斜め30度の入道雲(作:鈴木りん)
先ほどまで澄みきっていた、青空。
それを一気に食べ尽くすかのように、もくもくと湧き上がった入道雲が、貴之のすぐ頭上にまで近づいていた。
午後の二時。
彼にとっては、ごくごく普通でありきたりな、初夏の昼下がりだ。
いつもなら、川面からのひんやりとした風が堤防の斜面と彼の頬を撫でるように通り過ぎて行くのだが、今日は妙に生温かく湿った空気だけが彼の周りで淀んでいた。
午後の授業は、もちろんサボタージュした。
弁当を食べ終わり、校門を抜けようとする彼に声を掛けようとした者など誰もいない。
要するに……学校では全然目立たない存在の彼なのだ。
通学用の自転車に跨り、真っ直ぐこの場所に来た貴之は、一面の芝生が広がった堤防の斜面の上でバタンと倒れ、仰向けに寝そべった。
――芝生の緑が、制服に付いてるじゃないの!
ここで過ごした後に帰宅すると、母親は決まって目くじらを立てて怒る。
けれどそんなこと、彼にとっては些細なことだった。これっぽっちも気にしていない。今日も今日とて芝生に寝そべり、両耳に挿した白いイヤホンから、スマホアプリでラジオを聴いている。
「……高校生活なんて、退屈なだけさ」
むくむくと膨れ上がる入道雲を睨みながら、貴之が呟く。
まさに、雲行きが怪しい状況だ。
たくさんの色の水彩絵具をパレットの上でぐちゃぐちゃと混ぜたような、そんな感じに世界が灰色に化したときだった。
貴之の2メートルほど横の斜面の上に、一人の女子高生が、ちょこんと座ったのだ。
きっと、彼と同じように、彼女も授業をさぼったのだろう。
(え!? ど、どうして俺のすぐ近くに?)
不意の出来事に、貴之は、どぎまぎする。
ついさっきの発言を今直ぐにでも撤回したくなるほどの、強烈なときめきだった。
ちらり――。
貴之が、体の向きは変えずに目玉だけを動かし、彼女を見遣った。
体育座りした彼女は、短いスカートで覆われた膝の間に顔を埋めるようにして俯いていた。艶のある長い髪が湿気を含み、重そうに垂れ下がっている。
(幽霊とか、幻……じゃないよね)
彼女の存在をその眼で確かめた貴之のハートは、彼女の垂れ下がった髪とは対照的に、うす暗い空へと舞い上がった。胸の鼓動は、高鳴る一方だ。
でも、それはあくまでも彼の体の中の話。顔は、先程までの表情のままだ。
なにせ、男の90%は“やせ我慢”でできているのだから――。
こうしている間にも、空はどんどん暗くなっていく。
灰色を通り越し、もうほとんど黒と云ってもいいくらいの色になった。
だが、今の彼にとってそれは、どうでもいいことだ。大事なのは、彼女の存在。
顔は暗い空に向けたまま、神経を彼女に集中させる。
ラジオの音楽が、まるで修学旅行で尋ねたお寺の、えらいお坊さんのお説教のように思えてきた。全然、頭に入って来ない。
ぽつッ、ぽつッ――
ついに、空が泣きだした。大粒の雨が落ちて来る。
あの、降り始め特有の砂塵の匂いが辺りに立ち込め、貴之の鼻の奥をくすぐった。
(雨も降り出したし、彼女、きっと帰っちゃうんだろうな……)
目だけ動かして、彼女の様子を窺う。
けれど彼女は、降り出した雨に動じていなかった。びくりとも、動かない。長い黒髪とセーラーの布地に、円を描くようにして、雨粒が浸み込んでいく。
(このままじゃ、風邪ひいちゃうぞ……。ええい、仕方がない!)
それは、男のやせ我慢が何処かへと吹き飛んでしまった、瞬間だった。
がばっと起き出した貴之が、脇に置いていたリュックに手をやり、中を探る。
(雨をしのげる物、しのげる物……)
もとより、傘など持ち歩かない性格の貴之だ。
彼がバッグから取り出したのは、まだ新品のノートだった。最近買った物でもないのだが、授業では何も書かないので、ずっと新品のままだった。
「えーと……風邪ひくよ」
彼女に駈け寄った貴之は、彼女の頭の上にノートを翳し、傘代わりにした。
そんな自己犠牲の塊のようなノートにも雨は容赦なく落ちて来て、ぼつぼつと音を立てた。貴之の目前で、みるみる、ノートがふやけていく。
貴之の制服の袖からも、雨は滴り続けた。
「……」
ゆらり、顔を上げた彼女が、コマ送りのようにゆっくりと、振り向いた。
どきりとするほど、大きくてつぶらな瞳。
雨粒ほどの涙をたたえながら、それは貴之を見据えていた。
「何……するのよ」
「え?」
「何、勝手なことするの、って云ってんの!」
「え? えっ!?」
「さっき、彼氏と別れたばっかりなの! 雨で涙を洗い流そうと思ってたのに……勝手なことしないでよ!」
「え? えっ!? えー!!」
頭の上のふやけたノートを右腕で薙ぎ払い、彼女が何処かへと去って行った。
勢いよく破けたノートが、手に残る。
けれど、雨で掻き乱された空気には、彼女の残り香すらなかった。
(彼女の意識の中に、俺はいなかった。ただ、それだけ。至極、単純なことだ……)
ははは、と乾いた笑いを湿った空気に吐き出すと、再び緑の斜面に腰を降ろして、大の字になった。
すぐさま、初夏の生温い雨の糸が、彼を60度の角度で覆い尽くした。
(俺の存在って……どんだけ薄いんだよ)
気がつけば、服はずぶ濡れ。これなら今日は、芝生の緑が付いたと母親に怒られることもないだろう。「服が濡れてる!」と、叱られるような気はするが――。
雨は、既に本降りに変わっていた。
ザーザーと音を立てながら落ちる雨の音に混ざり、貴之の耳の中にはイヤホンからの音もあった。
暫くただの雑音だったラジオが、突如、意味のある音楽に変わる。
「Alone Again――naturally」
ほんの少しだけ動いた貴之の唇から、漏れた言葉。
曲の歌詞らしいその言葉は雨に溶けて水溶液となり、そのまま地面に浸み込んで、消えてなくなったのだった。
―おわり―