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ワーテルロー 70年

2017年1月1日~1月6日23時30分校了 ガラケー執筆

1月7日投稿となりました 旧暦じゃまだ年末だったりしますなあ。

2018年12/31追記一部改稿

【 そもそも何だってイタリア人がロシア人と一緒にフランスの英雄にして皇帝の最後の戦いを制作したのか?というお話から……まあ何の事は無いのだけれど昔から多民族国家だったフランスはオーストリア人によるブルボン王朝の支配下で発展し軍人や政治家は当時占領地だったイタリア人を利用してた。ついでにフランス料理はイタリアとロシアの合作…元々フランス独自の文化と主張出来るモノは何処にも無かった。まあそんな事実です。 】


原題:WATERLOO

英国軍の司令部所在地となった村の名前です。

イタリア.ソビエト連邦合作 劇場公開作品

同年日本公開.

■オリジナルの4時間半バージョンは今も行方不明のまま



 イギリスでは発音違いで“ウォータールー”プロイセン王国⇒後のドイツは実際の戦場となった“ラ・ベル=ラリアンス”の戦いあるいは“モン・サン・ジャン高地の戦い”となります。 1830年にオランダから独立し現在ワーテルローで観光イベント&博物館管理するベルギーは公用語がフラマン語(ドイツ語に近いオランダ語?フランス語の方言?色々諸説有り。)にフランス語です。 普通に考えたたらフランスが…あるいは貧乏こじらせたイギリスがアメリカに予算出させて作る筈なんですが 母親から“ナポリの漢”と名付けられたあのオッサン 生まれ故郷はイタリアのコルシカ島なのですよ。


あの島はブルボン王朝時代からフランスとイギリスが所有権を巡って係争を続け更には島独自の秘密結社、後々マフィアとなった“コーザ・ノストラ”という厄介な組織が有りますから今現在も微妙な扱いとなってます。 リーダーの別名が“神父=ゴッドファーザー=親父”な辺りは有名…だった筈ですよね。 凶暴さでイスラム系テロリスト 情け容赦無しの白痴的残虐さで南米系と中華系マフィアに負け、組織の平均年齢も大概老人養護施設になりかかってますが昔は恐怖の代名詞…うん、ちょっと脱線しましたから戻しますね。


イタリア出身のマッセナやミュラ等外国人将校が多数活躍したナポレオン軍。肝心要のフランスでは色々評価が別れる人物なのです、特に革命政権に酷い目に合わされた王党派が多かった南仏地方は未だに簒奪者扱いだったり…まあこの対立が後々フランスの歴史に貧乏くじ引かせる訳ですがその辺りは今回オミットします。 ヒトラーがフランス侵攻パリで止めた理由もそれだったりしますね。


ハリウッドで資金をしっかり稼いだイタリア人ラウレンティス・プロデュースで、監督&脚本はロシア人のボンダルチェク。 音楽はイタリア映画の巨匠ニーノ・ロータ。アメリカ人で生粋のニューヨーカーな“ロッド・スタイガー”がナポレオン・ボナパルト役。 カナダ人の“クリストファー・プラマー”…サウンド・オブ・ミュージックのトラップ大佐のイメージがある私は色々複雑ですがイギリス派遣&オランダ連合軍指揮官の英国人・初代ウェリントン公爵アーサー・ウェズリー役で登場。


※ウェズリー伯爵家の三男坊で子爵でしたがナポレオンとの戦争で1814年陞爵。


実際の場所は近隣に多数の民家&丘にはイギリス派遣軍が建てたライオンの記念碑があるから、撮影舞台はリアルさ最優先で土木工事で色々再現可能なウクライナに建物まで建設。 兵士役は大量動員&訓練可能なソビエト軍が全面協力する事になりました。 まあ、ギャラも魅力的だしね。参加人員は騎士役兼兵士役だけでも1万5000名 支援要員も含めると軽く2万名を超えます 地平線を埋め尽くす歩兵に騎兵隊の戦闘映像をCG無しで再現した滅茶苦茶なスケールの映画が完成します。


実際のワーテルローの戦い・1815年6月18日・日曜日11:35~夜9時頃までの戦闘はフランス…実情はイタリア人にフランス人、ポーランド人等英雄個人に忠誠を誓ったナポレオン軍側7万2000名に対し、英国&オランダその他連合軍6万8000名 最後に殴り込み勝敗を決定付けたプロイセン軍は5万名…これだけの人数がたった1日の戦闘に投入され 死傷者はナポレオン側2万5000名、同盟軍側2万3000名。


内、騎兵だけでも双方合わせて3万近くが乱戦を繰り広げてますから映画のアレはガチです とまあ此処まで書いてお気付きでしょうがワーテルローの戦い当事者各国側の見解は全く反映されておりません(笑) 但し会話シーンは全編英語 こんだけ多国籍で登場人物が入り乱れると意思疎通が可能な共通語がそれだけなんよ。 共同制作となったロシア(当時はソビエト連邦1969年公開:フィルムは行方不明)には4時間ノーカット・バージョンが有ります。 6月16日にプロイセン軍が1万2000名の死傷者出したリニーの戦闘シーンはそちらでしか閲覧出来ません 何とかロシアには完全版出してほしいものです。


※国境の前哨戦~リニー&カルトブラ等の防衛拠点でプロイセン16000.他の同盟軍4800.ナポレオン側12000が死傷しました。


勿論出すなら日本語吹き替えに分かりやすいナレーションが欲しいなあ。

DVD版は特典一切無しで字幕が細かい間違いだらけ(涙)会話シーンが英語じゃなかったら色々きつかった 今更検索すんのも面倒だし聞かないけど、これって例えば“関ヶ原の戦いの映画”を台湾監修 フィリピン&タイ合作で作った様なもんだよな…まあ、ハリウッドが散々やらかしてますから今更ですか。


例によってストーリーはネタバレ有りですが説明描写をカットする等 物語を半分削った為 時系列が変わったり辻褄が合わない場面が有ります。 時系列を合わせつつ敢えて除外した細かい設定も私が解る範囲で書き出してみます。では本編です。



【ヨーロッパじゃ皆様ご存知の歴史ですから説明不足気味です。予備知識を仕入れておくと色々楽しめます。】


 物語は1814年、ナポレオン没落の描写から始まります。革命政権の迷走から1804年に皇帝に成り上がった彼は、1812年にロシア征服失敗。以降の戦闘でも戦術的勝利と戦略的敗北を重ねていました。ナポレオンが直接指揮指導した戦場は必ず勝ちますが敵は皇帝が居るとわかると即座に撤退。他の戦場ではフランス側の大敗北。敗北のプロ=長年ナポレオンと戦い続けた御年71歳のブリッュヒャー提督と彼の初代参謀シャルンホルストが育て上げた新世代の軍人達…グナイゼナウ.ビューロー.クラヴゼヴィッツ等の“プロイセン王国軍参謀本部”は既にフランス軍を封じ込めるシステムを構築し対仏同盟軍各国に伝達。延べ32回にも及ぶナポレオンの勝利は全く役にたたず結局パリもオーストリア軍が制圧。


 不甲斐ない元帥達にイライラし、実は数年前から胃の痛みを始めとする体調不良にも苦しめられていたナポレオンは、皇帝退位&エルバ島流刑とする形での停戦に応じてしまいます。フランスの統治者は対仏同盟各国の要望でプロイセンに匿われイタリアに亡命中だったルイ16世の弟、60歳の“プロヴァンス伯爵”がルイ18世として就任。ブルボン王朝復活となりました。ルイ18世役は残された肖像画参考にオーソン・ウェルズを加工(笑)…何故か150%増量で悪役面な化け物になりました。映画見たお客様はもはや肖像画に比べ原型をとどめてすらいない“吉田戦車の伝染るんです”に出そうなブタもとい達磨体型のジジイに衝撃受けたと思います。


フランス存続の為敢えて傀儡として対仏同盟軍各国に言われるがままナポレオン派の軍人を身分関係無しに僅かな退職金で軍から放逐。革命で資産を名誉を失った貴族階級の復活。フランス革命で王党派弾圧に荷担した人物の拘束を始めてしまいます。その結果、当初はようやく訪れた平和を歓迎した市民や軍人達に不満が広まっていました。


 ルイ18世が報復行為をおこなった理由は傀儡としての立場や兄夫婦の復讐だけでなく息子夫婦の意志も反映されてます。映画では台詞無しの出オチキャラですが最後のブルボン・シャルル10世の妻はあのマリーアントワネットの娘。幼い頃から革命政権に家畜扱いされた上、兄ルイ17世シャルルを実質なぶり殺しにされた経験を持つマリー・テレーズです。命を助け祖母の住むオーストリアへの帰還を支援。叔母の夫になったナポレオンへの恨み辛みはなかったものの革命政権=民衆への恐怖と憎悪は終生彼女を苛みました


そんな中元部下達から現状打破を懇願され、更には年金打ち切りに暗殺未遂事件で追い詰められたナポレオンは既に掌握していたエルバ島の勢力と共に抗議活動を計画。1815年2月に監視役の同盟軍将校キャンベル大佐がイタリア休暇で島を離れた隙に徴用した7隻の軍艦に合計1000名の部下達を乗せ3月1日フランスに再上陸します。このシーン・ナポレオン役ロッド・スタイガーの手の演技が凄み出してますが、半ばヤケクソで始まった反抗は鎮圧の為派遣された政府軍が次々合流する事で勢力拡大し僅か20日間でパリを制圧。遂にはフランス全土を掌握してしまいます。ルイ18世は3月20日にオランダ領ベルギーに亡命。ナポレオンの100日天下が始まります。


余談ですが随分昔にデジタルリマスター前の荒いビデオ画像しか知らない私はフランス軍のピチピチタイツから丸分かりなアレで爆笑しました。最近笑いの沸点が低いです。


 なし崩し的に皇帝に帰り咲いたナポレオンは戦争再開を避ける為、和平交渉を持ちかけますが傀儡政権を崩壊させた彼に対仏同盟諸国は激怒。鎮圧の為の軍隊派遣を決定します。包囲軍の総数は75万名。近場に存在するのはベルギーに慌てて集結・再編成中のイギリス&オランダ連合軍9万5000名に、真っ先にフランスに進軍始めたプロイセン王国軍12万名。各個撃破を図る為、なんとか集めたフランス軍60万人から12万4000名を抽出し、ナポレオン自ら率いて6月12日月曜日に攻勢に出ました。同月15日木曜日にベルギー国境の防衛拠点シャルロワを突破しプロイセン軍と全面衝突します。


【ちょっと息抜き。1815年から始まる数年にわたる天変地異と背後で蠢く者達について】


 この年の2月。オランダ領インドネシアの“タンボラ火山噴火”で世界的な異常気象が始まります。本来4000m級の標高があったこの山の土砂1000m分以上が噴火で成層圏まで吹き飛ばされ赤い雪となって世界中に降り注ぎました。世界中で小麦や稲が壊滅的な被害を被り。日照不足で5年近く不作が続きます。真夏に突然大雪。直後に急激な気温上昇と嵐の発生。映画でも舞踏会や戦場移動シーン。ワーテルローを襲った夕方の嵐で再現された光景が世界中で繰り広げられました。本来の季節なら小春日和なワーテルローは騎馬すら通行不可能な泥沼だらけになります。急激な気温上昇で地面が乾くまで騎兵による事前偵察や連絡もままならず。モン・サン・ジャン高地に布陣し敵勢力の動きや規模を正確に把握していた同盟軍に対して、ナポレオン側は敵戦力不明なまま今までの経験と直感で兵力を展開する事になりました。


 1790年からフランス軍だけは空中からの偵察や情報収集が可能な“熱気球&水素気球部隊”を持っていましたが移動に時間がかかる事。何故かナポレオンが生涯重要視しなかった事から、ワーテルローではオミット。情報不足による致命的な結果を生んでしまいます。ところで世界中が食料難と異常気象で悲惨な事になってる筈が、全く影響受けなかった国が有ります。江戸時代、鎖国政策実施中の日本だけは普通の数年間だったのよ。近隣諸国は全く知りませんでした。てっきり同じようになってる筈が何故?実は未だに原因不明です。小石川家地下の地脈調整システムでも稼働してたかな?


これも映画本編とは関わりのない内幕話ですが、対仏同盟諸国はかれこれ10年以上。イギリスやオーストリアハンガリー帝国に至ってはブルボン王朝時代からかれこれ100年以上断続的な戦争を続けていました。莫大な戦費は植民地からの利益や税収では完全には賄えない事から、国債として世界中の金融業者で売り買いされる事になります。特に莫大な利益を上げてしまったのがフランクフルトからイギリスに移住したロスチャイルドですナポレオン政権復活で底値まで価値が下がった、イギリス発行の戦費国債を爆買い。ワーテルローの戦い直後に価値が暴騰し上がりきったところで一気に売り抜け、莫大な利益を上げて悪名を轟かせてしまいます。


彼等が何処で正確無比な情報を集め活用出来たのか?こちらもやっぱり謎だったりします。


【ベルギーの都ブリッセルでリッチモンド公爵夫人主催でおこなわれた舞踏会は市民のパニック防止と婚約者の接見目的でした。】


 1815年6月15日木曜日。イギリス貴族・リッチモンド公爵夫人シャーロット主催の舞踏会は予定通り華やかに開催されました。映画ではえらい手間がかかったシャンデリアや豪華な内装のパーティー会場(記念に描かれた絵画から再現)実際は経費節約の為、リッチモンド公爵チャールズが借りていた邸宅の馬場を夫人や娘達が手作りで改装しておこなったそうです。因みにそっちも後年訪れた画家が残したスケッチが有ります。


あくまでもこれは映画の話ですから、そちらに合わせてストーリーや背景書きますね。事実はどうたったか?は教科書や歴史家の仕事です。


主な参加者は、イギリス及びオランダ派遣軍の若手将校と幹部達。そして地元の貴族階級にオランダやイギリスから訪れた婚約者や妻に家族達です。ナポレオン軍接近のニュースが流れる中、敢えてイベントを強行したのは、市民のパニック~避難による進撃&補給ルートとなる街道混雑阻止と明日はどうなるかわからない彼等の士気向上と家族や婚約者達との懇親会です。


映画見てると、てっきりウェリントン公爵の妻か愛人と勘違いしそうになりますが最初の親子で会話するシーンでリッチモンド公爵チャールズがちゃんと出てます(笑)背が高く影が薄い若い兄ちゃんが彼です…てっきり息子と思ってましたがアレが旦那!?シャーロット夫人は勝ち組でした。


ウェリントンの盟友でもある彼の仕事は、ブリュッセルに拠点を置いたイギリス&オランダ派遣軍の編成と後方支援。映画では娘は若手士官ヘイの婚約者となったサラの描写しか有りませんが実際は多くの息子や娘達がパーティー会場に居ました。小さな町に野郎ばかり9万近い人員を集結。彼等の衣食住の手配や装備品の搬入、果ては町の有力者達とのトラブル交渉等かなりのハードワークを家族&家臣一同でやってのけますが勿論映像有りません。


映画の為に特訓を重ねたアイリッシュダンスとバグパイプの演奏。絵画を参考資料に再現したドレスを着た娘達の華やかなシーンを交えながら、ウェリントン公爵を囲む戦友達…急遽呼び出され軍服が届かずシルクハットにモーニングの私服で指揮する事になる“ピクトン中将”嗅ぎ煙草を愛用する先祖代々騎兵なスコッツグレイ第2竜騎兵連隊“ポンソンビー少将”忠実で大胆不敵な副官“アクスブリッジ中将”スコットランド92連隊中将でリッチモンド公爵夫人の兄“ゴードン公爵(当時はまだ侯爵)”若手士官は戦争初参加の“ジェイムズ・ヘイ卿(伯爵予定)”にアメリカ出身の主計総監“ウィリアム・デランシー大佐”と4月に結婚したばかりのマドレーヌの姿が有りました。


外は壮絶な嵐。合間合間に会場に飛び込んでくるプロイセン軍やオランダ派遣軍の伝令。進撃するナポレオン軍の状況を見せながら舞踏会のシーンは続きますが……映画見てて誰が誰やら本当に分からん(爆)結局ネットで色々調べる羽目になりました。せめて登場シーンに名前入れて欲しいっす。


真夜中まで続いた舞踏会の後、三時間の仮眠を挟みイギリス&オランダ派遣軍はブリュッセルから出発します。


【6月16日金曜日リニーの戦い&カトルブラ防衛戦~同盟軍撤退。戦場はワーテルローへ。】


 突発的な豪雨が発生する悪天候の中、戦闘に慣れたベテランと士気が高い志願兵で構成されたナポレオン軍は(但し元帥~将軍はポンコツ)イギリス&オランダ派遣軍が現地に到着する前に戦闘開始。リニーの戦いと呼ばれる戦闘でプロイセン軍最高指揮官ブリュッヒャー元帥が乱戦に巻き込まれ重傷。一時行方不明となり参謀長のグナイゼナウが臨時指揮。かろうじて全軍崩壊を食い止めますが、多数の死傷者や逃亡兵を出し撤退します。


※8000名が逃亡。プロイセン王国軍の主力は傭兵です。


イギリス&オランダ派遣軍はミシェル・ネイ元帥が率いるナポレオン軍の別動隊とベルギー中部の防衛拠点カトルブラで衝突、かろうじて進撃を阻止したもののプロイセン軍伝令からリニー戦敗北の情報を知らされたウェリントンは直接戦場に向かいプロイセン軍と合流する事を断念。各防衛拠点を放棄し兵力をかき集めながらベルギー北部に転進します。オランダへの留学生時代に何度か旅行で訪れ、自分の領地より詳しい土地、ワーテルロー村を決戦の地と定め背後に一見侵入不可能な深い森林(実は大軍どころか大砲すら移動可能な安全な森)があるモン・サン・ジャン高地に全軍を布陣し追撃をかわしながら再編成中のプロイセン王国軍到着までの時間稼ぎを決断。


※この辺りの描写は殆どカット。説明描写無しで大損害を受けたプロイセン軍の惨状に、イギリス軍追撃の為追加戦力が欲しいネイ元帥と激怒するナポレオンの口論描写が意味不明シーンになってしまいました。尚この映画では名前だけは出てくるけどオランダ派遣軍の描写有りません。他には都市国家のハノーファ.ナッサウ.ブラヴシュヴァイク.ベルギーの部隊も居ました。旗は有るけど勿論出番無し。


※ヨーロッパ北部特にベルギーの森林地帯は現在も毒性の強い狂犬病を媒介する凶悪なダニや狼や熊が生息する危険地帯です。ドイツが当時ハノーバーにケルン等多数の都市国家に別れていた理由の一つがこの森に有りました。


 プロイセンの大敗北。イギリス&オランダ派遣軍の撤退を知ったナポレオンは今までの経験から戦争にほぼ勝利したと判断。グルーシー元帥、副官ジェラール将軍に3万4000名もの戦力を与えプロイセン軍の追撃&殲滅を指示。自らはネイ元帥と共にイギリス&オランダ派遣軍の追撃と殲滅を決断。ほぼ不眠不休の状態で更に原因不明の頭痛に苦しみながら豪雨の中進撃を続けます。


ウェリントンがこの辺りに土地勘があるとは夢にも思っていませんでした


“勝っているのに負けている”映画でのナポレオンの心境はそんな感じです。事態打開の為、再び少数戦力での大博打。優秀な将軍達はわずかとなり国内から動かせず。周囲にはイエスマンと太鼓持ちな無能ばかり。自分が倒れたらフランスはどうなる?不安感と恐怖に更に頭痛に苛まれ疲労困憊しています。同盟軍を追ってベルギー北部に進出したナポレオン軍は翌朝の攻撃準備にかかります。


【死亡フラグばかりなイギリス&オランダ派遣軍vs負けフラグばかりのナポレオン軍。戦闘は軍楽隊と砲撃戦から始まりました。】


 6月18日・日曜日。久しぶりの快晴。司令部の隣りに有る教会では日曜礼拝の鐘の音が“何故か弔鐘の様に不吉に鳴り響き”ナポレオンは機嫌を損ねます…フランス軍侵入で神父や近隣住民は逃亡。無人の状態で何故鳴り響いたかは謎です?

更に連日降り続いた豪雨により地面がぬかるみとなり大砲や騎馬の移動困難。早朝からたたみかける筈だった総攻撃は地面が乾く昼前に延期となりました。


プロイセン王国軍の追撃を命じたグルーシー元帥からの報告は未だに届かず、不安の残る戦闘となるのは確実。スルト元帥に命じて伝令を送り出し帰参を指示しますが“伝令として送り出された兵士はわずか1名”途中で落馬事故やらかし命令が追撃部隊に届く事はとうとう有りませんでした。結局グルーシー元帥率いる3万4000名はプロイセン王国軍に追い付く事もなくワーテルローの戦い終了後まで迷子となります。連日の勝利で士気旺盛な兵士達や将軍達とは対照的にナポレオン自身は連日の強行軍と判断を強いられた心理的負担で既にボロボロ。馬から降りるともはや自力では歩けない状態でその時を待ちます。


 モン・サン・ジャン高地に陣を敷いたイギリス&オランダ派遣軍は自分達の兵士より遥かに士気旺盛で優秀な兵士達に呑まれそうになりながらもウェリントンの周囲に集まった歴戦の幹部達と軽口を交わしながら敵の動向を見守っていました。兵士の数は同盟軍側が若干不利。騎兵連隊はともかくも歩兵の大半が今回臨時に集められた新兵ばかり。実はアメリカ合衆国との戦争(1812~1814)で経験豊富な兵士や士官はそちらへ派遣してしまい主力は間に合わなかったのですよ。再編成中のプロイセン軍が戦場に到着するのは早くともお昼過ぎ。いかに時間を稼ぐかが勝利の鍵でした。


敵戦力不明。おそらくはリニーの戦いに参加した兵力より少し多い4万人程度と判断したナポレオン軍は11時35分。中央突破を図る為、砲兵隊のラ・エイ・サント集中砲撃を手始めに手薄に見える左翼ウーグモン農場に弟ジェローム・ボナパルト将軍指揮の歩兵連隊を突入させます。中央ラ・エイ・サントから敵の増援があり次第即座に撤退する事になっていましたが守備隊は頑強に抵抗。ジェローム将軍は兵力の逐次投入を余儀無くされます。


※砲撃受けたウェリントン側は懐中時計で時刻確認(ちなみにフランス・ブレゲ社の時計は両軍愛用)周りに多数の兵士が居るから冷静に対応「さあ狐狩りを始めよう」とウェリントンの命令下配置につきます。


※実はこの段階でも地面のぬかるみは最悪のコンディションでした。ウェリントン達が冷静に対応出来たもう一つの理由が不発弾の大量発生です。フランス軍砲兵の強みは従来の単なる鉄鋼弾ではなく大量の溜弾が使えた事なんですが弾の大半が泥にめり込み不発。見た目程効果上げれません。


若干のタイムラグを置いて午後1時30分に中央ラ・エイ・サントに待ち構えるハノーファ師団とベルギー師団に攻撃部隊の主力。エルロン将軍指揮の歩兵師団と胸甲騎兵連隊を突入させました。両軍が撃ちまくる大砲や煙幕、マスケット銃の煙で視界不良状態の接近戦が繰り広げられます。


 ウェリントンはウーグモン農場への攻撃を囮と判断、貧弱な装備に経験不足の素人ばかりの小国師団支援の為、ピクトン中将率いる歩兵連隊とゴードン中将率いるスコットランド連隊を投入。ピクトン中将はモーニング姿にシルクハットと傘を持ち、気合い入れる為に(ジン)をがぶ飲みさせた部下達の先頭に立ち前進しますが流れ弾が命中…即死します。


一瞬吹いた風の向こうには6000名のフランス軍歩兵と前進しながら射撃する砲兵隊の姿が…スコッツグレイ・第2竜騎兵連隊を指揮するポンソンビー少将は救援と砲兵撃破の為突入しますが、ナポレオンは待機していたジャッキノ将軍率いる“ポーランド槍騎兵連隊”を投入。同じく側面支援で突入した“胸甲騎兵連隊”の襲撃を受けスコッツグレイは退却。ポンソンビー少将はかつての父親同様、泥沼にはまった所を7人のポーランド騎兵に討たれ戦死。但しこの突撃と応援部隊の踏ん張りで戦線をかろうじて維持しました。


何時まで経ってもグルーシー率いる別動隊はやってこない。戦線が膠着する最中指揮指導中のナポレオンは胃痛で突然ダウン。ドクターストップとなりナポレオン軍臨時指揮はミシェル・ネイ元帥に託されました。


【夜が来る。黒喪の軍が死をもたらしにやって来る…実は午後1時頃からずっと居たんだけど…誰も気付かなかった。】


 戦線は膠着していましたが砲弾は容赦なく本陣に撃ち込まれます。犠牲者も出始めた事、前線維持が困難になってきた事からウェリントンは全軍100歩(別説は100m)撤退を命じます。但しウーグモン農場の部隊には死守命令。応援部隊は有りません。伝令として本陣に待機中のジョナサン・ヘイ大佐にはブリュッセルへの帰還を命じますが彼は後方待機中の歩兵連隊に紛れ込みます。


時刻は15時30分。皇帝代理として戦線の指揮指導中のネイ元帥は撤退を敗走と判断。追撃が可能な胸甲騎兵連隊のみで自ら一斉突撃を敢行。ナポレオンの阻止は間に合いませんでした。丘の向こうで胸甲騎兵連隊が目撃したのはマスケット銃を構える兵士6000名による13個もの巨大な方陣と砲兵隊の集中射撃。騎兵連隊は大損害を被ります。方陣を指揮する兵士達の中にヘイ大佐の姿が有りましたがウェリントンの目の前で乱戦となり呆気なく戦死します。方陣に立てこもる兵士達と敵戦力は共に倒れ戦線は再び膠着状態になりました。


後方陣地を構築したウェリントンは待機中の部隊に合流。その時フランス軍の砲弾が陣地に命中。参謀役のウィリアム・デランシー大佐が吹き飛ばされ後送。その後野戦病院で亡くなりました。辺りは大砲の爆風と突然の嵐で視界不良に「どうやら勝ったな」夕方17時頃、ナポレオンは最強戦力青年親衛隊と老年親衛隊を投入します。長年共に戦った戦友達とナポレオンは前進しますがネイ元帥や将軍達に説得され後方陣地に下がります彼の顔には明らかに死相が出ていました。侍従に支えられながら親衛隊の前から姿を消します。ジェローム将軍が苦戦を続けたウーグモン農場も最後の防衛拠点、地主の屋敷を制圧。屋根の上には三色旗が翻ります。


 「どうやら負けたな」ウェリントンは呟きました。ゴードン中将が各歩兵連隊を、騎兵総監で副司令官のアクスブリッジ中将が残存騎兵連隊をかき集めましたがマスケット銃の弾は残り5発。「ブリュッヒャーよ来い。夜よ来い。」ウェリントンは力無く呟きます。実はお昼過ぎに戦場に到着。ナポレオン軍の後衛部隊を次々と撃破していましたが情報はウェリントン側にも勿論ナポレオン側にも流れていませんでした。ずっと戦ってたけど爆風と煙で見えなかったのよ。突然の嵐も彼等の姿をギリギリまで隠します。


地平線を埋め尽くさんばかり全面攻勢。同盟軍側の敗北必至の状態はその直後にひっくり返ります。パリの森とよばれる森林地帯の中から現れたのはブリュッヒャー元帥率いるプロイセン王国軍5万人の大軍勢


「子供達よ!夜が来た!!満願成熟の戦争の夜が!!!死の夜がやって来た!!!!。我が黒喪の旗を高く掲げろ!憐れみも捕虜も要らぬ!!目に入る者は全て討ち果たせ!!!」


このシーン史実通りの姿ですがプロイセン王国軍が黒色一色。暗闇が近づいた時間帯の突入が派手な割に滅茶苦茶地味です。当時のプロイセン王国軍騎兵は胸甲騎兵。銀色に輝く胸甲に黒の喪章、マントや装飾として後々ナチスがまんまパクるトーテンコップの図柄等、滅茶苦茶派手でした。突然の逆転劇に士気上がるイギリス&オランダ派遣軍は連続射撃の後、騎兵連隊共々最後の突撃を敢行します。流れ弾(砲弾)でアクスブリッジ中将は片足を失いましたがウェリントンは追撃を強行しました。


※実際はあそこじゃなく追撃中に負傷します。以降アクスブリッジ中将は義足の騎士として名を残しました。


※2日前に重傷負ったブリュッヒャー元帥が五体満足で元気に演説…映画ではそうなってますが流石に無理。リニーの戦いに間に合わなかった為無傷の大戦力を投入出来たビューロー将軍と気配りの人グナイゼナウ参謀長の連携攻撃です。ちなみにあの爺さん6月15日のブリュッセルの舞踏会にも参加した絵画が有ります。


ナポレオン軍の攻勢は頓挫。多くの兵士達が敗走を始めます。ネイ元帥はサーベルを振るい抵抗を呼びかけますが敗走の動きは止まりません。ナポレオンも慌てて前線に駆けつけますが最早手遅れでした。


“無傷の本国軍約47万名の戦力にグルーシー指揮下の3万4000名+無敗のダヴー元帥合流が成ればまだチャンスはある”将軍達はナポレオンを無理やり前線から引き離し後送します。老年親衛隊が全軍囮となって命懸けでイギリス軍を引きつけ…映画のあのシーンとなりました。


敵味方大量の死者から近隣に潜んでいた住民達が略奪…映画のラストはそんなシーンから始まります。全てが終わった戦場をウェリントンは単独で見回ります。そこには見覚えのある多くの兵士達の無惨な姿が有りました。


【映画では描かれなかった本当のラスト。英雄への裏切り行為について。】


 敗残兵力を再編成し6月21日水曜日にフランス本国へ帰還したナポレオン・ボナパルト。元帥達に多くの兵士達。そしてパリ市民達も改めて徹底抗戦を呼び掛けていましたが、皇帝復帰と共に再び権力の座についた革命政権・国民議会はあっさり彼を裏切ります。翌6月22日皇帝退位を宣言しナポレオンとその側近に家族までも国外追放。彼に忠誠を誓った元帥達に将軍達も次々逮捕。あるいは処刑。国民議会は“フランスを救う英雄”として追放されたルイ18世とその家族を再び呼び戻します。7月8日パリ入城ブルボン王朝復活。フランスは再び混迷の時代に逆戻り、陰惨な内ゲバ合戦を延々と繰り広げる事になりました。


フランスそのものに見捨てられたナポレオンと家族はイタリアに滞在。ナポレオン自身は結局イギリスへ亡命します。アフリカ大陸と南米大陸の中間地点にある南大西洋のイギリス領セント・ヘレナ島で妹ポーリンやわずかな側近と共に晩年を過ごす事になりました。程なく癌を発症51歳の生涯を終えます。実は退位直後フランスから追い出されようとするナポレオンにアメリカ合衆国が亡命を勧めていました。記録文書等で事実関係が判明したのは2015年の事です。

フランスどころか生まれ故郷のイタリアにも戻れない選択でしたがもし実現していたら色々面白い事になったかも知れません。


…という事で2017年最初に見た映画の感想でした(笑)映像や事実関係確認する為5回も観たぞど畜生。



ではまた次回。




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