放課後の内緒話
『悪魔に注意!』
__何ともふざけたフレーズだ。
少なくとも私はそう思う。
学校の廊下の至る所に貼り付けられたポスター。
そこには大きく太字で書かれたその言葉と、悪魔と思わしき角の生えた獣のような生き物に襲われている人間が描かれている。
この世界には悪魔が存在する。
そんなこと当たり前じゃないか、と周りは言うけれど、私にとってそれは当たり前ではなかった。
いや、そう言うと少し語弊がある。
“当たり前ではなくなった”のだ。
いつだっただろうか。とにかくまだ幼い頃、私に『前世の記憶』というものが宿った。
前世では悪魔なんて迷信で、けれどそれ以外は今暮らしているこの世界と何ら変わらない。
私も最初は前世でよくある異世界転生やら乙女ゲーム転生かと思ったのだ。
後になって、少し違うらしいと気づいたけれど。
つまりは、数年間生きてきた自分とは違う人格や記憶が私の中に住みついたということである。
それは、今まで私と接してきた人にとっては、急に“私”が“私”でなくなったかのように思えたのだろう。
__あの子は、悪魔に取り憑かれたんだよ
馬鹿げた話だ。
私は悪魔に取り憑かれてなどいないし、特に変なことをした覚えもなかった。
ただ勝手に周囲の人間たちが私を気味悪がり、そう結論づけたのだ。
家族でさえも。
前世の記憶はあれど、今の自分の家族はきちんと認識しているつもりだ。
記憶といったって私にとってはただの映画やドラマの一コマのようなものだったのだから。
前世と今の私は別の人間だということは理解していた。
最初こそ周りに合わせようと色々試してみたけれど、次第に面倒になって、自分を偽ることに疲れて止めてしまった。
けれども諦めきれず、未だ私はこの世界で自分の思っていることを理解してくれる人を探している。
無駄なことだ、と諦めたくはなかった。
そうして十数年探し続けて、今私の周りにこの気持ちを理解してくれる人はいない。
ただ一人、例外を除いて。
「__なんともふざけたフレーズだよね」
ふいに、廊下に留まってポスターを見ていた私に声がかけられた。
ついさっき私が思っていたことと一言一句変わらぬ言葉を。
男子にしては少し高く、女子にしては少し低い、中性的な声と言うのだろうか。
聞いただけでは性別が判断しずらい声だと思う。
けれど私は、この声の持ち主が男子であることを知っている。
「こんにちは。今帰り?」
「こんにちは。もう少し暇を潰そうかと思ってたんだけど」
そしたら君を見つけたんだ。
振り向いた私に、彼がそう言う。
彼の色素の薄い髪と同色の瞳が夕陽に照らされて金色に光っている。
美しい、というよりは妖しい、という方がどちらかと言えばしっくりくる。そんな光景だ。
「暇人だね」と返すと彼は笑った。
「そうだよ。だから暇人な僕に付き合って欲しいな」
「何に付き合えばいいの?」
私の問いに彼が「うーん」と唸る。
考えてから言えよ、と思わないでもないが、こんなことは初めてのことでもないのであまり気にしてはいない。
私もどうせ暇なので、彼が思いつくまで待ってあげることにした。
ところで私は、そんな彼の名前を知らない。
知り合ってもう大分経つというのに名前どころか、彼が男である以外の情報は何一つ知らないのだ。彼が同学年であるかどうかすらも怪しい。
今更年上です、とか言われても口調を変える気はないのだけれど。
ただ、彼は唯一私と同じことを考える人だった。
彼の言葉に、考えに触れたとき、私がどれほどの感動を覚えたのか彼は知らないだろう。
もちろん知らなくていいが。
以来、彼とこうして廊下で会っては他愛ない会話をするようになった。
ようやく話題が見つかったらしい。彼が口を開いた。
「そうだなぁ......じゃあ、最近仕入れたばかりの話をしよう」
「話?」
聞き返した私に彼は「そう」と頷く。
「君は確か、悪魔を見たことがないんだってね」
「......ないけど、それが何?」
「今から僕がする話は、悪魔がいるものだと仮定して聞いてくれるかな」
沈黙をもって答えとし、彼に先の話を促す。
一体今から、どういう話をするというのだろう。
なぜ彼は私に、悪魔が存在するという仮定を念頭に置かせたのだろう。
様々な疑問が頭の中を飛び交うが、何も言わずに彼が話し始めるのを待つ。
「悪魔は、普段は人間とほとんど変わらない姿をしていて、普通に街や電車や、学校にもいるんだ」
「だから」彼が目線をポスターに移したのでそれを追ってポスターを見る。
「人々はわりと悪魔に出会っているし、その姿が人間と変わりないことを知っている。__悪魔が人を襲いなどしないこともね」
たまに、我慢しきれないやつもいるけれど。
彼が悪戯げに微笑む。
彼の話はとても興味深い。
私たちは悪魔に注意しろ、と言われるだけで、当の悪魔がどのような生き物なのかを教えてもらう事はない。
ただ日常的に、ニュースで彼らに襲われた人の話が上がるくらいだ。
「今まで大人たちに聞かされていた話が嘘だったということ?」
「嘘ではないよ。本当のことでもないけれど。......悪魔が危険な存在であることは事実だ。でも、少し考えてごらん? なぜ、絶対的な力を持つ全ての悪魔が人を襲うのだとして、人類はまだこんなにも生き残っているのかな」
確かにそうだ。
悪魔が本気で人を滅亡させようとしたら、きっと一日もかからないんじゃないだろうか。
それができるほどの力を彼らはきっと持っている。
「なら、なぜ? どうして悪魔は人間を襲わないの?」
「悪魔の統率者である魔王と、この世界の重役がある約束をしたからだよ。......互いに干渉し過ぎず、同じ地球に生きる仲間とする、とね」
「でもそれは悪魔の方が優位に立てる約束じゃないの?」
「そうでもないんだ。これ以上詳しく語ると話が長引いてしまうから、次に進むよ。また今度聞いてくれるかな? ごめんね」
けれど、と彼は続ける。
「これは悪魔が存在すると仮定しての話。とある話だからね。細かい部分はさほど重要ではないんだよ」
まだ本題ではなかったらしい。
彼はポスターから目線を外し、私を見る。
そのまま「じゃあ、本題」と人差し指を立ててそう言った。
「とある悪魔が、退屈しのぎに人間界にやってきて、人間と同じように学校に通い始めた。......彼はその高校で、ある少女に出会うんだ。はじめこそ、単なる遊びで少女と話をしていたけれど、少女のことを知る度、彼は少女に惹かれていった」
小説や漫画でありそうな話だ、と思った。
それにしても、男の子がこうした恋愛ものの話をするのは少し違和感がある。
どこでこんな話を仕入れてくるというのだろうか。もしかしたら、ただ本で読んだ話をそのまま話しているのかもしれない。
それは最後まで聞いてみればある程度分かるだろう。
彼が再度口を開く。
「けれど彼の中ではとある葛藤が生まれていた。少女と彼はいわば違う世界の生き物で、想いを伝えて仮に上手くいったとしてもどちらかが必ず大変な思いをするだろう。そう考えたからだ」
異種間の恋愛とはそういうものなのだろう。価値観の違いや、他の血族の反応もあるだろう。
同族どうしであってもそうなのだから、尚更大変なはずだ。
悪魔なのに、全く悪魔的要素を感じられない。いい人すぎる。
「けど、恋というのは恐ろしいものだよね。彼はついに我慢しきれず少女に問いかけた。『もしも私がここから貴女を連れ去ると言ったら、貴女はどうしますか』と」
「どうするも何も抵抗できなくない? 相手は悪魔で、連れ去るって断言しているのに」
「まぁ、そうだけど。......君なら、彼にどう答える?」
彼の質問にしばし考える。
けれどいくら考えてみても、答えは出てこない。
「私はその少女ではないし、今すぐ答えを決めるのは難しい」
結局、少女はどうなったの?
そう聞いたら、彼は少し微笑んだまま、教えてくれた。
「少女は連れ去られることを望んだ。けれど彼女に待ち受けていたのは、彼女が生きてきた世界とは全く別の世界で、周囲にいるのは人間をあまり好まない悪魔達。少女は次第に孤独に心を苛まれていってしまうんだ」
「連れ去ってきた悪魔は?」
「彼はどうにかしようとしたのだけれど、結果的には全て無駄に終わってしまった」
静かな声でぽつりと彼が言う。
「__気づいたときには彼女は冷たくなって家の床に転がっていた。耐えきれなかったんだろうね。自殺したんだ。......そんな彼女の足元に落ちていた紙にはこう書いてあったそうだよ」
__あの時、間違えていなければ
あの時、とは悪魔に貴女を連れ去りたいと言われた時のことだろう。
少女の苦しみは安易に想像できる。彼女は、私と同じ孤独を味わっただろうから。
本当の自分のことを知る人などどこにもいなくて、まるで透明人間にでもなったかのようなこの気持ちを。
こんなことなら、前世の記憶などなければ良かったのに。
彼女も恐らく、私と同じようなことをいくつも考えていたことだろう。
けれど私は彼女のこと以上に悪魔のことが気になっていた。
最愛の少女を失ってしまった悪魔はどうなったのだろう。きっと彼は少女よりも深い後悔と悲しみを感じたに違いない。
私が続きを待っているのを察したのか、彼は続きを話してくれた。
「そうして少女を失った悪魔は自分を責め、後悔し、彼女の後を追うように姿を消してしまった。これでおしまい」
「どうだった?」と彼は私に問う。
すっきりしない話だ、と率直な感想を言えばそうなのだが。
けれど彼の話が思っていたよりもリアルで、彼にきかずにはいられなかった。
「この話は単なる作り話、なんだよね?」
「そうだよ。悪魔がいると仮定した上でのお話。この話はもちろん実際にあったわけじゃない。......だけど」
そう言って彼は一歩、私に近づいてくる。
こんなにも近くから、彼の瞳を覗いたことなどあっただろうか。
そう考えてしまうくらいの距離に彼はいた。少しでも身じろぎをしたら、彼に触れられるくらい。
生まれてこのかた、こんな至近距離に異性が近づいたことなどなかった私は、恥ずかしさで顔を逸らすこともできずに固まってしまっていた。
ふと、夕陽が映ったのか、彼の茶色の瞳の中に赤色が混じったかのように見えて思わず目を細める。
そんな私に向かって、彼はいつもと同じ微笑みを浮かべてみせた。
「__もしも僕がここから君を連れ去ると言ったら、君はどうする?」