5.夏の終わり、ふたたび化学室
二学期が始まって夏が終わる頃、また職員室で同じ頼まれごとをした。
もっとも今度は俺ひとりだったけれど、教材を持って廊下を歩いていると篠原に見つかった。
篠原は、おっ、という顔をして近寄って来た。
「持ってあげるよ」
「え」
「遠慮しないでおくれ。柳田には迷惑かけたことあるし」
そう言って俺の手から教材を強引に取り上げる。半分かと思ったら全部奪われた。
「半分でいいけど」
「いやいや、お詫びだからさ、お礼だからさ。させとくれー」
「全部持ってくれるなら俺いらないじゃん」
「ひとりで化学室行くの、つまらないでしょ」
そう言うのでなんとなくそのまま連れ立って歩いた。
連れ立ってはいたが、結局ふたりとも無言だった。階段を何階か降りた頃に篠原の方を向いて言った。
「やっぱ半分ちょうだい」
女子だけ荷物持って歩いてるのがなんだか落ち着かない。
教材を上から取り上げると篠原は「よかった〜。実は結構重いなと思ってたんだよ」と笑った。
校舎の外ではまだ蝉が鳴いていた。
だけど昼過ぎの陽射しは少しずつ秋がまざったような色合いになってきている。窓から射し込む攻撃性のないくすんだ光は、どこか懐かしいような気持ちにさせる。
「開いたー!」
鍵を開けた篠原が嬉しげに叫ぶ。
中に入って前と同じように教材を置いた。
篠原がふぅと息を吐いて近くの机に座った。その横顔を見ていたら思い出した。
「あのさ、前、キスしてごめん」
「お? どうした今頃」
今更の謝罪に篠原がきょとんと目を開いた。
「俺、最後にキスしたの、篠原なんだよね……」
篠原は「へ」と言ってきょとんとしていたが「それはそれは」となんとも言えないリアクションをとった。
少し離れた椅子に座る。
「小六からずっと彼女いて、ほとんど途切れたことなかったから、その頃は大したことだと思ってなかったんだけど」
「おおぉーすーげー」
「でもなんか二年の秋からずっといないでいたら、結構感覚変わったんだよね」
たとえば周防は行動してみたことで色々変わったと言っていたけれど、俺の方は逆に、今まで当たり前に深く考えずにやっていたこと達をやめたことで、少し何かが変わった気がする。
篠原が「うんうん」と深く頷いてみせる。
「あたしもあの後感覚変わったよー」
篠原は窓の外の方を見ながら続ける。
「だから今では結構ね、そういうの、自分の中で無かったことにできるんだ」
篠原はおどけて「うん。だからダイジョーブだよん」と笑ってみせる。
篠原の感覚が変わったのは無かったことにしなければ辛い経験を積んだからかもしれない。そうは思ったけれど、それについては何も言わなかった。
しばらく遠くを見て座っていた篠原がそのままの目線で口を開く。
「あのね、大学生だった……」
「え?」
「あたしが付き合ってた相手……。そん時毎日すごい浮かれまくってて、休みの日に押しかけたら玄関に女物の靴があって。それもあたしじゃ買えないようなやつ」
篠原はなんとなく自分の上履きに視線を移した。
「大学の同級生だったのかな。その靴ね、前に一緒に歩いてて、あたしが可愛いって言ったやつだったの。だからプレゼントしたのかもしれない……」
「うん」
「その日はショック受けてそのまま帰ったんだけど、友達だったのかもって思い直して、えいやって連絡して聞いてみたらあっさり、もう会わないってメッセージが来てさ、終わった」
「うん」
「思い直すのも馬鹿なんだけどね。玄関に女物の靴、いっこしかなくて、ふたりきりだったし……なんか声、聞こえてたし」
篠原の言う“声”が単なる会話では無かったのは想像に難くない。だからなんとなく苦い気持ちでそれを聞いた。
「その時相手の顔は見なかったんだけど……お祭りで」
「あぁ」
見なくてもいいものをリアルに見てしまったわけだ。話や音の情報だけだとそこまで現実感がなかったものが目の前に視覚として現れたそれは、結構衝撃的だったんじゃないかと思う。
けれど、今現在それを話す篠原は辛そうではあるけれど、他人の傷ましい話をたんたんと話しているような顔で。かつてあった叫び出すような痛みや悲しみはもうそこに感じられない。
「誰にも言ったことないんだ。この話。女友達にも……」
そう言う篠原の声はちょっと掠れていて、こちらを見た彼女は照れているような、泣き笑いのような、複雑な顔をしていた。
「なんとなく、柳田なら、少し離れたとこから聞いてくれそうな気がして」
「そういうの、前結構あったよ」
話しやすいのか、なんなのか、俺は誰にも言えないような、そういう話を女にされることは意外と多かった。
「そんで、話聞いて、慰めて、俺がそのまま付き合ってた」
「マジで?」
「俺、モテないから、そういうのにつけ込んでたんだよね」
篠原はぷっと吹き出して「最悪」と笑った。けれど笑ってもらえて、良かった。
モテるってなんだろう。口が上手かったり、ずるい手口でたくさん付き合っていたからって、モテるとはちがうような気もする。俺は「別れよう」と言って相手に嫌だと泣かれたことだってない。
「ねぇ柳田」
「ん?」
「キスしていい?」
「……」
“なんで”の言葉は薄い拒絶を含んでいる気がして、口に出せなかった。
篠原は長い髪を緩くかき上げて照れたように笑った。
「いや、ね! なんとなくあたしもさ! 最後のキスを柳田にしてみたい気がした!」
「なんだよそれ」
ちょっと笑って、立ち上がって篠原に近付くと、彼女も立ち上がってこちらを見た。
頭を近付けると、篠原が目を閉じた。
そっと唇を重ねる。
触れたんだか触れてないんだかくらいの軽い重なり。
たぶん人生で1000回くらいあるうちの一回。
だけどその時、その一回が何にも代え難い、とても大切なものに思えた。




