3.ピアノと慟哭
春が来て、鈍足歩行カップルがようやく付き合い出した頃、相変わらず俺はひとりだった。
思いのほか、気楽。
休日や放課後を拘束されることもないし、どうでもいいご機嫌取りのメッセージを考えるのに費やす時間も無くなった。遊びたければ男友達を誘えばいい。のんびり過ごせている。
無理していたつもりは無かったけれど、もしかして今まで無理してたのかなと思う程度には楽だった。
珍しく授業のあった土曜日の放課後。部活動のある生徒達がこれから後の部活に備えてお昼をとっている緩い時間帯。俺はそのまま帰る気になれずなんとなく校舎の外をうろうろしていた。
どこか上の方の教室からピアノの音が聞こえる。
なんだっけあれ。
どこか少し陰鬱な気持ちになるその曲の題名を脳内で検索する。
サティだ。ジムノペディ。
思い出した時、すぐ近くの足元の茂みがごそりと動いた。
「うわっ」
茂みとほぼ同じサイズの人がうずくまっているのだと認識した時、飛び退いた。
「うわ、なに……篠原?」
「柳田……」
うずくまっていたのは篠原だった。
篠原はスマホ片手にぼろぼろと隠しもせずに盛大に泣いていた。前回見た時より酷い。黙っていれば美人系なのに色々台無しだ。
とりあえず何か間の悪いところに居合わせたのは分かる。
黙って立ち去ろうとした時また鼻声で「やなぎだ」と聞こえる。立ち止まって、恐る恐る振り向いた。
「ふぁーすとぎす、あんたでよかっだかも……」
「……はい?」
唐突な物言いに、軽く身構える。
篠原はその後一回大きくしゃくりあげた。まだしゃべるのが苦しそうな感じに泣いている。
「あだし、遊ばれてたの……」
あ、そうなんだ。
思ったけどその感想は封印した。
「あんな奴に……全部捧げたと思うと癪だがら、柳田でよがっだ」
えらく消極的な理由で肯定された。あまり嬉しくない。
その後篠原はぱっと起き上がって唐突に俺に向かってタックルをかました。
「ぐえっ」
「おーおぉおおぉ! おどこなんてぇえええ!」
胸の辺りを緩慢な動きでばしん、ばしんと数回叩かれる。
それからしがみつくようにして胸に顔を埋めてひーん、と愉快な呻きをこぼして、篠原はおいおいと泣き叫んだ。
うわ。
こりゃ、遊ばれるわ。
なんとなく脳内で納得する。
篠原はさばけているようでウェットだし、一見硬そうに振る舞うが隙だらけだ。
とりあえずそのまま座り込むが、一向に離れようとしない。吸着力が強い。
だからしばらくそのまま、篠原は泣いていた。
最初は激しかった慟哭はだんだんと小さなものになっていって、やがて小さなしゃくりあげる音へと変わっていった。
無意識に頭を撫でていたらしい。篠原が顔を上げてそのことに気付く。
ぱっと手を離すと「もっと」と言ってまた顔を埋めて泣き直した。何この人。俺じゃなかったら色々どうなのそれ。あまりの無防備さに見当違いに腹まで立ってくる。
*
「お前なんでそんな楽しそうなの」
空き教室で昼飯を食べながらなんとなくあったことをざっくり周防に話すと非常にニヤニヤされた。
「えー、だって柳田が女に振り回されてんの、オレすごい楽しい!」
「そうですか」
確かに篠原には殴られるしタックルされるし泣き喚かれるしでだいぶ振り回された。あいつに関わるとろくなことがない。調子も狂う。周防には面白がられるしで散々だ。
「付き合わないの?」
「え、なんで? 全くそういう感じじゃないけど」
顔をしかめて言うと周防はまたゲラゲラ笑った。
「だからなんだよ……」
「柳田が! 恋愛体質の柳田らしからぬこと言ってるから! ちょう受ける!」
「お前もたいがい笑いの沸点低いよな……」
思うさま笑っている周防に「そっちはどうなの?」と聞くと真顔で「やらないからな!」と返される。こいつにとって俺は一体どういう人間なんだ。
「柳田は知らない人間には人畜無害だけど、うちとけるとろくでもないから」
見た目ほど真面目ではない自覚はある。
しかし話してて感じるあからさまに信用のない感じ。最初篠原からも同じものを感じた。あちらはさほど仲良くないからなんで分かったのかは疑問だが。
そんな男に抱き付いて泣くとか、あの人どうなってんだよ。ガードユルユルじゃん。今なら誰でもやれるんじゃないの。
しないけど。
「あ、でもオレ的にはギリギリのラインで最低を上回っている!」
「なにそれ」
「柳田、人として越えちゃいけないラインはギリ越えてないよ!」
「当たり前だ!」
笑顔でフォローにならないフォローをされて、なんとなく周防の頭をはたいた。
*
教室に戻ると篠原が殊勝な顔で寄って来た。まだ目に泣いた痕跡は少し残っているけれど、だいぶ落ち着きを取り戻したように見える。
「先程は取り乱してすまんでした……」
「嫌いな奴相手によくもまぁ」
「嫌いっていうか、苦手だった……」
篠原は正直に返してくる。そうかよ。
周防にしてもこいつにしても、少しは建前とか使って人にモノを言って欲しいもんだ。
篠原はこちらを見て「でもね」とごく小さい声で言う。
「でも柳田はね、こわくは、ないんだ」
「なにそれ」
篠原は幾らか決まり悪そうにボソボソ言う。
「柳田は腹黒いのが、ぜんぜん隠れてないから」
どうやら遊ばれていた事実は篠原にとってかなり寝耳に水な出来事だったらしい。
まぁ、篠原の迂闊な性格を考えると、色々簡単に想像出来てしまうが。
同じ腹黒なら隠れている奴よりマシと言うことなんだろうが。嬉しくない。
だいたい腹黒いなんてのも篠原以外に言われたことがないのに。なんでこいつには分かるんだよ。
「いや、醜態をさらしたなぁ」
「ほんとにね……」
篠原はもう一度「ごめんね」と下がり気味の気の抜けたイントネーションで言って席に戻って行った。
篠原はそれからも数日、どことなくしょんぼりしていたけれど、夏が来る頃には持ち前のへらへらした笑顔を取り戻した。