん!? 光恵さんだよね? ど、ど、ど……」
「サッちゃん! 身体は? 身体の調子は、どうなの!?」
「へ? や、やっぱり、光恵さんだ! 今は、わたしの身体なんかより……あ、あれ? 苦しくない……。光恵さん! わたし、全然、苦しくないよ!」
そう言って驚くサッちゃん――永渕早苗の顔を、光恵は、瞬きも忘れ見つめていた。
昨日まで、血の気を失い、蝋のようだったサッちゃんの顔色が、今は頬紅をさしたように明るい。
昨日まで、ひび割れて紫色だった唇が、今は、新鮮なサクランボのように、紅くみずみずしい。
昨日まで……くすんでいた目が……。
昨日まで……かすれていた声が……。
昨日まで……昨日まで……昨日まで……。
「サッちゃん……」
光恵は、永渕早苗に抱きついた。
「サッちゃん……サッちゃ……うぅぅ……うわぁぁっぁっぁぁっぁぁん! サッちゃん……サッちゃん……サッちゃん! うわぁぁぁぁぁぁぁんっ!」
光恵は抱きついたまま、声を上げて泣いた。
自分でも驚くほどの涙が、ボロボロ、ボロボロと、大量に流れた。
今まで、ずっと……ずっと張り詰めていた心が、気持ちが、一気に弛緩した。
「よしよし、なんだか、よくわかんないけど、大丈夫だよ、光恵さん。大丈夫。もう、大丈夫だよ」
早苗は、光恵の頭を、やさしく撫でた。
「もう、大丈夫。よくわかんないけど、もう、大丈夫。これからは、ぜんぶ大丈夫な気がするよ」
早苗は撫で続けた。
まるで、20代のように艶やかな髪をたずさえた光恵の頭を、ずっと……ずっと。




