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母と僕

ランドセル

作者: 一一零

 入院している母の代わりに書道教室で子供の指導をすることになった。

 字はあまりうまいとは言えないけれど、一応中学生までは教える免許は持っている。

 教室で子供が来るのを待っていると、呼び鈴が鳴った。

 「どうぞ」と声をかけ、教室のドアを開けて玄関から入ってくる姉妹を待った。

 今日はこの二人だけだ。お姉さんは中学生。妹さんは小学高学年だ。


 ドアが様子を窺うように、少し空いては外で何か話す声が聞こえてくる。

 

 緊張しているのかもな……。

 

 僕と会うのは初めてなのだから、当たり前だろう。

 僕は、中々扉が開かない玄関に向かって、なるべく優しいと思われる声を出した。

 

 「こんにちは。どうぞ」


 声に反応するようにようやくドアが開いた。

 二人のかわいらしい姉妹が、少し照れながらに挨拶してきた。


 二人は、徐に靴を脱いで教室へと入ってくる。

 そして、正座をすると「よろしくお願いします」とお互い頭を下げ合った。

 そうしていると、母から聞いていたけれど、実際やってみると何か気恥ずかしい。


 姉妹は、慣れたように書を書き始めた。

 妹は、少し落ち着きがないようである。

 書きながらおしゃべりを止めず、姉に学校の話やらこの字が苦手やらと話しかけている。

 姉は相槌程度で、真剣に集中して書いていた。僕は注意した方がいいのだろうと思いながらも、しばらく様子を眺めていると、妹はランドセルを開けて何やらゴソゴソし始めた。


 そして、用事が終わったのか少し乱暴にランドセルを放った。

 すると、それを見ていた姉が

 「だめでしょ! いつも言ってるじゃない大切にしなさいって!」と、少し声を大きくして妹を叱った。

 妹はきょとんとした後、膨れっ面をして「は―い」と、返事をした。


 僕はそんな二人のやり取りをよそに、半開きのまま横たわるランドセルを眺めていた。


 ◆


 「ただいま」

 「……どこに行ってたの?」


 母が仁王立ちになって、玄関で構えていた。

 僕は、驚いた。

 ドアを開けたら母が両の手を腰に当てて、睨むように立って居たからである。


 僕自身も、ここまでとは思っていなかったけれど、怒られるという事は理解していた。

 けれど、まさか、ドアを開けたらそこに立って居ると思わなかった。


 帰り道、どんな言い訳をしようかと僕は考えていた。

 別に、人に迷惑をかけるようなことをしたわけではない。

 ただ、ランドセルが置いていた場所から消えていて、その話を親にしなければならなかった。


 僕が通っていた小学校は丘の中腹にある。

 毎日、数十分かけてその道を上って通っていた。

 丘の下の団地に家があったから、学校が終わって遊びに出る時、家にわざわざ帰ってランドセルを置いてからでは、余りに時間がかかる。

 僕はその日、丘の上に暮らす友達の家に招かれていたため、急ぎ家へとランドセルを置きに帰ろうとしていた。

 校門を出て丘を下降する道並みを歩いていると、交差点で大きなダンボ―ルを見つけた。


 僕は閃いた。


 ここに隠しておけばいいんだ!


 僕は、背負っていたランドセル地面に置くと、ダンボ―ルを上に被せてみた。そして、一つ頷くと招かれている友達の家に向かって、道並みを上に向かって歩き出したのだった。

 

 友達の家で、うちにはないス―パ―ファミコンと呼ばれるゲ―ムを楽しんだ。


 そして、いざ帰宅しようと友達の家を出て、ランドセルを隠していた場所まで来ると、僕のランドセルはなくなっていた。

 辺りを見渡してもそれらしきものはない。


 僕は心から焦った。


 やばい。どうしよう。


 けれど、ないものはない。どんなに血眼になって探しても、ないのだ。


 僕は、その時、十歳にも満たない歳だったけれど、このまま帰れば、親からの雷は避けられないと腹をくくった。


 玄関の前で、逡巡しながら、結局は入らざるを得ない。

 無くしたなどと言えば、どんなお仕置に合うのだろうか……。


 父には、きっとゲンコツをされ、母からは厳しい叱咤が待ってるに違いない。

 ため息交じりに、玄関のドアを開けた。


 そして、空けた瞬間、そこには仁王立ちの母が立って居たのだ。

 まだ何も言っていないのに、何でそこに立って睨んでいるのか……。

 玄関で僕はそんな母を見上げて、目を丸くしていた。


 「お前、ランドセルはどこだ?」

 「え……?」


 何故? どうして? 

 

 頭がこんがらがった。何でランドセルの事を知っているんだ?

 何故僕が、無くしたランドセルの事を、僕を見たとたんに話始める事が出来るんだ?

 

 困惑する僕に、さらに驚きの事が起こった。

 母は、自分の後ろから黒い物体を僕の前に突き付けてきた。


 それは、見覚えがあるとかという話ではない。今、その話の中心点そのものだったからだ。


 僕がそれを見て固まっていると、これはお前のランドセルだと言って、何故これがここにあるのかと問う。わかるわけがない。だからこそ、口をあんぐり開けて驚いているのだから……。


 母は、徐にランドセルを床に置くと、僕の頬をしたたか叩いた。

 パシンッと廊下に音が響き、僕はその衝撃から急に眼頭に溢れだしたものを流した。


 「私はお前をそんな子供に育てた覚えはないよ!」


 僕は、何故ここにランドセルがあるかはわからなかったけれど、母の説教が耳にいたく木霊していた。ジンジンする頬と鬼顔で見下ろす母。

 泣きながら「ごめんなさい」と謝った。


 母は、涙と鼻水でグチャグチャになっている僕を、やがてそっと抱きしめてくれた。


 「これは、お前が六年間いつも共にある物だよ。大切にしてあげなきゃいけないよ」


 ◆


 母のその時の言葉を僕は今でも覚えている。そう話した母の言葉の意味を、今は良く噛み締めて生活するようにしている。

 あの頬の痛みは、物を大事にすることの大切さを学んだ瞬間だった。 


 ランドセルの事は、後の笑い話となった。

 毎度、家族でその話が出るたびに、笑うネタとして今でも有効活用されている。

 

 僕がダンボ―ルで隠したつもりでいたランドセルは、同じ学校に通う姉が、帰り道に見つけて家に持ち帰り、母に知らせたのだった。

 しかも、僕がランドセルをそこへ破棄したのだと母に言った事で、あのような展開になった。

 

 いまだに笑い話のネタにされるけれど、僕は今でも

 「捨てたんじゃなくて隠してたんだよ!」と言う。


 けれど、姉の威厳というか意見は絶大で

 「私が見るからには捨ててあった」と言われると、家族の皆は姉の話を信じるようである。


 その度に少し癪には障るのだけれど、家族が笑顔になるのならそれでいいかもしれない。


 笑うというのは実に心が晴れ晴れとするものだ。

 僕にとっては、その思い出は、そんなに良いものとは言えないけれど、皆がそれで笑えるならいいように思う。

 笑うと元気になる。

 

 「悪い事ばかりに話すなよ。良い話をしろ」


 これが、母の口癖だ。


 僕は、最近になって、その通りだなとヒシヒシと感じている。

 

 負をまき散らせばそれは本当に負となって覆いかぶさってくる。だから、良い事を言おう。楽しい事をしよう。笑いあえることを話そう。


 今日を、今のこの一分一秒を、明日明後日と……。


 仕事場で、家で、常に笑顔になれる事をしよう。

 

 僕はいつからなのか、悪い事ばかりが口を突いて出てしまうようになっていた。

 別にだからと言って、常に不機嫌であったり暗い話ばかりしているというわけではない。

 どちらかと言えば、明るい性格だし、負の話ですら笑いに変えるような感じだ。


 でも、結局不幸を笑いのタネにしているだけで、それは本当の幸福とは言えない。


 僕が言いたいのは、その負の話をしないようにするという事。

 負を明るく笑い話にすることは出来るけれど、別にそれも悪いとは思わないけれど、でも、やっぱり気持ちが良くって明るくって、嬉しく楽しい話がいい。

 

 日々生きる上で、神に感謝し、世に感謝し、人に感謝して、笑顔で生きる事は素晴らしい。


 

 僕は心の底から、今そのように感じている。


 もうすぐ、神奈川から帰ってくる姉は、僕のこの変化をどう思うだろうか?

 変に思うかもしれないけれど、悪いようには取らないだろう……。

 

 一緒に生活する父や弟はどうだろうか?

 一緒になって笑いあうだろう……。


 そして、今入院している母が一番喜んでくれると確信している。


 僕はこの数か月で随分と心境の変化があったように思う。

 そして、ここに行きついた。


 そう言えば、あのランドセルどこにあるんだろう……? 

 

 僕は、書道教室ではしゃぐ姉妹の横のランドセルを眺めながら、遠く幼い頃の記憶が蘇り、懐かしくなった。


 母さんのあの時の剣幕は凄かったな……そして、最後は頬を撫でながら

 「痛かったでしょ。ごめんね」と、言っていたっけ……。

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