婚約覇気っ!
「許せぬ!」
青年貴族は激怒した。必ず、かの邪智暴虐な害悪令嬢に婚約破棄せねばならぬと決意した。
青年には婚姻の仕組みが分からぬ。青年は貴族である。そのあたりの祭事には精通している筈なのだが……青年の脳みそは筋肉であったーー因みに比喩である。
いわゆる世間的には阿呆な青年ではあるが邪悪には人一倍敏感であった。
ある日ふと、日課の馬車引き(馬4頭で引く馬車を引っ張りながら10km走る)をやっていると、泣いている令嬢を見つける。
その令嬢は青年の知り合いである。いつもは馬鹿みたいに明るく元気な女である。一体どうしたものか。
「ふええぇっ!……つらいよぉおおぉお!」
のんきな青年貴族もあまりの泣き具合に、不安になり駆け寄る。青年は令嬢に理由を聞くが、中々話さない。
青年は肩を両手で揺さぶり令嬢に質問を重ねる。
「ちょ、痛いっ! 肩外れる!」
令嬢は青年の馬鹿力に悲鳴をあげる。
「む、すまぬ……」
「あ……。ふ、ふえぇ……苦しいよう!」
「い、一体どうしたと言うのだ。シルヴィナ」
令嬢ーーシルヴィナは一瞬素に戻るが青年は気づかなかったようだ。青年は阿呆である。
シルヴィナはさめざめと泣きながら静かに語り出した。
「貴方の婚約者ーーエレナ様が私を虐めます」
「何故虐めるのだ」
「私が悪心を抱いてる、と言うのですがそんな悪心はもっておりませぬ」
「たくさん虐めたのか」
「はい、初めは私の靴を隠し。それからドレスを破き。それから仲間外れに。それからティーカップを割り。それから暴力を」
「驚いた。エレナはご乱心か」
「いいえ乱心ではございませんわ。私が憎いとおっしゃるのです。この頃は自らのご友人も仲間に加わるように強制し、逆らう者にも制裁をしてますわ」
その他もろもろシルヴィナはエレナに貴方は騙されていると吹きこんだ。悪徳令嬢の口八丁ここに極まり。
聞いて青年は激怒した。
「呆れた婚約者だ。婚約してはおれぬ」
青年は単純な男であった。そのままダッシュでエレナ宅に走り出す。
「あっ、ちょ、今から?!」
シルヴィナの声は届かない。
「むっ、30日後まで留守か」
「そのように以前お伝えしましたが……」
「言われてみれば」
エレナは留守である。そして青年は阿呆である。しかし、青年は悪には敏感だ。その心の闘志は消える事はない。
だがーーーー青年の頭に一つの疑問が浮かぶ。
「どうやって婚約破棄すればいいのだろうか?」
青年には策略が分からぬ。筋肉と戯れて過ごして来た。けれども諦める事を知らなかった。
以前聞いた事がある、真に心を込めればその発する言葉は邪悪を打ち倒すと。
ーーーーその日から、青年は山に篭った。
「婚約を破棄するっ! 婚約を破棄するっ!」
高い樹々が立ち並ぶ森。その深くに青年の声が響く。風が吹こうと、雨が降ろうとその声は止まらない。
「婚約を破棄するっ! 婚約を破棄するっ!」
時に川に浸かりながら、時に滝にうたれながらも青年は叫び続けた。その形相は鬼気迫るものがありーーーーまさに修羅。鬼の形相である。
「婚約を破棄するっ! 婚約を破棄するっ!」
意思を込め続けた言葉は次第に力を帯びーーそして。
■ ■ ■ ■
「い、一体何の発表なのかしら」
突然の婚約者の呼び出しにエレナは期待を隠せない。今日は婚約者が客を招き、重要な発表をしたいと言う。
フィアンセからの発表と言ったら一つしかない。エレナは心を踊らせる。招かれた客も2人を祝福する心積もりであった。
一部の人間を除いて。
(くっくっく。馬鹿め。お前は婚約破棄されるのよエレナ)
シルヴィナは陰でほくそ笑む。もう直ぐ憎きエレナが婚約破棄されると考えると笑いが止まらなかった。
(……だけどあの阿呆貴族は大丈夫かしら)
ここ数日、連絡が取れなかった。つい昨日手紙が来たがそこにはーー。
《婚約破棄を極めた》
(極めるってなんなのかしら……やっぱ頭逝ってるわね)
まあ、婚約破棄だけ宣言してくれれば良い。その他の詰めの準備はシルヴィナは容易万端であった。その布陣は万が一の婚約破棄も逃さないだろう。
「しかし遅いです……ああ早く来て私のフィアンセ」
(早く来いあの阿呆貴族)
そして扉が開きーーーー青年は現れた。
「あ、エレナ待ちわびした………わ……?!」
(?!)
エレナとシルヴィナ……そしてそこにいた全ての人々は言葉を失った。そこに立っていたのはあの貴族の青年。
確かに青年であるがーーーー修羅であった。山の様な体躯。筋肉が隆起し、その顔には無数の傷。そして身に纏うオーラ。それは荒ぶる火炎の様に激しく、霊峰の樹々の様に揺るがない。
そこにいたのは1人のーーいや、一匹の怪物であった。
誰もが動けない。だが、やがて青年はゆっくりと息を吸い、言い放った。
ーーーー婚約破棄する。
空気が震え、その言葉はーーーー邪悪を貫いた。青年は極めたのだ。真の邪悪を砕く婚約破棄。悪意に染まった婚約を破棄する力を。
もはやこれは婚約破棄ではない。婚約覇気である。そしてこの言葉はエレナをーーーーでは無く。
「ぶげらばっ?!」
シルヴィナ以下、手下達は泡を吹いて昏倒する。青年の婚約覇気は邪悪を砕いたのだ。
「え、な、何これ?」
「むっ、何故シルヴィナが倒れるんだ」
状況が掴めないエレナと青年であった。
その後青年は真実を知り、シルヴィナは何処かへ逃げ去った。そうしてエレナとめでたく結ばれたのであった。
やがて青年は婚約覇気の力で大いなる戦いに巻き込まれていくーーこれはまた別の話である。