縒りを掛ける(作:葵生りん)
「それはね、運命眼鏡っていう商品だよ」
「運命……?」
その時私が手に取っていたのは、ごく普通のシンプルな銀縁の眼鏡にしか見えなかった。
その日の朝、慣れない枕だからだろうか、前日随分歩いて疲れていたにもかかわらず朝日の昇る頃に目覚めた。
真面目が取り柄の夫と連れ添って10年になるけれど、突然旅行にでも行こうかと言われた時は驚いた。旅行なんて新婚旅行以来したことなどなかったのだから。
照れ隠しなのだろうかテレビの方ばかりを向いて「新婚旅行が長崎だったか。久しぶりに行ってみるのもいいかもな」だなんて呟く夫の横顔をほほえましく眺めたものだ。
ふふっと思いだし笑いをしてから、なんとはなしに窓を見やる。
窓は朝日でぼんやりと金色に光る朝靄のかかった町並みを切り取っている。夜景が有名だけれど、朝靄の中をぼんやりと船の明かりが揺れる様も幻想的だ。
窓を開けるとひやりとした空気が頬を撫でた。昼間はべたついて不快に思えた潮風も、涼しい時間には心地良くて目を細める。けれど、健やかな寝息をたてていた夫が呻いて寝返りを打ち、慌てて顧みる。夫がむにゃむにゃ言いながら布団を耳の上まで引き上げたから、後ろ髪を引かれながらもそっと窓を閉めた。
すっかり目が冴えてしまったから着替えを済ませお茶を煎れて呑んだりもしたのだけれど、湯飲みがすっかり空になっても夫が起きる気配はない。起こすのも申し訳ないけれどせっかく旅行にきたのだからとふらりと一人で散歩に出た先で、アンティーク調の洒落た雑貨店を見つけた。
新聞配達の自転車くらいしかすれ違わないような時間帯なのに、洒落たアイアンランプには明かりが点り、伸びをする黒猫の形をしたかわいらしい看板を照らしていた。
掲げられた店の名前は『黒猫貴品店』。
店の名前からして高そうだけど、他に行くあてがあるわけでもなし、見るだけならタダよねと、ふらりと立ち寄ることにする。
扉を押すとちりんちりんとドアベルが鳴るが、迎える店員の声も足音もしなかった。
見渡せば店内には魔術書みたいな古ぼけた本が積まれていたり、壁にはタペストリーや七色の布が飾られていて。陳列棚には砂時計や壷、空っぽのもあれば星の砂が入った瓶もある。それから果物ナイフみたいなものだとか――とにかく狭い店内に雑多なものが所狭しと並べられている中、その眼鏡はあった。
誘われるように手に取ると、唐突に声を掛けられたのだった。
「そ。運命」
顔を上げると漆黒のドレスの裾をひらりと揺らして少女がにっこりと笑い、短くそれだけの返事をした。しばらく見つめてみたけれど、可愛らしい笑みを浮かべるだけでなにも言うつもりはないようだった。
仕方なくもう一度眼鏡に視線を落とす。
と、レンズを通して見た床に、一本の赤い糸が落ちていた。
糸、と言っていいものだろうか。どちらかといえば紙縒のようにも見えた。その糸を拾おうとして眼鏡を退かすと、不思議なことにそこにはなんにも落ちていなかった。
けれどもう一度レンズを通して見れば確かに赤い糸が見える。見間違いではないのかと何度かレンズを覗いたり退けてみたりを繰り返していると、くすっと笑う声がした。
「お客さん、運命の赤い糸って知ってる?」
はあ、と曖昧な返事をする。
きっと子どもだって知っているだろうから。
「運命の人とあなたの小指と小指を繋ぐ赤い糸。それが見えるのがこの運命眼鏡なのです」
年頃ならばバイトにも見えるけれど、その説明は歌うように流暢で――あるいは魔女が呪文を唱えるようにも思えるほどに堂に入っていた。
まさか、と思いながらもう一度レンズを覗くと、赤い糸は確かに私の小指につながっていた。
「信じるか信じないかはあなた次第♪」
歌うように告げた少女はにぃっと笑った。
旅館に戻ると、夫はまだ眠っていた。
どこか夢を見ているような気持ちで、その寝顔を見つめる。それから、手に持っていた紙袋を。
あの店の前であの少女が「毎度ありがとうございました」と黒猫のスタンプが押された紙袋を手渡したのは、朧気に覚えている。
決して安くはなかったはずなのにどうして買ってしまったのか、その記憶は雲を掴むように曖昧だ。
紙袋から取り出した銀縁の眼鏡をぎゅっと握りしめ、くうすうと寝息を立てている夫を起こさないようにそっと布団をめくる。結婚指輪をはめている薬指の隣にある小指をじぃっと見つめ、ひとつ大きくゆっくりと息を吐いてから目を閉じて眼鏡をかける。
もう一度大きく息を吸って、それから細く長く吐いて。
限界まで吐ききってしまってから夫の手を握りしめ、ゆっくりと細く目を開けた。
二本の糸は、好き勝手な方向に伸びて、繋がってはいなかった。
やっぱり、という想い。
信じられない――信じたくない、という想い。
どちらも同じだけあって、いつのまにか外した眼鏡を握る手が震えていた。
運命の赤い糸で繋がっているだなんてドラマティックな展開を期待していたわけじゃない。人並みのまっとうな人生を歩んでほしいと親が勧めたお見合いで出会った人なのだから。
良くも悪くも真面目で仕事熱心な夫に、良くも悪くも平凡な人生だった――。
ふいに、テーブルの上に旅館が用意していた茶菓子が手つかずのままに置かれているのが目に入る。「銘菓 よりより」と書かれたそれは、2本の棒が緩やかに縒り合わせられた形をしている。カンパンのようにとても堅くて、地味な菓子。
――信じるかどうかはあなた次第♪
少女の笑みが浮かんで、急にその存在が厭わしくなって眼鏡を思いっきり窓の外に放り、それから夫の隣に潜り込んで頭まで布団をかぶった。
…… * ……
「ん、誰かの落とし物かなぁ?」
旅館の庭に落ちていた銀縁の眼鏡を拾ったのは、バイトをしている女子学生だった。
こんな眼鏡をかけたお客さんがいたかしらと思い出しながら拾い上げた時、眼鏡を通した先に自分の手に絡む赤い糸が見えた。何度かひっくり返して眺めてみても自分の手にはなにもついていない。眼鏡をかけてみれば、自分の小指から赤い毛糸のようなものが伸びていた。
「これって……もしかして……?」
触れてみようとしたけれど、その赤い糸は3D画像を掴もうとするみたいにすり抜けた。ならばと赤い糸をたどってみる。
触れられないから目で追うことしかできないけれど、糸が伸びている方向は学校だった。わくわくしながら糸を追ったのだけれど――でも教室で、その糸はたくさんの糸と絡まって、どれが自分のものとつながっているのかわからなくなってしまった。
(なあんだ、つまんないの)
肩を落とした時、友達が「なにそのメガネー?」と声をかけてきたので「拾ったの。帰りに警察に届けようかと思って」とか適当にいいながら鞄にしまい込んだ。
…… * ……
電車の中、友達から不思議な眼鏡の話を聞いた。
なんでもバイト先で拾ったから警察に届けるつもりだとか。
「ね、ね、ね。それ、ちょっとだけ貸して?」
「なになに、好きな人でもいるの?」
「いなくてもちょっと気になるじゃん!」
ふざけながら貸してもらった眼鏡をかけて見回すと、仲良く寄り添って座っている老夫婦の小指は赤い糸で繋がっていた。
「おおっ、おもしろ~い!」
はしゃいで見ると自分の小指から細い縫い糸のようなものが伸びている。それからそっと友達に気づかれないように盗み見たのは、いつも同じ電車に乗る別の学校の男の子。
「ふーん、あの人ねぇ~」
「あ、ゼッタイゼッタイ、ナイショだからね!」
友達がにやにやしているところを見ると、想い人がバレてしまったらしい。でも今はそれより糸が繋がっているのかどうかが気になって、ともかく彼の小指を見る。
けれどそれは電車の窓から外に伸びていた。
「ねえねえ、どうなの? 運命の人だった!?」
きゃいきゃいと騒いでいる友人の声にむしゃくしゃして、自分の小指から出ている糸を力一杯に引っ張った。
するとぷちっと軽い音がして、糸が切れた。
「……え、ウソ!?」
「どうしたの?」
「糸、切れちゃった……」
「え? ウソ、私は触れなかったよ!?」
幽霊が見えたり触れたりできる霊感のように、個人差があるということだろうか。それはそれとして、だ。
「運命の糸が切れたってことはさ、私、私……」
ぽろぽろと涙がこぼれて最後まで言うことはできなかった。
「あ、そうだ! 触れるんならさ、結んで繋げちゃえばいいよ!」
「えー……、そういうの、悪いことが起きるって占いの本で読んだことあるけど……」
そう言いながらも、ちらりと彼を見てしまった。
「わかんないじゃん! やってみようよ~」
不思議そうにこちらをちらちらと見ている彼と、ひらりひらりと頼りなく揺れる糸。
それから、必死になってくれる友人の言葉。
「……うん。やるだけやってみる」
本当はもうひとつ先の駅だけれど、友人とふたり、彼と同じ駅に降りる。人がまばらになって糸をたどるのも容易になる。彼の小指から伸びている糸を拾い上げると売店の影に隠れる。引っ張ってみるが、釣り糸みたいに張りがあってなかなか切れない。
私の糸は簡単に切れたのに。
それだけ強い絆なのかもしれない。
ムキになって何度も力一杯に引っ張ると、ようやくぶちんと切れた。
震える手で自分の小指から出ている糸と結んでみる。
釣り糸のようなものと縫い糸のようなもの……ちぐはぐな二本の糸は普通の2回の固結びじゃするりと抜けてしまう。だからできるだけしっかりと、3回も4回も結んだ。
糸がしっかりと結ばれたのを確認して顔を上げると――彼と、目が合った。
彼は照れくさそうに笑って頭を掻くと、「これ、君のじゃない?」と私のパスケースを差し出した。
…… * ……
違う。違う。
なんでこんな目に遭うのだろう。
なんでこんなことになるのだろう。
こんなはずじゃ、なかった。
「なんで………っ!」
血に濡れた果物ナイフがこぼれ、ことりと床に落ちた。
ふるえた手――その小指の先でひらりと揺れる赤い糸は、ぷつりと切れてどこにも繋がってはいなかった。
…… * ……
「やっぱり、だめだったね……」
急逝した友人の通夜の席。
安らかとは言い難い顔の横に花を添え、誰にともなく呟いた。
「ごめんね……私が、変なこと言っちゃったから……本当に、ごめんね……っ」
棺に縋って泣き崩れると、軽く肩に手を添えられた。顔を上げると亡き友人の夫が曖昧な表情で立っていた。
「妻が遺書に……この眼鏡は君に返してくれと……」
「……え……」
銀縁の眼鏡を押しつけるようにして渡され、呆然とそれを見つめた。
人の波が動き出して我に帰り、ゆるゆると火葬場に向かう霊柩車に乗り込もうとする波を見送る。その人波に紛れて、彼の背中にそっと触れる手が見えた。
それが誰の手かはわからなかったけれど、わかりたくもなかった。
その帰り道、橋の真ん中で立ち止まる。
両手で眼鏡を軽く握ったまま欄干に乗せ、ぼんやりと川の流れを眺めて水音に耳を傾けていた。
「なあ、元気だせよ」
突然、ぽんと背中を叩かれて、びくりと全身が震えた。
「………あっ!」
かしゃんという音とともに欄干の外に眼鏡を取り落としてしまい、咄嗟に追い縋るが手のひらは宙を掻いた。
「なんていうかその、ショックだっただろうし、元気なんて出ないだろうけど、なんていうか、その、よくわかんないけどさー……その……」
眼鏡を落としたことに気づかない男の人はもごもごと口ごもっている。どこかで会ったことがあるような覚えがあるけれどどこの誰だかは思い出せない。
「あれ?俺のこと、覚えてない? 高校で同じクラスだった――」
「あ。あー、うん、覚えてるよ!」
おぼろげに、という言葉は飲み込んで答える。一度も話した記憶はないし、顔もスポーツも成績もぱっとしない影の薄い人だったから、名前も出てこないけれど。
「急に話しかけてごめん。俺もさっき、通夜行ってきたんだ」
「あ……そうなんだ……」
「仲、良かっただろ。橋の上でぼんやりしてるから心配で、つい――」
どきりとした。
あの時、教室で見た絡まった糸はもしかして、と。
ちらりと橋の下に視線を投げるが、眼鏡は川に落ちたのか草むらに落ちたのかすらもわからない。
(……ううん。これで、いいのかも)
振り切るように勢いをつけて立ち上がる。
あの眼鏡に振り回された友人の通夜に行ってきたばかりだからか、運命なんて知らないほうがいいのかもしれないと思えた。
「大丈夫。私は、大丈夫だよ」
…… * ……
「はい、落とし物ですね。でしたら調書を作りますのでこちらにおかけください」
落とし物を届けにきた黒服の少女に、椅子を勧める。
「いいえ。これはあなたの奥様が無くしたものなんです」
「は……?人違いじゃないですかね?」
妻は最近になって老眼なのか見えにくくなったから作ろうかしらと言い出したくらいで、眼鏡など持っていない。連れ添って30年も経つが一度も眼鏡をかけているところを見たことがない。だから無くすはずなどなかった。
けれど遺失物届とボールペンを出して顔を上げた時には、落とし物を届けにきた少女はどこにもいなかった。
けれど机の上には、銀縁の眼鏡が置きざりにされたままだった。
「あらまぁそれで、どうなさったんです?」
帰宅しネクタイを緩めながら今日あった不思議な客のことを話すと、目を丸くした妻が聞き返してくる。
「うん。一応上司に相談しておまえにあらためてもらったほうがいいだろうということになってね、鞄に入っているから念のため確認してみてくれないか」
「わかりました。――お夕飯の準備はできてますから、どうぞ先に召し上がっていてください」
「ああ」
私の鞄を引き取った妻に先立って食卓へと足を向ける。
先に食べていていいと言われたが、テレビを点けてほどなくすると妻も食卓に着く。
「やっぱり私には全く覚えがありませんでした」
「そうか」
そんなわかりきっていた報告を受け、一緒に箸を取る。
子供が巣立って以来会話に乏しい食卓には、テレビの占いだか心理テストだかというくだらない内容が流れてくる。つまらないから切り替えようかとリモコンに手を伸ばすと、不意に妻が口を開いた。
「……ねえ、あなたはもし私のほかに運命の相手がいたとしたらどうなさいます?」
突然の奇妙な質問に目をぱちりと瞬かせると、妻は「ほら、今テレビで運命の人とか言ってたでしょう?」と曖昧な笑みを浮かべた。
「どうもこうもないだろう。30年連れ添って家庭を築いてきたんだ、得体の知れない運命よりも積み上げてきたもののほうが信用できるじゃないか」
率直に答えるとなぜかぱっと妻の顔色が明るくなり、先日家を出た一人息子の写真を見つめた。
「そうですねぇ。ああ、そうだ。久しぶりに旅行に行きましょうよ。銀婚式の時に行けなかった、長崎にでも」
妻はまるで少女のように嬉しそうにこれまた唐突なことを言い出したが、そういえばもう何年も旅行など行っていない。
「長崎……そうだな、久しぶりによりよりが食べたいな」
「よりよりってあの堅いお菓子ですか? 烏賊とか、ほかにもっとおいしいものがたくさんあるでしょうに」
後ろめたさにぼそりと呟くと、妻は目を見張る。
「ああ、ぼりぼり噛みしめるうちに広がっていくあの懐かしい味が好きなんだ」
「まあそうなんですか。そんなこと全然知りませんでしたよ」
妻がこんなに笑っているのを見るのは随分久しぶりのような気がした。
…… * ……
くるくる、くるくる。
月に腰掛けた黒ドレスの少女は紙縒のように堅くて太い糸を巻く。
両端はどこかに伸びた糸の途中から、くるくるくるくる。
糸玉が膝に乗せられなくなるほど大きくなって、ようやく糸の両端がぴんと張ってどこに繋がっているのかわかる。
さらに糸を巻きながらゆっくりと宙を滑り降りていく。
そして一組の夫婦の枕元に大きな紙縒の玉をおくと、くるくるっと指を回す。すると銀縁眼鏡が鞄の中から現れて、少女の手の中に消えていった。
「――運命より積み上げた事実、ね。無用の長物のようだから、返品してもらうわ」
少女はそれだけを呟くと、すぅっと闇の中に消えていった。